吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

第八節「隔てる刻印 -3-」

「ねぇー、まだ治らないのー?」
 間延びした声で、クロトゥラが退屈そうにそう言った。僕らがまだミメットの街で暮らしていた頃――、『日常』を『当然』と勘違いしていた、お気楽だった頃の話だ。
 僕は寄り掛かっていた枕へ手を伸ばし、それをクロトゥラに向かって渾身の力で投げ付ける。弟の、まるで他人事かのようなその言いぐさにカチンときたのだ。するとクロトゥラは小さな叫び声をあげて、僕のことを睨ねつけた。
「なんだよ、お見舞いに来てやったのに、ぶつける事ないだろ!」
「お見舞いって言ったって、自分の部屋へ帰ってきただけじゃないか。……マクラで済んでマシだと思え。足の骨が折れてなかったら、絶対、タンコブ作ってやったのに」
 僕は大きく溜息をつくと、包帯でぐるぐる巻きになった自分の足を睨み付ける。ああ、もどかしい。イライラするのは全て、この足のせいだ。
 三日前のことだった。僕たち二人は古倉庫の屋根に登って悪ふざけをしていたのだけれど、その時、僕が屋根を踏み抜き転落し、足を骨折してしまったのだ。
 落ちただけでも恥ずかしいのに、足まで折るなんて最悪だ。そう思いながら深く溜息をつき、クロトゥラへひょいと視線を戻す。
(――その時は真っ青になって、怪我した僕以上に泣いたくせに)
 少し経ったと思ったら、すっかりけろりとしているんだから。僕はトイレにも一人で行けないし、じれったく思う事ばかりなのに。
 するとさすがにクロトゥラも、僕の機嫌の悪さに引き際を悟ったのだろう。「オヤツ、取ってこよ」と独り言のように言い残し、さっさと部屋を出ていった。僕は扉に向かってあかんべぇをして、――入れ違いにやってきたフェリットを見、慌てて舌を引っ込める。
 フェリットはくすくす笑って枕を拾い上げると、「お見舞いに来たわ」とふわり笑って、それを僕に手渡した。
「クロトゥラったら、あなたと遊べないのが寂しくて仕方ないのね。ここしばらく、家の周りをつまらなそうにふらふらしてばかりだわ」
 その姿は目に浮かぶようだったけれど、僕はあえて、そうは言わなかった。代わりに頬を膨らませたまま、手にした枕を押しつぶす。
「あいつ、早く治せとかムチャクチャなことばっかり言うんだ」
「心配してるのよ。もう一人のネロを」
 言って、フェリットがまた笑う。それから彼女はこうこぼした。「羨ましいなぁ」と。
「あなた達は、……『二人のネロ』はこれからもきっと、お互いを助けあいながら、励ましあいながら、生きていくのね」
 優しい風が差し込んで、窓辺のカーテンを揺らしていた。僕はゆっくり瞬きして、フェリットの顔を覗き込む。
 すると不意に、扉がカチャリと音をたてた。
「ねぇ、あのさ」
 入って来たのはクロトゥラだ。弟は手にいびつなケン玉を握りしめている。たぶん、自分で造ったのだろう。
「僕、考えたんだけど、――。これなら、部屋の中でも一緒に遊べるよね?」
 言って、クロトゥラがおずおずと笑いかけた。フェリットも何故だか嬉しそうに、一緒になってにこにこ笑った。
 だから僕も、なんだか自然と笑ってしまった。
 それが『幸せ』だったのだと、今になってはよくわかる。
 幸せだった。そしてそれが、ずっと続くと思っていた。
 ああ、――
 思い違いも、はなはだしい。
 
 何か文字が書いてあるのかと思っていたその焼き印は、よくよく見れば、どうやら交差した刃を象ったもののようだった。猛々しい印には違いなかったが、しかし弟の細腕にはそれがどうにも不釣り合いで、なんだかやけに悲しく見えた。
「お前の片割れは、お前の知らないうちに立派に犯罪者の仲間入りをしてたってわけだ」
 髭の男が、僕にそう囁きかけてくる。
 熱とは別に、寒気がした。僕が顔を真っ青にして何も答えられずにいると、男はそれでも笑い止まずに、今度は大声でこう言い募る。
「可哀想だよなぁ。他に金を工面する方法がなかったのさ。おい、そんなに真っ青になってやるなよ。元はと言えばおまえの病気が、――おまえが、自分の片割れにそういう道を選ばせたんだぜ」
 僕の肩が、びくりと震えた。
 同時にクロトゥラが気色ばみ、男を睨み付けたのがわかる。そうして弟は色黒の男の拘束から逃れようと身をよじり、叫ぶようにこう言った。
「ふざけるな! 僕が……俺が、勝手に選んだんだ! 何にしろお金は必要だった。シロフォノは関係ない。シロフォノから、手を離せよ! もう何日もろくに食べてない。早く医者に連れて行かなきゃいけないんだ。だから……!」
 色黒の男は無表情なまま、力を緩める様子は少しもない。一方で髭の男は尚更笑みの色を濃くして、クロトゥラの言葉を一笑に付す。
「医者に診せるって? ……馬鹿か! この町の医者はどんなに金を積まれたって、ミメットのガキなんか診やしねえよ。原因不明の病気が出たってんで、どいつもこいつもびびってやがる。疑うんなら試せばいい。けど、忘れたのか? おまえは既に『焼き印持ち』なんだ。もしその事が医者に知れてみろ。金は奪われ、片割れ共々憲兵に突き出されて、世の不条理を恨みながら死ぬことになるのは目に見えてるぜ」
 赤くなった目を見開き、クロトゥラがはっと息を呑む。怯えるように肩を震わせた弟は顔面蒼白になって、焼き印を隠すように、そしてその存在を確かめるように、そっと自分自身の右肩に触れた。シェーレと呼ばれた色黒の男は既に拘束を解いていたのだが、クロトゥラがそこを離れる様子はない。
「けど、……じゃあ、どうすれば」
 呟く声が、もはや疲れ果てている。僕は耳を塞ぎたくなるのを、そして目を閉じたくなるのを必死で堪えながら、ただ棒立ちに立っていた。
(僕のせいだ)
 僕が熱なんか出して、倒れたから。医者に診てもらうためには沢山お金がかかるから、だからクロトゥラは、こんな無茶な道を選んだのだ。
 クロトゥラの足下に落ちたままの巾着には、手垢に色あせた銀貨が輝いている。
「どうすればいいかって? 簡単さ」
 色黒の男がそう言って、僕に向かって笑いかける。
 笑っているのは口だけだ。その目は僕の心を見透かそうとでもするかのように、じっと僕を見据えていた。
「ねえ、『シロフォノ』だっけ? もしおまえが片割れと同じくらいに使える駒なら、俺達が助けてやっても良いよ。……俺達の組織には優秀な医者がいるから、おまえの面倒も見てやれる。ただ、闇医者っていうのは相場よりも少し高く診療代をとるんでね。こっちの新入りが稼いだ銀貨だけじゃ、ちょっとばかりお代が足りないが」
 僕が目を見開いたのと、クロトゥラが息を呑んだのは、恐らく同時だったと思う。すると今度は髭の男が、にやにやしながらこう言った。
「お前が片割れと同じように俺達の仲間になるなら、助けてやるよ」
 「――だめだ!」と即座に叫んだのはクロトゥラだ。弟は機敏な動きで足下の巾着袋を拾いあげると、二人の男を警戒するように見比べ、「絶対だめだ」と繰り返す。そうして続けて、「シロフォノは関係ないんだから」とも。
 切羽詰まった弟の声は、優しく深く、僕の心に落ちてくる。
 だけどなぜだか、それは、僕には拒絶の言葉のように思えた。――その時不意に、先程から感じていた違和感の正体に、気付いてしまったのだ。
「医者へは俺が、『焼き印持ち』が一緒に行かなければいいんだ。シロフォノには、あの変な斑点だって出てないもの。このお金さえあれば、診てくれる医者はきっといる」
 自分さえいなければ、シロフォノ一人なら、――弟は、そう繰り返す。
 「そうかな?」と、色黒の男がくすくす笑った。
 
――これを望んでたんでしょう。二人で生きるためじゃなく、二人仲良く死ぬために。
 夢で聞いた声がした。
 ここへ何をしにきたかを思い出して、僕は思わず身震いする。
 
「シロフォノまで、こんな……」
 クロトゥラが、己の肩へ触れる手に力を込める。触るだけでも痛むだろうに、この弟は歯を食いしばって、絞り出すようにこう言った。
「こんなの、いらない……」
 
――これを望んでたんでしょう。……病気のために自分一人だけで死ぬのは、寂しいから。
 さよならを言うつもりだった。夢の中で聞いた言葉を、否定したかったから。
 別れを告げることこそが、今の自分にできる唯一のことだと思っていた。僕という枷がなくなれば、もう一人のネロは生きていけるのだと信じていたから。
 だけど、――だけど僕がそんな事を思っている間、クロトゥラは多分正反対の方法で、僕と同じ事をしようとしていたのだ。
 
 北風が強く吹いていた。乾燥しきった落ち葉が、かさかさと耳障りな音を立てながら、僕の足元を走っていく。
「シロフォノを、巻き込むな」
 赤黒く腫れた、僕の弟の肩を見る。そうしたら、不意に視界が歪んで見えた。
(だめだ。――違うよ、ネロ)
 心の中で一度呼び、僕は小さく、静かに笑った。
――これを望んでたんでしょう。……病気のために自分一人だけで死ぬのは、寂しいから。
 そうさ。一人で死ぬのは嫌だった。一人で死ぬのは怖かった。
 だけど今は、それより怖いものがある。
「……どうして、僕を『ネロ』と呼ばないの」
 ぽつりとそう呟くと、クロトゥラがはっと顔を上げる。血の気の引いたその顔を見ると、まるで鏡を覗き込んでいるかのような気になった。
 あまりに瓜二つだからと、親でもよく見紛った顔。同じ顔と同じ声を持って同時に生まれてきた僕たちは、一つの名前を共有した。……ネロ。この弟は僕よりもずっとその名を好んで、いつだって僕をそう呼んだのに。
 一人で死ぬのが怖かった。
 そしてそれ以上に、――『二人のネロ』でいられなくなることが、僕には、何より辛いことに思えた。
「……ボールを投げるのは、僕の方が、ずっと得意だ」
 ぐらつく焦点をやっとの事で合わせ、呟くと、色黒の男が「へえ」と短く相槌を打つ。
「足の速さは同じくらい。逆立ちが出来るようになったのは、僕の方が少し早かった」
 「ネロ」と、躊躇いがちにクロトゥラが呼ぶ。
 僕はそちらを見なかった。かわりに一度、深く息する。
 もしかしたら。
 クロトゥラも、同じように思っていたんじゃないだろうか。僕が一人で死ぬのを怯えたように、クロトゥラも、一人残されることに怯えていたんじゃないだろうか。
 もう少し、『二人のネロ』でいたかった。だけど僕らは二人とも、そう願いながら、そう望みながら、裏腹の道を選ぼうとした。
 だけどもし、そうせずにいられる道があるのなら。
「クロトゥラ。君は、僕には関係ないと言ったけど……」
 夢の中で、僕は必死にクロトゥラを追った。なぜだろう。僕はあんなにあっさりと、フェリットの背を見送ったのに。
 弟の顔を覗き見る。僕ら二人とも、声なく静かに泣いていた。
 ああ、やっと追いついた。そんなことを、ふと思う。
「関係なくなんか、無い。――だって、僕らは二人で一人のネロなんだもの」
――ネロは、君一人が元気でいてくれたらいい。
 あんなの、嘘だ。大嘘だ。
 生きるために追いかけたのだ。
 夢の中で走っていた僕も、きっと、二人で生きたかったのだ。
「……仲間になれば、僕の病気を治してくれる?」
 二人の男が満足そうに、にやにや笑いながら頷いた。その一方でクロトゥラは、口を真一文字に結び、ぼろぼろ涙をこぼしながら、悔しそうに目を細める。
「ネロ、ごめんね……」
 弟が、小さく小さく呟いた。
 聞こえなかったふりをした。
 けれどその後悔と安堵に満ちた表情を、僕は生涯、忘れないだろう。

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