吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

第一節「君と数えて八つめの秋」

 ああ、ヤツが来る。そんな予感がして、僕は思わず溜め息をついた。
 面倒くさいなとまず思う。とてもではないが、その時の僕は『ヤツ』のお気楽に付き合えるような気分ではなかったのだ。
 放っておいてくれ。一人の時間が欲しいんだ。この八年間の人生の中で、僕は今、最高に落ち込んでいるのだから。
「ネーロー!」
 僕の切望を裏切る声が、下の方から聞こえて来る。続いて聞こえてきたのは、この『隠れ家』へと続く、蔦を登る脳天気な音だ。
 ああ、来た来た。二度目の溜息。すると次の瞬間、カーテンの向こう側から見慣れた顔が現れた。
「ネロ! なんだよ、いるなら返事しろよな」
 満面の笑みでそう言って、ひょこりと顔を出したのは、『もう一人のネロ』こと双子の弟クロトゥラだ。ヤツは担いでいた鞄からいいにおいのする包みを取り出すと、それをにこにこしながら手渡してくる。
 その匂いにピンと来て、僕の口はへの字に曲がった。
(わざとだ。最低だ)
 ああ、わかってるよ。この弟はこんな時、絶対に空気を読まないんだ。にこにこしながらこういう事をして、僕の傷を抉っていく。
 僕がゲンコツを握りしめると、クロトゥラはそれをなだめるように、何も言わずに包みを押しつけてきた。相変わらずのにこにこ顔だ。僕は三度目の溜息をつくと、まずは別の事に文句を言った。
「僕をネロって呼ぶの、やめろって言ったのに。この町には同じ顔のネロが二人もいて、紛らわしいんだから」
 するとそれを聞いたクロトゥラは、幸せそうににへらと笑う。何がそんなに楽しいのか、正直僕にはわからない。
「紛らわしくなんかないよ。僕にとって僕以外の『ネロ』はシロフォノだけだもん。僕が『ネロ』と呼んだらシロフォノのこと、おまえが呼んだら僕のこと。ほらね? わかりやすいじゃない」
 以前も同じようなやり取りをした事があったが、その時よりもずっと理屈っぽくなっている。……この弟はいつだってこうだ。面倒くさい。
 だけどもっと始末が悪いのは、デリカシーってものを欠片も持っていない事だ。
 僕がしぶしぶ包みを受け取ると、あろうことか、ヤツはこんな事を言った。
「そんなに苛々するなよなー。シツレンしたってくらいでさぁ」
 言ってあははとクロトゥラが笑う。僕はゲンコツを握りしめると、今度こそはヤツの額に、渾身の一発をお見舞いしてやった。
 差し出された包みからは、チェリーパイのいい香りが漂っている。
 フェリットが作ったチェリーパイ。――僕が一生、大好きなパイ。
 その時の僕は子供だった。だけどそれでも、いつも笑顔でそのパイを切り分けてくれる彼女に抱いた恋心は、本物だったと信じてる。
 
 僕とクロトゥラの二人が生まれたのは、シナヴリア領スーラ地区にあるミメットという町だった。
 町というより村といった方が正しいような、本当に小さな集落だった。住んでいるのは百人ちょっと。通りを見れば、人より牛の方が多く歩いているような、田舎町だ。
 両親は小さな畑を耕していた。器用で人のいい父、しっかり者で人望の厚い母。僕らは日中彼らを手伝って、町のはずれにあったフェリットの家からパイの匂いが漂う時間になると、彼女の家へ駆けていった。
 豊かではないけれど、生きるには事欠かない毎日。
 車輪を転がして遊んだ坂道。ふざけて屋根を壊してしまった納屋。雨が降ると休みになる野外の学校に、森の奥へ造った秘密基地。宝物がたくさんあった。
 僕はその町が、好きだった。
 
「あら、また喧嘩したの?」
 そう言って笑ったのは、僕の初恋のフェリットだ。僕より十年上の、農夫の家の一人娘。癖のある栗毛を一つにまとめ、白いエプロンを身に着けた姿は、町の誰より可愛かった。
 僕は頬に青痣のできた顔をしかめて、ふと隣に立つクロトゥラを見る。――呆れた。この弟の目は、既にテーブルの上の物に釘付けになっている。クロトゥラの顔にも昨日僕がつけた傷が幾つもあったのだけど、既に痛がる様子はなかった。それよりも、目の前に置かれたパイの方がよほど気を引いたのだろう。
(単純なヤツ)
 心の中で毒づくと、それを読んだかのように、フェリットがまたくすりと笑った。僕が気恥ずかしさに顔を背ける一方で、クロトゥラは皿を受け取っている。するとそこへ、扉の開く音がした。僕の『宿敵』の登場だ。
「ロラン。ちょうどよかったわ。今、パイが焼けたところなの」
 フェリットがふわりと微笑んで、扉の方を振り返る。平和ボケした締まりのない顔で姿を表したのは、ロランという名の鍛冶屋の男――フェリットの、婚約者だ。
「おや、二人とも。こんにちは」
 僕たちの存在に、たった今まで気付かなかったらしい。それで余計に腹がたった。ロランはプロポーズが上手くいってからというもの、すっかりフェリットのことしか目に入らないらしいのだ。
(どうせなら、うかれすぎで肥溜めにでも落ちたらいいのに)
 僕が何を考えているのかなんか知りもせず、ロランは笑ってフェリットのパイを食べ始めた。僕の事を見て、「また背が伸びたな」なんて言ってくる。当たり前だ。毎日お日様を沢山浴びて、嫌いだったルコスの葉だって食べているんだから。
 だけどお前に気付いてほしくて、背を伸ばしていたわけじゃない。僕はただ、フェリットに早く追いつきたかったんだ。
(……。お前みたいなガイチュウがつく前にね)
 そう思って睨み付けても、ロランは意に介した様子もない。それどころかクロトゥラをからかって遊んでいるのを見ていると、今度こそ、確実に苛々が募ってきた。ロランに、というより、クロトゥラに文句を言いたかった。このバカ。何、ロランなんかに子供扱いされてるんだ。
 だけどふと見たら、フェリットは笑顔でそんな二人を眺めていた。
 幸せそうな顔をしていた。
 それが無性に、悔しかった。
 
「なぁネロ。僕、いいこと考えたんだけど」
 クロトゥラがにこにこしながらそう言った時点で、嫌な予感はある程度あった。
 フェリットの家からの帰り道。とはいえ僕らが向かっていたのは、両親の待つ家ではなかった。町の外れにある『隠れ家』だ。
 町から川を隔てた、深い森の中の家。町で見つけた木切れや茅葺きを使って作った、木の上の家。母さんに叱られた時や、いたずらを考える時、それからこっそりおやつをくすねた時に使う、僕らだけの秘密基地。そこへ向かうまさにその道で、クロトゥラは、目を輝かせてこう言った。
「あのさぁ、僕――。結婚のお祝いに、フェリを隠れ家へ招待したら楽しいと思うんだ。ねぇ、ねぇ、どう思う?」
 僕はすぐには答えなかった。その代わりにあからさまな溜め息をつくと、クロトゥラがひょいと小首を傾げ、僕の顔を覗き込んでくる。
「ダメかな。フェリ、前から一度行ってみたいって言ってたし、いいアイディアだと思ったんだけど……」
 こいつがこういう聞き方をしてくる時は、多少は遠慮を感じている時だ。僕はもう一度溜め息をつくと、兄さんらしく考慮して、こう言った。ちなみに今度の溜め息は、諦めからくる溜め息だ。
「フェリはあんな獣道、歩けないよ」
「そんなの、僕達が助けてあげたら大丈夫だよ」
「『隠れ家』まで行けたとしたって、あの入口はどうするのさ。僕達は蔦を登って入るけど、フェリは木登りもできないんだよ」
「そっか、階段を造らないとね」
 納得、といった様子でクロトゥラが指を鳴らした。その目は既に、階段作りの算段を始めている。放っておいたら、今にも作業を始めかねない。こいつ、造る事に関してはやたら器用なんだ。
 僕が黙ったままでいると、クロトゥラはまた心配そうに眉根を寄せながら、僕の顔を覗き込んできた。多分、僕が怒っているのだと思ったのだろう。証拠に、こんな事を言った。
「確かにあそこは僕達だけの隠れ家だし、他の誰も入れた事がないけど……。僕、フェリならいれてもいいと思ったんだ」
 僕もそうは思ってる。嫌がってるのは、単に僕がシットしているからだ。
 フェリットの結婚なんて、少しも祝いたくないんだよ。ロランにとられてしまうのが、堪らなく悔しいんだ。
 だけどどうやらこの弟は、僕のそんな気持ちにも気付いているようだった。
「あの……ほら。それにさ、僕達がフェリをヒトリジメできるの、それが最後かもしれないでしょ。結婚したら、フェリだって子供を生むだろうし、その……だから」
 なんだ。やっぱり鈍いのは、『フリ』だけなんじゃないか。
 僕はふと立ち止まると、遅れて立ち止まったクロトゥラの頬を思いっきりつねってやった。
「ヒトリジメじゃなくて、僕達の場合フタリジメだよ」
 僕が言うと、クロトゥラは一瞬だけ驚いた顔で瞬きをして、すぐに笑顔でこう言った。
「ヒトリジメでもいいじゃない。僕達は二人とも、『ネロ』だもの」
 ――そうして僕達はしばらくの間、ひとけのない森の中で、階段造りに没頭した。
 少しトロい所のあるフェリットにも、安心して登れるように。いつか彼女に子供ができたら、僕達の弟か妹かのように、『隠れ家』へ迎え入れる事ができるように。
 
 だから僕らは助かってしまった。
 この時、町で恐ろしい病気が伝染しつつあったのだ。

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