吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

第四節「遠のく体温」

「ここをまっすぐ行ったところに、橋を架けたんだ」
 クロトゥラがそう言いながら茂みをかき分け、先の方を指さした。フェリットはスカートの裾をまくし上げてそれに続き、僕は木の根や茂みに足を取られて転びそうになるフェリットを支えながら、さらにその後へ続いて歩いていた。
「あなた達がいつも葉っぱまみれになっていたのは、こういう事だったのね」
 息を弾ませ、フェリットが言う。「この方が『隠れ家』らしいでしょ?」と僕が答えると、フェリットは「そうね」と言って笑った。やけに晴れやかな笑みだった。
 もう少しで川に着く。川さえ渡ってしまえば、その先の道は僕らにしかわからない山道だ。そこまで行けたら兵士たちも、炎も、絶対に僕らを追っては来られないだろう。
 大丈夫。そう思った。大丈夫。川さえ越えれば、僕も、クロトゥラも、フェリットも、もう何にも怯えずにすむ。
 だけどそれから少し進んだところで、僕らは思わず足を止めた。進む先から、聞き慣れぬ声が聞こえてきたからだ。
「なんだ、この橋は」
 低い男の声だった。嫌な予感が脳裏をよぎる。僕らは茂みの間からそっと顔を覗かせて、男のことを目で捜した。
 いた。見れば二人の男が、僕らの架けた造りかけの橋の前でなにやら話し合っている。彼らがその身にまとっているのは、今では憎たらしさしか感じない、シナヴリア兵士の制服だ。
「この橋の先にも、誰か住んでいるのか?」
「いえ、謄本にはそんな記録はありませんが……。念のため、この辺りも捜査しますか?」
「ああ。だが手短にな。我らの隊も、そろそろ撤退する時間だ」
 言われて、年若い兵士が僕らの橋を渡っていく。考えても仕方のないことだとは思ったけれど、このとき僕は、橋を頑丈に造ったことを酷く後悔していた。おそらくクロトゥラもそうだったに違いない。ああ、今あの橋の底が抜けて、兵士が川に落ちたなら、どんなに愉快だったろう。
 ぐっと奥歯を噛みしめて、僕はそっと、二人の服を引っ張った。そうしてクロトゥラに、「道を逸れよう」と合図する。この川には、実はもう一つ橋があった。フェリットのための橋を造る前に、そもそも僕らが使っていた橋だ。
 「でも」と、クロトゥラが小さく呟いた。恐らくは、フェリットにその橋を渡らせるのが不安だったのだろう。
 実のところ、不安に思ったのは僕も同じことだった。これまで僕らが使っていたのは、随分昔に造られて、町の人々にもすっかり忘れられていた吊り橋を補修しただけのものだったのだ。桁は所々腐り落ちてしまっているし、梁に結びつけたロープはいささか弛んでしまっている。僕らがいつ落ちるかわからない橋をゲーム感覚で渡るには申し分なかったけれど、はたしてフェリットは、あの橋を怖がらずに渡れるだろか?
 だけどそうこうしているうちにも、一部の兵士は橋を渡り、また他の兵士は橋のこちら側をあちこち見回っている。僕はもう一度二人の服を引っ張って、小さく唾をのみこんだ。行こう。いつまでもここに潜んでいては、いずれ兵士に見つかってしまうかもしれない。
 不安顔のクロトゥラと、それ以上に不安顔のフェリットが、僕の後ろについてくる。振り返り、振り返り、それを確認しながら歩いていくと、きゅっと心が引き締まるような気になった。
 僕が守らなくちゃ。僕が、二人を守るんだ。
  
 朽ちかけたその橋は、川の下流に架かっていた。
 この辺りでもっとも水量の多いこの川は、下流に向かうにつれ川幅も広がっていく。僕が、年数を経た杉の木並みに長く延びた吊り橋を指差すと、フェリットがごくりと唾を飲み込む音が聞こえてくるかのようだった。
「柱が、もう腐ってるわ」
「一気に駆け抜けちゃえば、大丈夫だよ」
「駆け抜けるの? あの橋を?」
 ぎょっとした様子でフェリットが言い、それから僕ら二人の顔を、代わる代わる見比べ、眉根を寄せる。
「ねえ、お願いだから一人ずつ渡ってね。あなた達の重みで縄が切れたら、大変だわ」
 情けない声でそう話すフェリットの声は、それでも、思ったよりはずっとしっかりとしていた。ただ自分の両手を胸の前できつく握り締め、少しもそれを緩めない。僕はフェリットの袖を引いて、「大丈夫だよ」と声をかけた。
「怖いなら、僕が手を引いてわたろうか?」
 フェリットは一度言葉を切って、じっと僕の顔を見た。それからくしゃりと顔をゆがめるように笑って、ゆっくりと、首を横に振る。
「いいわ。私は一人で、大丈夫。だけどあなた達が先に渡ってね。あなた達が上手く渡っていくのを見たら、私も渡れる気がするから」
「本当に?」
 クロトゥラが疑わしげにフェリットの顔を覗き込み、そんなことを尋ねた。するとフェリットは僕らに合わせるように腰をかがめて、ぎゅっと優しく、僕ら二人を抱きしめる。兵士から僕らをかばってくれた時とは違い、その腕の中は柔らかく、そして暖かかった。
 だから僕らはだまされた。
「必ず、私も、後から行くわ」
 その声は静かで、力強かった。
 フェリットは僕らに、満面の笑顔で嘘をついた。
 
 始めに橋を渡ったのは、僕だった。
 しばらく使っていなかったせいか、橋は思った以上にぎしぎしと、嫌な音を立てて揺れる。これには僕も、正直少しびびってしまった。まさかこんなに傷んでいるとは思わなかった。 あとの二人も、無事に渡りきることができるだろうか――。そんなことを思いながら、僕は少しでも橋の負担にならないように勢いを殺して、素早く橋を渡りきる。すぐ後にクロトゥラも、同じようにして渡ってきた。この弟もどうやら、橋の傷みに気づいたらしい。だけど僕が睨みをきかせると、不安げだった表情を無理やり笑顔に変えて、フェリットに手を振った。
 ほら、渡れた。心配しなくても大丈夫だよ、と、フェリットに伝えたかったからだ。
「フェリ!」
 橋を見つめたまま微動だにしないフェリットに声をかけると、彼女ははっとしたように顔を上げ、それからおずおずと、腐りかかっている支柱に手をかけた。その指が何かを確認するかのように、ざらざらしたロープの上をなぞっている。 だけど、一向に端を渡ろうとする様子はない。フェリットの顔は翳っていたが、恐怖におびえるふうではなかった。
「ネロ。……フェリ、どうしたのかな」
 不安げな声でクロトゥラが言う。僕はもう一度、対岸に向かって呼びかけた。なにやら妙な胸騒ぎがする。なんだろう。フェリットが、このままいなくなってしまうような――。
「ごめんね、二人とも」
 不意にフェリットが僕らを見据え、そんな言葉をぽつりとこぼした。一体、何を言っているのだろう。すぐ隣でクロトゥラが聞き返すのを聞きながら、僕は慌てて橋の一桁目に足をかけた。そうして対岸のフェリットに届くようにと大きな声で、言う。
「フェリ、大丈夫だよ! 怖いなら、僕が一緒に」
「違うの! こっちへ来ちゃだめ。シロフォノは、これ以上危ないことをしないで! ……私、この橋は確かに怖いけど、だけど怖いから渡らないわけじゃ、ないわ……」
 言ってフェリットが、橋の支柱に触れる手へ、力を込めるのがわかった。あちら側で橋を支えていた柱が、みしみしと音を立てて傾いていく。僕ははっと息をのむと、揺れる桁から足をひいた。
「フェリ、なにするの……!」
 ちっとも意味がわからない。だけどそれ以上、僕は何も言えなかった。俯いて、それでも力を込めて柱を押し続けるフェリットを見たら、それ以上、もう言葉を続けることができなくなってしまったのだ。
 フェリットは泣いていた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、声をたてずに泣いていた。
 みしりと嫌な音を立てて、すっかり腐ってしまっていた支柱が一本、へし折れた。フェリットはきっと傷だらけになってしまったのだろう自分の手と、半端にぶら下がったままの橋とを見比べて、そうして最後に、僕らの方へと視線を移す。
「二人のネロ。私、あなた達のことが大好きよ」
 フェリットは、すっかり肩で息をしていた。
 でもその声は静かだった。
「だから一緒には行けないわ。……あなた達まで、病魔に喰われてしまったら嫌だもの」
 言ってにこりと微笑んだ。そうして袖をまくり上げ、その華奢な腕に浮かんだ浅黒い斑紋を、そっと僕らに翳してみせる。それを見て、僕は思わず目をみはった。
 肌に浮かんだ大きな斑紋。この目で見るのは初めてだったが、その刻印の存在が何を示しているのか、今の僕らは知っていた。ロランの腕にもあったというそれは、その刻印は、例のはやり病に感染した者の、証だ。
「子供に見せるものじゃないってみんなは言っていたけど、私はそうは思わない。だってこの斑紋が、私たちから全てを奪ったんだもの。――二日も経てば、町の炎も消えるでしょう。そうしたら二人で隠れ家を出て、まずは隣町まで行きなさい。南通りの端にある、金物屋を訪ねるの。ロランが商品を卸していた店だから、あなた達の力になってくれるかもしれないわ。……だけど、新しい生活を始めても、どうかずっと覚えていてね。私たちの町がどんなに美しかったか、そこでの日々がどんなに幸せだったか。そしてそれが、なぜ失われなくちゃならなかったのか……」
 フェリットがそっと袖を戻し、僕らに背を向け駆けていく。その時になってようやく僕は、フェリットがはじめから、どこへ逃げようともしていなかったことに気がついた。
 人気のなくなったあの墓地に、フェリットがただ一人残っていたのはなんのためだった? あの時フェリットは、一体あそこで何をしていたのだ?
「ネロ! ……僕、フェリを連れ戻してくる」
 言って、クロトゥラが傾いた橋へと足をかけた。すっかり傷んだ吊り橋は、片側の支柱を一つ失ったためによじれ、傾いている。だけど僕たちなら、残ったもう一本の柱を頼りに縄を伝い、向こう岸まで渡ることができるだろう。
 ああ、追わなくちゃ。僕も心ではそう思っていた。だけど体が動かなかった。
 それどころか、僕は今にもフェリットを追おうとするクロトゥラの腕をつかんで、放さなかった。
「ネロ!」
「だめだ。フェリは、――フェリも、もうあの病気にかかってるんだ。斑紋の次には熱を出して、歩けなくなって、それで」
 ロランと同じに、土に還る。
 だからフェリットは、炎から逃げようとはしなかったのだ。そしてその代わりに、ロランの眠る場所へとどまることを選んだ。――町に炎が放られなくても、自分が近いうちに土へ還ることになるだろうと、気付いていたから。
 ぽろりと僕の目から涙があふれたのを見て、クロトゥラが小さく息をのんだのがわかった。そうしたら、何故だろう。余計に悔しさが募ってきて、涙がとまらなくなってしまった。
 そのまま僕は、声を上げて泣きじゃくった。クロトゥラは泣かなかった。きっといつかの僕のように泣きそびれてしまったのだろうと思いながら、僕は、フェリットのために造った階段を上った。
 
 二日後、僕らはフェリットに言われたとおりに、隣町へと続く道を歩いていた。
 もうすっかり冬になっていた。冷たい風が吹いていた。
「……頭、痛い」
 僕が言うと、先を歩いていたクロトゥラが振り返る。
「たくさん泣いたからだ。僕もロランが死んだ次の朝、頭が痛くて仕方なかった」
 広い街道を、僕らは二人で歩いていた。もしかしたら父さんたちに会えるかもしれない、と一度は町へも立ち寄ったが、炎のおさまった町は、僕らに一縷の望みも持たせてはくれなかった。
「服、たくさん着ておいてよかったね」
「母さんが、たくさん着せてくれたからね」
 あの町に、既に生きた人間はいなかった。だから僕らは、父さんや、母さんや、そしてフェリットに出会ってしまう前に、逃げるように町を出た。
 すっかり気が滅入っていた。その上、歩くたびに頭痛が増すものだから、僕は何度も立ち止まった。
 隣町へ行くのは初めてではなかったけど、この時ほど遠く感じたことはなかった。今までは藁を敷いた馬車に乗っているだけで、歩いて向かったことはなかったから、そう感じるのも当然のことかもしれないけれど。
「……。行こう」
 クロトゥラに手を引かれて歩くのも、段々苦痛になっていた。頭が割れそうに痛いのに加え、胸の辺りがむかむかとして、吐き気を催し始めていたのだ。
 丘の向こうに町が見える頃には、視界も随分ふらついていた。
「もう少しで、着くよ」
 言われて僕は頷いた。頷くだけのつもりだった。
 ぐらりと大きく世界が揺れる。一瞬、自分がどこを向いているのかわからなくなった。
「――ネロ!」
 そう呼ぶ声が、少し遅れて耳に届く。
 僕は霜の降り始めた地面に、俯せになって倒れていた。

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