吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

第五節「つむじ風と動線」

 重ね着したセーターをめくると、腕に見覚えのある斑紋が出ていた。
 ああ、フェリットの腕にあったものとおんなじだ。そう思うと、腹の内にひやりと冷たい思いがよぎる。
 これが、僕の腕? この、浅黒い斑点の浮いた腕が?
 なぜ? なぜ? ――混乱する頭が、そう叫ぶ。なぜ、これが僕の腕にあるの? 僕は一体、どうなってしまうの?
 辺りを見回しても、そこには僕がいるだけで、他に何もありはしない。そうしたら、急に怖くなってきた。
 クロトゥラを探さなくては。もう僕のそばにいてくれるのは、もう一人のネロだけなのだから。そう思って走っていくと、次第に川の流れる音が聞こえてくる。見れば目の前に、あのおんぼろの吊り橋が架かっていた。そしてその対岸には、クロトゥラの後ろ姿が見えている。
「クロトゥラ!」
 声を振り絞り、叫ぶ。だけど弟は振り返らない。
「待って! 僕、今行くから!」
 言って橋に足をかける。するとみしみしと、支柱がきしむ音がした。
 慌てて吊り橋の縄を掴んだ手を見て、僕ははっと息をのむ。あの斑紋が、さっき以上に広がっている。
 そうこうしているうちに、クロトゥラの背がまた遠くなった。「待って」ともう一度叫んでも、振り返る様子は微塵もない。
「待って、――待ってよ!」
 叫びながら、揺れる吊り橋にしがみつく。やっとの事で片手を放し、遠のいていく弟に向かって手を延べると、言いようもなく苦しくなった。
 悲しいでもない、寂しいでもない。この気持ちをどう表現したらいいのか、僕には正直わからなかった。
 ただ、ただ、胸が、苦しい。
「クロトゥラ、待ってよ! 待って――ネロ!」
 
 唐突に視界がはっきりとして、僕は驚き、目を瞬いた。
 見たことのない場所だった。においから察するに、家畜小屋か何かだろうか。藁を葺いただけの屋根はところどころ穴があき、陽の光を漏れ入らせている。
「ネロ! ……よかった、気がついて」
 囁くようなその声に、僕は慌てて首を向けた。ずきんと頭に痛みが走る。それでもそこに座り込んだ人影を見て、ほっと安堵の溜息をつく。
「クロトゥ――」
 思ったよりも、大きな声を出してしまったらしい。クロトゥラは慌てて僕の口に手を当てると、「しっ」と短く声をかけ、機敏に辺りを見回した。
「あんまり声を立てちゃだめだ。ここへはこっそり潜り込んだから、誰かに見つかるとまずいんだ」
「どういうこと? ……僕ら、隣町に着いたの?」
 聞いてから、僕はクロトゥラが、やけに薄着でいることに気がついた。どうやら上着もセーターも全て脱いで、僕にかぶせてくれたらしい。だけどそれでも、僕は小さく身震いした。体の内側に氷でも詰めてしまったかのように、得体の知れない寒気を感じていたのだ。
 体がやけに、だるかった。視界もどこかぼんやりとして、浮ついた感じに見えている。熱でもあるのだろうか。そう考えて、僕は思わずぎくりとした。
「おまえの腕に、斑点はないよ」
 僕の思いを読み取ったかのように、先んじてクロトゥラがそう言った。なんだか随分早口だ。僕は胸で浅い呼吸を続けながら、そっと、薄手のシャツを一枚着ただけのクロトゥラへ手を伸ばした。
「そんなかっこじゃ、風邪、ひくよ」
「ばか。風邪ひいてるのはそっちだよ」
 そう言って笑うクロトゥラを見ながら、僕はぼんやりと、心の中で首をかしげた。――これが、風邪? 本当にそうだろうか。喉が焼けるように熱いし、息をすればひゅるひゅると妙な音がして、なんだか空っぽになってしまったようにすら思えた。そうかと思えば頭はずっしりと小石を詰め込まれたかのように重く、聞こえてくる音も、なんだか扉一枚隔てているかのようにぼやけているのだ。
 その時僕はふと、クロトゥラの頬に大きな痣ができているのに気がついた。一瞬びくりと肩が震えたが、どうやら、例の斑紋ではないようだ。僕がその痣に触れようとすると、クロトゥラはそれを押しとどめ、ただ、言葉を紡ぎ始めた。
 僕は一体、どれだけ眠っていたのだろう。僕が眠っているうちに、クロトゥラに何か、あったのだろうか――。それを知りたくて、僕はクロトゥラがぽつりぽつりと話すのを、ぼんやりしたまま聞いていた。一方で冷たい北風が、高い音を立てて、このぼろ小屋を通り過ぎていく。
「レキシトへは、無事に着いたよ」
 レキシトというのは、僕らの住んでいたミメットの隣町の名前だ。だけど目的地だったレキシトに着いたというのに、クロトゥラの声はどこか沈んでいる。
「フェリの言っていた、金物屋さんへは――?」
「行った。だけど店には、もう誰もいなかった。随分前から借金があって、つい最近、逃げちゃったんだって」
「僕ら、ついてないね」
「ほんとだよね」
 他人事のようにそう言って、クロトゥラが静かに笑っている。
 その表情が、何故だか、最期に笑ったフェリの顔と重なった。
「ここは、町の外れにあった古い家畜小屋だ。気を失ったネロを負ぶったまま町を歩くのは無理だったから、勝手に潜り込んだんだけど、意外に便利がよくってさ。昨日からずっと居座ってる。二つ隣の小屋へはたまに持ち主が来ているみたいだけど、こっちまで来ることはほとんどないから、おとなしくしていれば問題ないと思う」
 「そう」と空気の抜けるような返事をして、僕は続く言葉を待った。聞きたいことはいくらかあったのだけど、わざわざ僕が聞かなくても、多分クロトゥラは話してくれるだろうと思った。
 だけどクロトゥラは、それ以上何も言わなかった。それで随分経ってから、一言、「仕事を見つけたんだ」とだけ言った。
「仕事……?」
「うん。声をかけられたのが昨日の晩だから、まだ仕事はこれからだけど。――僕は走るのが速いから、ちょうどいいんだって」
「そう。……それじゃ、僕も、……元気になったら、できるかな……」
 途切れ途切れにそう問うたが、クロトゥラは何も答えなかった。代わりに次の日も、その次の日も、新鮮な果物を持って帰ってきては、いつまでも熱のさがらない僕に食べさせてくれた。
 僕はしばらく経ってから、この日、クロトゥラがつけていた痣の理由を知ることになる。曰く、この時レキシトの町では、兵士たちがミメットからの逃亡者を取り締まっていたのだそうだ。クロトゥラも一度はそれに捕まった。けれど兵士たちの度肝を抜く身軽さで、痣一つこしらえるだけでそこから逃げおおせたのだという。
 それを、ある男に見られていた。
 それが僕らの人生を変えた。
 
 それから更に三日が経っても、僕の熱は下がらなかった。
 寝返りを打つことすら苦痛になった。ものを食べるのも億劫だ。クロトゥラが絞ってくれた果汁を飲むことはあったけれど、それも、戻してしまうのが常だった。
 昼夜を問わず悪夢を見た。悪夢の中の僕は一人で、いつも誰かを捜していた。父さんを、母さんを、フェリットを、ロランを。そして最後にはいつもクロトゥラを見つけるのに、伸ばした手が届かないまま、一人で目を覚ますのだ。夢の中では斑紋にまみれていた僕の腕は、目を覚ますと、汗ばんですっかり痩せこけた、なんの変哲もない子供の腕だった。
 一方でクロトゥラは昼も夜も関係なく、度々出かけるようになっていた。その都度怪我を増やして帰ってくるので、僕は何度も何をしているのと聞いたけれど、この弟は何も教えてはくれなかった。ただ押し黙って、一人で何かを考え込んでいるようだった。
 だけどそんな中で、ある日、クロトゥラがぽつりとこんな事をこぼしたことがある。
「ロランは、どうして鍛冶屋になったんだろう」
 僕が聞き返すと、彼は「鉄を打つのが得意だったら、僕は鍛冶屋になったのかな」と言って俯いた。
 クロトゥラは少しずつ、少しずつ、思いを顔に表さなくなった。だからこの頃、僕には既に、この弟が何を考えているのやら、すっかりわからなくなっていた。
 ああ、だめだよ。熱にうなされ、夢とうつつの狭間にいながら、僕は何度もそう思った。
 だめだよ。馬鹿がつくほど正直で、何でもかんでも顔に出していたままの方が、よっぽどおまえらしいのに――。
 
 その日も僕は夢を見た。いつもと同じ夢だった。
 僕はクロトゥラを追って走っていて、クロトゥラは、そんな僕になど気づく様子もなくどんどん先を歩いていく。ああ、今日も追いつかないのかな。そんな事を考えていると、しかしその日に限って、クロトゥラは唐突に立ち止まった。
 そうしてゆっくり振り返る。僕はそれを見て、少しも躊躇わずに駆け寄った。ああ、やっと追いつける。今までずっと、面倒をかけてばかりでごめんね。追いついたらそう伝えよう。そうして、これからは僕も働くからねと、そう言うのだ。
 最近クロトゥラの元気がないのは、仕事で疲れているせいに違いない。だけどそれなら……、僕が同じ仕事を始めれば、そして苦労を共有できたなら、少しは気も楽になるだろう。それにきっと以前のように、互いに何を考えているのか、わかるようになるはずだ。
 僕は追いつき、やっとのことで差し出された手を取って、――しかし思わず、息をのんだ。
 僕がクロトゥラの腕をとったその瞬間、それまでは僕の腕にのみ浮かんでいたあの忌々しい斑紋が、さっとクロトゥラの腕にまで浮き上がる。
 僕は短い叫び声を上げて、慌てて弟から手を放した。放すつもりだった。しかし今度はクロトゥラが、僕の腕を掴んで放さない。クロトゥラは感情を感じさせない表情のまま、じっと僕を眺めていた。しかしそうしている間にも、その首へ、頬へ、次々に斑紋が浮かび上がっていく。
「だめだ。……クロトゥラ、放して」
 クロトゥラは何も答えない。ただ茫洋とした風貌で、僕の目をじっと覗き込んでいる。僕は急に肝の冷える思いを感じて、力任せにその手を払った。すると唐突に、目の前の弟がぽつりと話す。
「これを望んでいたんじゃないの?」
 僕がはっと顔を上げると、目の前にたたずむその人影が、にやりと笑ってもう一度言った。
「これを望んでたんでしょう。二人で生きるためじゃなく、二人仲良く死ぬために。……病気のために自分一人だけで死ぬのは、寂しいから」
 斑紋に体を蝕まれ、そう笑ったのは僕だった。

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