吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

プロローグ「ゆく路」

「痛い、痛い! そんなにひっぱったら、腕が抜けちゃうよ!」
 喚きながら、掃除の行き届いた清潔な廊下を小走りに進む。手を引かれて歩くなど、一体何年ぶりだろう。そう考えて、僕は思わず苦笑した。
(なにを考えてるんだ、シロフォノ――。そんな場合じゃないって、十分わかっているだろう)
 自問する。どうにもおかしな話だった。自分の腕を引く人物はひょろりとしたヤサ男で、肩幅だってたいしてない。この手を振り払おうと思えば、いつだってできるはずなのに。
(ああ、――傷の場所が問題だ)
 聖地ウラガーノから、取って返したマラキア宮。途中で刺客に遭い、僕が矢で射られたことを聞くと、この男は即座に手当を申し出た。……その気持ちはありがたい。だが『あれ』を見られてはお終いだ。任務は失敗。ここにはもういられない。
 適当なことを言って、煙に巻け。そういう事は、得意じゃないか。
 そうだ。僕にならできるさ。少しも疑われることなく、この足を止めさせることくらい――。
 けれど頭ではわかっているのに、それなのに、僕は何も言えぬまま、前を行く人物、ナファン殿に腕を引かれて歩き続けていた。
 何故だろう。何故だか、今日はうまく行かない気がした。欺けない。――この人達を欺きたくないと、そう思ったのだ。
 だからだろうか。僕の口から、こんな言葉が飛び出した。
「マラキアの人はみんな、『こう』なんですか」
 言うと、ナファン殿がくるりと振り返る。
「何がです」
「みんなこんなふうに、お人好しなのかなと思って」
 お人好しで、それでいてあまりに、平和というものに惚けている――。それはある意味妬ましく、だけど僕にしてみれば、なんだかくだらない生き方のようにも思えた。
 だって彼らは僕らみたいに、生きることに執着があるようには思えなかったから。
 ただのんびりと、権力者とそれに連なる者たち特有の、緩やかな時の流れに身を任せてばかり居るように見えたから。
 だけど僕のその問いに、ナファン殿はただ目を細めて、「そう見えますか」とまず言った。
「……見えます」
「そうですか」
 言って嬉しそうな笑顔を浮かべると、ナファン殿は不意に僕の腕を放した。そうして手招きするだけして、さっさと先へ進んでいってしまう。僕がぽかんとしていると、ナファン殿は独り言のようにこう続けた。
「そう見えるなら、それが一番良いのです」
 僕にはその答えの意味が、今一つ、よくわからなかった。

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