吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

第六節「隔てる刻印 -1-」

 次に目が覚めたとき、家畜小屋のどこにもクロトゥラの姿はなかった。
 やっとのことで頭を起こすと、枕元には欠けた器に果物の汁が搾ってある。そういえば、朦朧する意識の中で、この匂いを嗅いだ覚えがあった。確かクロトゥラが、何か言いながら絞ってくれていたのを思い出す。
 もう何日、まともにものを食べていないのだろう。そんなことを考えながら、僕は覚束ない足取りのままよろよろと立ち上がった。そうして自分にかぶせられていたクロトゥラの上着を手に持つと、よろめきながら外へ出る。久々に自分の足で歩くと、夢で見た風景が、夢で聞いたあの声が、脳裏に再び過ぎっていく。
――これを望んでいたんじゃないの?
「違う」
 小さく呟く。それが、僕に出来る精一杯だったから。
――これを望んでたんでしょう。二人で生きるためじゃなく、二人仲良く死ぬために。
 違う。……違う。僕はそんなこと、少しも思っちゃいなかった。夢の中で僕がクロトゥラを追いかけたのは、あんなに必死に走ったのは、こんな思いをするためじゃなかったのに。
 久々に見る太陽の陽はまぶしく、しかし随分傾いていた。民家の煙突から煙が立ち上っているところを見るに、恐らく夕方なのだろう。
 冷たい風がひゅるりと鳴って、汗ばんだ僕の額にも吹き付ける。足下では落ち葉の絨毯が、かさかさと音をたてていた。
 ああ、酷く、寒い。
「クロトゥラ、――どこ」
 問うても、答える声はない。
 クロトゥラは恐らく、例の『仕事』をしに出たのだろう。いったい何の仕事なのやら、僕には一言も話してくれはしなかったけれど、町を歩けば会えるだろうか。
 長いこと寝込んでいたにもかかわらず、僕の足は意外にも、一歩一歩確実に前へ進み始めていた。そうしてそのまま進んでいけば、必ずクロトゥラのところへたどり着けるだろうと、少しも信じて疑わなかった。
 僕はあてのないまま、風に反して歩いていた。
(クロトゥラに会わなくちゃ)
 心の中で、そう繰り返す。会うんだ。そして伝えなければ。――もう一人のネロに、言わねばならない。
 長い道を、僕は一人で歩いていた。町の大通りをよろよろしながら歩いていても、僕に構おうとする人間は、そこに一人もいなかった。
 人々は暖かそうな上着を羽織り、足早に町を歩いていく。子供たちは母親の手を取って、幸せそうに語らいながら、僕の隣を過ぎていった。隣町が病と炎に滅んだというのに、彼らは随分気楽なものだ。
(クロトゥラはきっと、今も薄着のままだろうな)
 手にした上着を、ぎゅっと強く抱きしめる。
 ちょうどその時、僕の前方を歩いていた男が立ち止まった。ただでさえ覚束ない足取りで歩いていた僕は、思いがけず男に体当たりをして、そのままぺたりと尻餅をつく。すると男が僕を振り返り、それからぎょっとした顔をして、言った。
「おまえ、この前の……!」
 言われて男をふり仰ぐ。視界はぼんやりしていたが、少なくとも、知らぬ顔だと言うことはわかった。――恐らくは、クロトゥラと勘違いされているのだろう。そういうことは慣れっこだ。
 僕が黙ったままでいると、男はばつが悪そうに辺りを見回し、自分の上着のポケットへ手を入れた。そうして小さなコインを取り出すと、ぐいと僕に押しつける。
「急に来なくなったと思ったら、病気にかかったのか。――栄養失調か? おい、だが恨んでくれるなよ。お前が何度うちに来ようが、雇えねえものは雇えねえんだ。俺だってこの冬を越すだけで精一杯さ。だから……ああ、そんな目で見るな。頼むから、もう金輪際、俺の視界に入らないでくれ」
 一方的に言いおいて、男がさっさと歩いていく。僕はそれを何の感慨もなく見送って、それから一人でのそのそと、緩慢な動きで立ち上がった。
 掌の中に残ったコインはパン一切れすら買えるか怪しい小さなものだったが、何かの足しにはなるだろう。クロトゥラの上着のポケットに、小さなコインを差し入れる。
 さあ、行かなくちゃ。クロトゥラを探さなくちゃ。そう考えて歩き出すと、ふと、どこかからすすり泣くような声がした。
 立ち止まり、もう一度耳を澄ましてみる。声はそれきり聞こえてこない。
 だけど僕はきびすを返して、脇道に身を滑り込ませた。埃の積もった脇道は薄暗く、僕がやっと通れるような幅しかない。
 頭が鈍く疼いていた。僕は何度も左右の壁にもたれかかって、それでも、足だけは止めずに歩き続ける。
 そうしてしばらく行くと、そのうち広い場所に出た。すっかり冬枯れて人気のないそこは、どうやら小麦畑らしい。僕は辺りを見回して、そこに見知った色を見つけると、静かにそれへ歩み寄る。
 掘っ立て小屋に寄りかかるように、膝を抱いてうずくまっていたのは、紛れもなく僕の弟だった。
「クロトゥラ」
 声をかけると、相手はびくりと肩を震わせた。咄嗟に上げたその顔は、涙ですっかり濡れている。
「どうして、ここに――」
 そう問う声が、明らかな戸惑いを見せていた。僕は無理矢理にへらと笑うと、握りしめていた上着を差し出し、クロトゥラの手に握らせてやる。ああ、やっぱり冷え切っている。
 これが、去年の冬だったなら。僕もクロトゥラも、日中はよくシャツ一枚で遊び回っていたけれど、凍えた覚えは少しもない。陽が陰り、北風を肌寒く感じる時間になると、僕らは迷わず広場に行った。買い物ついでに母さんが、上着を持って迎えにきてくれるのを知っていたからだ。
「さあ、もうそろそろお夕飯の時間よ」
 母さんはいつもそう言って、僕らの手を引いてくれた。だから僕もそうしようとして、――差し出そうとした手を、すぐにひっこめる。夢の中と違って、僕の腕に斑紋なんて無いことは、十分わかっていたのだけど。
 けれどそうしていると、不意に視界が大きく揺れた。クロトゥラが慌てて立ち上がり、座り込んでしまった僕を支えてくれる。たった今まで泣いていたはずの弟は、怒ったような口調で「まだ熱があるのに」と言って俯いた。
 何故、泣いていたの?
 何故、そんなに傷だらけなの?
 何故、僕に何も言わないの?
 問いたいことはいくつもあるのに、どうしてだろう、言葉がちっとも出てこない。ふと見れば、クロトゥラのシャツの右肩に、うっすらと血がにじんでいた。また怪我をしたのだろうか。
「これが痛くて、泣いてたの?」
 聞くと、クロトゥラは大袈裟なくらい力強く、首を横に振った。
「違う。こんなの少しも痛くない」
 そうは言うが、右肩をかばう姿が痛々しい。
 この町へ来てからというもの、僕の前では少しも弱音を吐かなかったこの弟が、こんなところで一人で泣いていたことを思うと胸が疼いた。
 お兄ちゃんなのは僕なのにな、と、そんなことをふと思う。
 ミメットでクロトゥラとフェリットを橋へ誘ったときは、僕が二人を守ろうと強く思っていた。それが、実際はどうだ。僕は一人で熱なんか出して、クロトゥラの足を引っ張るばかりだ。
 怪我だらけになって、それでも何度も食べ物を持ち帰ってくれたことを思い出す。なんの仕事にしたって、二人分の食料を得るのは大変なことだったに違いない。
「ごめんね」
 小さく、呟く。声が掠れて、音にならなかった。
 だめだ。もっとちゃんと、言わなくちゃ。伝えるために来たんだから。
 伝えなきゃ。
 ――さよならを。
「もういいよ、クロトゥラ……。僕、それを言いに来たんだ」
 クロトゥラが不意を突かれた様子で、眉根を寄せる。「何が」と答えた声が堅い。僕は一度大きく息を吸い込んで、それから精一杯、腹に力を込めて続ける。
「もういいんだ。そんなに毎日怪我をしてまで、頑張らなくていいよ――。僕、自分のことは自分でどうにかする。だからクロトゥラも、もう僕に構わなくていい」
 喉に痰が絡まって、僕は何度か咳き込んだ。その度に、視界がぐるぐる回って見える。
 だからかえって言葉だけは、躊躇なく口にすることができた。
「ネロは、君一人が元気でいてくれたらいい。……僕と一緒にいたら、いつか君まで死んでしまうかもしれないもの。僕の病気がうつるかもしれない。『仕事』で今まで以上に大きな怪我をするかもしれない。僕はそんなの、絶対嫌だ」
 クロトゥラが小さく息をのんで、僕を支えていた左手に力を込めた。
「君一人が、生きてくれたらそれでいい」
 弟の腕が震えている。クロトゥラが僕の目を覗き込んで、何か言いたげに唇を動かした。だけどクロトゥラが何か言葉を紡ぐ前に、
「残念だが、タイミングが少し遅かったな」
 知らぬ男の声がする。
 嘲るようなその声に、クロトゥラがはっと顔を上げた。そうして心底憎々しげに、目の前の男を睨み付ける。
 そこにいたのは、黒々とした口ひげを蓄えた一人の男だった。

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