吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

第三節「灰」

 黙々と、しかし着実に町へ火をつけて回る兵士を追うのは、けっして容易なことではなかった。兵士は『作業』をするために度々馬の足を止めていたし、足の速さにかけては僕ら二人とも定評があったのだけれど、それでもやはり、人の足と馬の足では、はじめから勝負はついていた。
「なんとかして先回りしなきゃ、僕ら、いつまでもあいつに追いつけないよ」
 クロトゥラが言ったのを聞いて、僕もうん、と頷いた。このままでは走るだけ走って、力尽きておしまいだろう。そんな間抜けな結末だけは、なんとしてでも回避したい。
 走りながら周囲を見回すと、いつの間にやら僕らの家とは正反対の場所にある鍛冶屋の看板が見えてきた。つい数週間前まで、ロランが鉄を鍛えていた工房だ。工房も例外なく、竈の火が溢れ出したかのように炎へ呑まれつつあった。
 工房だけじゃない。母さんとたびたび買い物に来た市場も、父さんと一緒に建て替えを手伝った厩も、今は、全てが炎の中にあった。そうして悲鳴のようなはぜる音を立て、着実に灰に変わっていくのだ。
 炎が全て、喰らってしまう。
 僕らの町を、僕らの居場所を、僕らの思い出を。
 悔しさに奥歯を噛みしめて、僕は兵士を睨み付けた。何故こんな酷いことをするのだろう。そう思うとむしゃくしゃする。
「……ネロ」
 不安そうな声でクロトゥラが言った。どうやら僕は、気づかぬうちに立ち止まっていたらしい。つないだ手が、じっとりと汗ばんでいる。
 その視線の先に、フェリットの家が見えていた。僕らがたびたび遊び場にしていた庭が燃えている。あそこには確か僕らがプレゼントした花の種をおいてあったはずだけれど、それもきっと、灰に変わってしまっただろう。春に蒔くのを楽しみにしていたのに。
 そんなことを考えてから、僕ははっと息をのんだ。あの兵士がどういうルートを辿っているのか、唐突に理解してしまったのだ。僕らは兵士を追いかけて、いつの間にやら町を半周していたようだ。だとすれば、頭に地図を思い浮かべるに、あの兵士は町の外周に近いところをぐるりと回りながら火を放っているに違いない。
「クロトゥラ。あの角を左に曲がろう」
「広場のほうに行くの? でも、見失わないかな」
「たぶん大丈夫」
「そう。……なら、行こう」
 クロトゥラが答えたのを聞くと、俄然やる気が出てくるのがわかった。
 僕たちの手で、町に酷いことをするあいつを捕まえてやろう。そう思った。町に火をつけて回っていたあの男、兵士の服は着ていたけれど、本物の兵士ではないのに違いない。だってあの男が本当に兵士なのだとしたら、町に火をつけて回ることに一体なんの得がある? きっと、正体は盗賊か何かなのだろう。兵士の服を着ていれば僕らが怯えると思って、どこかから制服だけ盗んできたのだ。
 炎で僕らを追い出して、その後に町のものを盗む気だ。そうはさせない。許さない。僕たちの町に、こんなひどいことをして――。
(絶対、後悔させてやる)
 ただでさえ、町は病気のせいで大変なことになっているのに。そう思うと、今度は怒りがわいてくる。僕とクロトゥラは道中、納屋からロープを借りてくると、それを担いでまた駆けた。本当は鍬や鋤もあった方が心強かったのだけど、重くて担げなかったので、代わりに太い枝を拾った。
 左右を炎に包まれた町を、突っ切るように駆け抜ける。その間、町の人には会わなかった。もうみんな、町の外へ逃げ出したのだろう。そう信じて疑わなかった。――僕らは、この炎の本当の目的に気づいていなかったから。
 そろそろ町の外周だ。目の前には町はずれの墓所が見えている。そこには、ロランが眠っているはずだ。
「クロトゥラ、こっちの端を握ってて」
 僕がロープを差し出すと、クロトゥラも力強く頷いてみせる。そうして僕もロープのもう片方を持つと、滑り込むように道の向こう側へと駆け込んだ。
 蹄の音が近づいてくる。さあ、来い。盗賊め。ここで僕らが退治してやる。
「今だ!」
 声をかけて、ロープを持つ手を引き上げた。馬のいななきの後、騎手の慌てふためく悲鳴が聞こえる。煙と茂みに邪魔されて、どうやら直前まで僕らの存在に気付けなかったらしい。足にロープの絡まった馬は悲痛な声をあげながら身をよじり、またがっていた男はあっけなく落馬した。
「盗賊め! よくも僕らの町を焼いてくれたな!」
 枝を右手に、立ち上がる。しかし即座に剣を抜かれたのを見て、僕は思わずたじろいだ。制服と一緒に盗んだのだろうか、剣もやっぱり騎士の剣だ。銀の装飾がなされた鍔に、百合の紋章が刻まれている。ああ、盗まれた兵士はなんて間抜けなやつなんだろう。祭の時にはどの兵士も、あんなに輝いて見えたのに。思わず憧れてしまった、僕の感動を返してほしい。
「子供……?」
 落馬した時に、強く腰を打ったのだろう。引き抜いた剣を地面に突き立て、よろめきながら男が問うた。意外に若い男だった。年のころはロランと同じくらい。短く切りそろえられた赤髪は、煤にまみれて乱れている。
 僕はごくりと唾を飲んで、それから怖々、頷いてみせた。正直怖くはあったけど、馬は逃げてしまったし、男は既に怪我をしている。それに駆け寄ってきたクロトゥラも、僕のすぐ前に立ち、強く男を睨みつけていた。
 負けるもんか。これ以上、町をめちゃくちゃになどさせはしない。そう思って、僕は木の枝を握りしめる。
 けれど襲ってくるかと思った男は、一向に動きを見せようとはしなかった。そうしてしばらく僕らを眺め、ぽつりと、「熱はないのか」と聞いてくる。
「熱って、……はやり病のこと?」
「ああ。何人か死人が出ているだろう」
 ぱちりと炎のはぜる音がして、男がいささか顔をしかめた。どうやら火の粉を浴びたらしい。自分でつけた炎なのだから、火の粉くらいもっとたくさん浴びればいいのだ。そんなことを思うと、また気持ちがむかむかし始めた。
「わかってて、この町を襲ったの? 町の人が既に疲れ果ててるって知ってたから、火をつけて混乱させたら、なんでも盗めるって思ったの? 人でなし、おまえなんか、本物の兵隊さんにやられちゃえばいいんだ!」
 男が、静かに苦笑したのがわかる。――その時だ。
 ピィィッと風を切るような音がして、僕はびくりと肩を震わせた。そうして辺りを見回していると、目の前の男もまた何かを取り出して、ピィィッと同じような音をさせた。笛だ。笛の音で、誰かに何かを知らせたのだ。
 男は影の落ちた表情を隠しもせずに、片膝をつき、また小さな笛へ息を吹き込んだ。するとどこからか、複数の蹄の音が聞こえてくる。
(仲間がいたんだ)
 さっと、背筋に冷たいものが走った。
 相手は剣を持っている。手負いの相手一人ならまだしも、これ以上数が増えたら、僕らに勝ち目がないのは明白だ。逃げなくちゃ。だけど、こいつらを野放しにしておくことなんて――。
「ネロ」
 囁くようにそう言って、クロトゥラが僕の手を握り締める。その表情を見て、僕は少し驚いた。きっと僕以上に泣き出しそうな情けない顔をしているだろうと思っていたのに、ちっともそんなことはなかったのだ。
 クロトゥラは口許を真一文字に結んで、じっと炎を睨んでいた。まるでその向こう側が見えているかのようだったから、僕も同じ方へと首を回してみる。だけど炎と墓石以外には、他になんにも見えやしない。
「デリク、もうとっくに撤退時間だぞ! 一体何があった!」
 炎の向こう側から声がする。同時に僕らのすぐ後ろからも、蹄の音が聞こえて来た。ああ、囲まれてしまった。クロトゥラの手を握り返す。
 炎に幾つか人影が映る。すると方々から四騎の馬が、僕らの前へと姿を表した。どの馬も、兵士の制服を着た男をその背に乗せている。彼らはみんな、百合の紋章のついた剣を腰に帯びていた。
 ああ、どうしてこいつらみんな、兵士の服を着ているのだろう。こんなにあれこれ盗まれるなんて、この国の兵士はどうやら間抜け揃いらしい。
「……この町の子供か」
 一人の男がそう問うた。
「ええ。完全にやられましたよ。騎士が落馬させられるなんて、みっともなくて涙が出る」
「落馬? お前ほどの乗り手が? ――それは、随分油断をしたようだな」
 言って、騎上の男が低く笑う。いくらか歳のいったその男は、口許にたくわえた髭を撫で、それから僕らへ視線を移した。
 その眼は静かに笑んでいた。けれどそこに優しさはない。
 それがやけに恐ろしい事のように思えて、僕は思わず後ずさる。クロトゥラは一歩も動かなかった。その代わりに、僕の手をぎゅっと握りしめる。
 髭の男が、すらりと剣を引き抜いた。その目はじっと僕らを見て、けっして逃さない。
「威勢のいい目だ。どうせなら、煙に燻されて死ぬよりこの方がいいだろう」
 ぞっとする。すぐにわかった。
 ああ、この男の目は本物だ。
 本気で、僕らを殺そうとしているのだ、と。
(だけど、死ぬってどういう事なんだろう)
 ロランが死んだとき、クロトゥラは「もう会えないんだ」と言って泣いた。ロランはどこか遠いところへ行ってしまったのだと、もう二度とその顔を見ることはできなのだと、そう言いながら泣いていた。
 じゃあもし、僕ら二人が一緒に死んだら? 二人で一緒に生まれてきた僕らだもの。もしかしたら、その『遠いところ』へも一緒に行けるのかな。――だけど僕のそんな馬鹿な考えを打ち消すかのように、クロトゥラは、もう一度強く僕の手を握った。髭の男が、手にした剣を振りかぶったのだ。
 怖くて、恐ろしくて、目をつむってしまいたかった。だけどそうしなかったのは、煙の向こうにほんの一瞬、知った人影が見えたからだ。
「――やめて!」
 悲痛に叫ぶ声がする。それが誰の声なのか、僕らはすぐに理解した。兵士の隣をすり抜けて、駆けて来たのはフェリットだ。
「フェリ、……」
「あなた達、それでも国の兵士なの? こんな子供に剣を向けるだなんて、町に火をつけるだけじゃ飽きたらず、こんな、こんな……!」
 言ってフェリットは、僕らをその背に庇うようにして髭の男を睨み付けた。けれど男はぴくりとも表情を変えずに、ただ剣を納めただけだ。そうして小さく、溜息をつく。
「ここで俺が切らずとも、迎える先は同じだろう」
 男が言った。フェリットは答えなかった。けれど地面に膝をつき、僕ら二人を苦しいくらいに抱き締める。そうして男に背を向けたまま、押し殺した声でこう言った。
「さっさとどこかに行ってちょうだい。――次第にここにも町の人たちが戻ってくるわ。そうなったらあなた達、袋叩きに遭うわよ」
 聞いて髭の男は肩をすくめ、それから無言で背を向けた。手を払うような素振りをすると、他の兵もそれに続く。最後までその場へ残ったのは、僕たちに馬を奪われた、デリクという若い男だった。
「俺たちだってこんな事、好きでやってるわけじゃない」
 やがてその男も、僕らに背を向け去っていった。そしてそいつらは、そのまま一度も僕らを振り返らなかった。
 僕らももはや、それを追おうとは思わなかった。もう撤退だと彼ら自身も言っていたし、それに、なにより、――僕らを抱いたままのフェリットの腕が、ひどく、震えていたのだ。
「フェリ、……フェリ。あいつらもう、いなくなったよ」
 クロトゥラが言った。それでもフェリットは、僕らを抱いたまま離れない。
「ねえフェリ。あいつら兵隊さんの服を着てたんだ。でも兵隊さんは、僕らの国を守るためにいるんだよね? じゃああいつらは、きっと偽物なんだよね?」
 フェリットは答えなかった。ただ、小さく嗚咽を漏らした。
 ああ、フェリットが、泣いている。
 ばちりと大きく火のはぜる音。すると直後に、近くの家屋が倒壊した。こうしている間にも炎はその勢いを増して、町を荒らし回っている。
「逃げなきゃ」
 僕はそう言った。だけどフェリットは、首を横に振るだけだ。
「もう、逃げる場所なんてないの。南も、東も、街道は全て塞がれてしまっているわ」
「どうして、誰がそんな事――」
 言いかけて、僕ははっとした。そんなことをするのは、あいつらしかいないじゃないか。
「さっきの人達……? でもあいつら、僕達を追い出して町のものを盗もうとしてたんじゃ」
「盗む? 彼らは、こんな田舎町のものになんて興味も持たないわよ」
 言ってフェリットが僕らを抱き締める手を緩め、涙で赤くなった目をこする。
 その口許が笑っていた。
 僕にはなぜだか、それが悲しい事に思えてならなかった。
「二人ともよく聞いて。彼らはね、本物の兵士なの。……ロランを奪ったあの病気が、他の町に感染するのを食い止めるために、私達の町を焼きに来たんですって。ここで私達ごと、病を焼き殺すそうよ」
 聞いて、僕とクロトゥラは思わず顔を見合わせた。本当の事を言うと、この時の僕らはフェリットの言葉の意味を半分も理解してはいなかった。だけどそれでも、胸がぎゅっと苦しくなった。
 町の外へは逃れられないらしいこと。けれどなんとかして、炎から身を守らなければならないこと。――そしていつも明るく笑っていたフェリットが、今、こうして泣いていること。それが、僕らにわかる全てだった。
「……隠れ家だ」
 唐突に、クロトゥラがぽつりと呟いた。
「隠れ家なら街道とは逆の方向にあるし、町とは川を隔ててるから、炎も追っては来ないよね」
 言われて僕は、瞬きした。確かにそうだ。それに今や、隠れ家への道には立派な階段と、作り途中ではあるけれど、それなりに幅のある橋が架かっている。
「父さんも、隠れ家の大体の位置は知っていたはずだよね。もしかしたら、そこで合流できるかも」
 僕が言うと、クロトゥラは煤のついた顔を手でぬぐい、うん、と大きく頷いた。ただフェリットだけは不安げに曇った表情のまま眉根を寄せて、しかし何かを決意したかのように、しっかりとした口調で僕らに言った。
 その顔は、もう泣いてはいなかった。
「前に話してくれた、あなた達の秘密基地ね? ……なら二人とも、そこへ急いで。きっとご両親も心配しているわ」
「うん。僕ら、何も言わずに来ちゃったから……。フェリ、行こう」
 言って僕が手を取ると、フェリットは一瞬だけはっとしたような顔になり、それから柔らかく微笑んだ。ああ、久々に見る、僕の大好きなフェリットだ。
「僕たち、いつかフェリを呼ぼうと思って、隠れ家に階段をつけたんだ。まだ造り途中だけど、手前の川には橋もあるよ。だから、鈍くさいフェリでも大丈夫」
「あら、失礼な言い分ね」
「だって、フェリはおっちょこちょいだもの」
 僕が笑うと、隣でクロトゥラもくすくす笑った。フェリットも笑った。
 だから僕は、全てうまくいくと信じて疑わなかった。隠れ家まで行けば、きっと父さんや母さんにも会える。あそこには貯め置きしてあるお菓子もあるから、それを食べているうちに、炎はきっと消えるだろう。
 このときの僕は、呆れるほどに楽天的だった。
 本当はその瞬間にも、町では何人もの人が炎に焼かれ、あるいは街道を無理に突破しようとして兵士と争いになり、死んでいたなんて、考えもしなかった。

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