吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

第二節「さよならの産声」

 一番に発病したのは、ロランだった。
「……フェリ、今日も看病で忙しいんだって。ロランの熱、まだ下がらないみたい」
 つまらなそうにそう言って、クロトゥラが木材を切り落とす。聞いて僕もやすりをかけていた手を止め、ふと町の方へ振り返った。僕が今居るこの場所から、森と川とに隔てられたミメットの町が見えるはずはなかった。だけど何故だかその時の僕には、懸命にロランの看病をするフェリットの声が、聞こえるように思えたのだ。
――ロラン、大丈夫よ。栄養をとってゆっくり休めば、きっとよくなるからね。
 僕が風邪をひいて寝込んだ時も、フェリットはそう言ってお見舞いに来てくれた。きっと、今も、おんなじだ。
「じつは昨日、ロランの家に行ったんだ」
 クロトゥラが唐突にそう切り出した。そうして草むらにぽすりと座り込み、僕には落書きにしか見えない、階段の設計図を眺めている。するとこの弟は、眉をしかめてこう言った。
「でも会わせてくれなかった。町の大人が寄ってたかって、絶対ダメだって。お見舞いくらい、させてくれたっていいのに」
 口を尖らせ、ぶつぶつと文句を言っている。僕は呆れて溜め息をつくと、「ばかだな」と言ってこう続けた。
「熱がうつるからだよ。クロトゥラはこの前だってフィスのお見舞いに行って、風邪をもらってきたじゃないか。僕にまでうつしてさ」
「あの時は、そっちだってテストをさぼれてラッキーだって言ったじゃないか。……でもさ、最近、ちょっと変だと思わない? どんなに酷い風邪だって、今までならちょっと顔を見るくらい、なんの問題もなかったのに。何か隠し事をされてるみたいで、僕は、やだな」
 そう言ってクロトゥラは、口を尖らせたままその場へ寝転んでしまう。僕も一方でやすりを放り出し、またふと町の方を見た。実は僕も、クロトゥラと同じ違和感を覚えてはいたのだ。
 ロランが熱を出して倒れたのが、もうかれこれ一週間前。それに続いて他の家でも、熱を出して寝込む人が出ていると聞いていた。どうやら彼らも、ロランと同じ症状らしい。ただ、僕らにはその『症状』がどんなものだか、この時はよくわからなかった。大人達が邪魔をして、体調を崩した誰とも会わせてはくれなかったからだ。
 だけどそれから更に三日も経つと、頼んでもいないのに町中がその話をするようになった。前例のない病気だからよく効く薬がないとか、かと思えばその一方で、タマネギを食べると予防になるなんていう話が出回って、あっという間に店からタマネギが無くなったりもした。
 その病気にかかると、まずは皮膚に黒っぽい斑紋が浮かぶのだそうだ。そうして熱を出して、歩けなくなる。それが一週間も続くと、食べ物が喉を通らなくなるとも聞いた。
 町で一番に倒れたのは、ロランだった。だから僕にはわかっていた。町の人々が青い顔をして話すその病状は、全てロランの身に起こっていることなのだろう、と。
「ロラン、大丈夫かな」
 釘打つ手を止め、クロトゥラがぽつりと言った。僕は答えなかった。するとやつは、こうも言った。
「フェリにも、もうずいぶん会ってないね」
 僕はそれでも答えなかった。ただ、しばらくしてから「大丈夫だよ」と呟いた。
「だって、フェリがついてるもの」
 根拠とか、そんなものはこれっぽっちも考えてはいなかった。
 ただ願望を述べただけ。だけど実際には、なんにも「大丈夫」なんかじゃなかったのだ。
 
 数日後、町は混乱に陥った。闘病の甲斐も空しく、――ロランが、息を引き取ったのだ。
 始めに母さんからその話を聞いたとき、僕はきょとんとして、思わず幾度か瞬きをした。あまりにそれが唐突で、しばらく理解が出来なかったのだ。
 僕がようやくその言葉の意味を呑みこんだのは、隣でクロトゥラが泣き出した後だった。
 クロトゥラはロランの亡骸を見たわけでもないのに、わんわんと、それはもう大声で泣いた。あんまり大きな声で泣くものだから、心配した父さんが畑から戻ってくる始末だった。
「じゃあ、ロランにはもう会えないんだ」
 馬鹿みたいに泣きじゃくるその声を聞いていると、まるで僕まで泣いている気になった。
 それで、泣きそびれてしまった。
 
 例の病気が、遂に人の命を奪った。その事実が町にもたらした恐怖は、僕らが思った以上に悲惨なものだった。
「隣町から呼んだ医者が、昨日のうちに消えたって? 病人は増える一方なのに?」
「あの野郎、医者のくせに我が身惜しさに逃げやがったんだ!」
「国の特使団はいつ来るの? 使いを出したのは、もう三日も前のことなのに」
「お願い、誰か、誰か助けて! 私の子にまであの斑紋が……ねえ、どうしたらいいの!」
 暗い顔をして、不安を語る人がいた。ところ構わず、叫びまわる人もいた。
 僕たちはその時、町が壊れていく様を目の当たりにしていた。
「……なんだか、怖いね」
 僕がぽつりと呟くと、クロトゥラは何も言わずに、うん、と頷いた。だけどその手は止めやしない。この弟は、今でもフェリットのための階段を造っていたのだ。
「ねぇ。階段造り、まだ続けるの?」
 言ってごろんと転がると、僕が投げやったままにしたトンカチが視界に入った。昔、ロランがくれたトンカチだ。
「造るよ。これが終わったら、手前の川に架ける橋もつくる」
「もう、お祝いなんてできないのに?」
「いいんだ。フェリが少しでも、元気になってくれるなら」
 その言葉の意味はすぐに知れた。ロランが土に還って以来、フェリットはすっかり、家に籠りがちになってしまったのだ。僕らが彼女を訪ねて行くと、フェリットは真っ赤な目をして、「いらっしゃい」とだけ言って笑った。いや、笑いかけようとしたのに違いない。だけどフェリットの頬は、それ以上ピクリとも動かなかった。
「フェリ、また笑ってくれるかな」
 クロトゥラが、自信なさげにぽつりと言った。僕は答えなかった。ただ、ひょいと体を起こしてロランのトンカチを拾った。
「笑うよ」
「そうかな」
「僕らが笑わすんだ」
 僕がにやりと笑うと、心得たふうにクロトゥラも笑った。僕ら二人なら、それができると信じて疑わなかった。
 この時、僕らはまだ知らなかったのだ。もはや町にはロランがかかったのと同じ病が蔓延していたことも、その翌日に三人、翌々日に四人、また病に命を奪われる人が出ることも。
 ――そして考えてみもしなかった。僕らの町が、国に見捨てられていたことなんて。
 
「おい、みんな起きろ!」
 明け方の町に怒声が響く。
 天井の低い部屋へ無理に造り入れた二段ベッドを飛び起きると、うっかり頭をぶつけてしまった。すぐ下からも同じような音がしたから、恐らく、クロトゥラも同じことをやったのだろう。
「なんだろう?」
 言ってひょいと顔を覗かせると、クロトゥラも下から僕を見上げていた。すると廊下を走るばたばたという音がして、直後、勢いをつけて僕らの部屋のドアが開く。
「二人とも、急いで出かける準備をなさい!」
 母さんだった。寝間着の上に厚手のカーディガンを羽織り、今までに見たこともないような、真っ青な顔をして立っている。
 一体何が起こったのだろう。考えて、僕は小さく身震いした。もしや、また誰かが死んだのだろうか。それとも、父さんが病気にかかったとか? だけど母さんは『出かける準備』と言った。……冬も近付いたこの時期に、こんな朝から、一体どこへ?
「靴を履いて! それから、ほら、これを着て」
「母さん、これ、二枚ともセーターだよ」
「重ねて着なさい。少しでも暖かくしなくちゃ……。さあ、早く。父さんが待ってるわ」
 しぶしぶ袖を通したそれは、僕の一番嫌いなセーターだった。柄も気に入っていなかったし、それを着ていた時、変な虫に刺されて顔を腫らしたことがあるのだ。だけど母さんがあまりに急かすものだから、僕には文句を言う暇などなかった。
「ねえ、母さん。……なんだか、変な臭いがする」
 眉根を寄せてクロトゥラが言うが、母さんは何も答えない。二枚のセーターで着ぶくれた上から、一番厚地の上着を羽織る。玄関口に立った父さんは怖い顔をして、一度、僕らの手をぎゅっと握りしめた。
「父さん達は荷物があって、お前達をおぶったりしてやれない。いいか、シロフォノはクロトゥラの、クロトゥラはシロフォノの手を、絶対に放すんじゃないよ。それで、父さん達についておいで。くれぐれも、はぐれないようにな」
「父さん。僕ら、どこへ行くの?」
「父さんにもわからない。だけど、この町にはいられないんだ。二人とも、家にも町にもさよならをお言い」
 聞いて僕とクロトゥラは、思わず顔を見合わせた。一体なんだというのだろう? だけどそう思ったのも、本当に一瞬のことだった。母さんが玄関を開けた瞬間、僕らはともかく、この町を去らねばならないことだけは否応なしに理解したのだ。
 人々が手に手を取り、荷物を担いで走って行く。僕とクロトゥラは競うように外へ出て、人々が背を向ける方を見、息を呑んだ。
 炎が踊っている。
 通りの向こうの市場が、今まさに、炎に喰いつかれている。火事なのか? だがそれなら、なぜ誰も消そうとしない?
「ネロ」
 呟いて、クロトゥラが僕の手を取った。その手がいささか汗ばんでいる。僕も反射的にその手を握りかえした。
 それを手放すのは、酷く恐ろしいことのように思われた。
 母さんが、大声で僕らの名前を呼んだ。ついてきなさいと叱られて、僕ら二人も走り出す。
「駄目だ! 北の街道は、既に閉鎖されている!」
 町全体が、右へ、左へ、落ち着きなく走り回っていた。誰かの叫ぶ声が聞こえると、その場に泣き崩れる人がいた。呪いの言葉を繰り返す人もいた。そんな中で僕たちは、ただ父さんの後について走ることしかできなかった。何が起こっているのやら、欠片も理解できない僕たちには、そうするより他になかったのだ。
「ねえ母さん、一体何が起きているの?」
 母さんは辛そうに肩で息をして、口を開かないまま首を横へ振った。何も知らないままでいい。沈黙が、そう語っている。
「ねえ、ロランがかかったあの病気と、何か関係があるの?」
 母さんはやっぱり答えなかった。ただ煤で黒くなった頬に、涙が一筋流れていった。
「おい、――逃げろ! 逃げろォ!」
 怒鳴り声に、振り返る。そうして僕は、はっと短く息を呑んだ。僕らのいる人集りへ向かって、一頭の馬が駆けてくるのが見えたのだ。
 真っ黒でつややかな毛をした、見たことのない馬だった。その背には立派な鞍をかけ、一人の男を乗せている。腰に剣を帯びた、立派な身なりをした男だ。その男が身にまとった服に、見覚えがあった。
 去年の暮れに隣町の祭で目にした、この国シナヴリアの兵士の服だ。
 なぜ兵隊さんが、こんなところにいるのだろう。もしかしたら、僕らを助けに来たのだろうか。しかしそう考えるのとどちらがはやかっただろう。僕は逃げまどう大人達に突き飛ばされて尻餅をつき、父さん達を見失ってしまった。
 遠くの方で、父さんが僕らを呼ぶ声がした。隣でクロトゥラも、必死に父さん達を呼んでいた。けれど僕は何も言わず、弟の手を握りしめただけだ。その時の僕の目には、逃げまどう人々も、それを取り囲む赤い炎も、見えてはいなかったのだ。
 僕はただ、目の前を駆け抜けていった兵士の後ろ姿だけを見ていた。
 それで、信じられないものを見てしまった。人々を蹴散らしたその兵士は手に松明を持ち、あろうことか、それを民家へ投げ入れたのだ。
「……あいつ、何するんだ」
 ぽつりと呟くと、クロトゥラが「えっ?」と声を上げた。そうして僕のすぐ横で、小さく肩を震わせる。恐らく彼も、兵士のしたことに気付いたのだろう。そうしている間にも、兵士はまた新たな松明を出し、炎に近づけそれを燃やし、別の所へ投げ入れる。
「どうして、兵隊さんがあんなこと……」
 震える声でクロトゥラが言った。僕は構わなかった。ただ、足は兵士を追っていた。
「ネロ、どこ行くの。父さんたちを探さなきゃ」
「クロトゥラは先に行ってて。僕も後から行くから」
「あの兵隊さんを、止めるつもり?」
 「うん」と短く答えて、僕は繋いでいた手を少しゆるめた。だけど弟の手は、一向に離れる様子がない。クロトゥラが断固として、僕の手を放さなかったからだ。
「なら、僕も行く」
 そうして僕らは、駆けだした。

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