廻り火

【 番外編 】

番外編:偽おやごころ -4-
 
 馴染みの記者との打ち合わせを終え、会議室を出たルドルフを出迎えたのは、マルドリア・ジャーナル編集室の喧噪であった。
 メモを片手に何事かを喚きながら、外へ出かけていく記者が居る一方で、ツー・トンの信号機から情報を聴き取った物静かそうな男が、まるでルドルフの姿など見えていないかの如く、行く手を遮り駆けていく。産業化により急速に発展したアビリオの街でも、これ程までに慌ただしい職場は他にないだろう。だがこの喧噪の中で綴られた、記事の組み版を請け負うライジア印刷所の人間としては、他人事とも言ってはいられない。
(こりゃ、また締めギリギリに原稿が届くパターンだな……)
 そんな事を考えながら、彼らを掻き分け出口へ進む。そうしてルドルフがやっとの事でホールに辿り着き、腕にかけていた上着を羽織ろうとしたところへ、不意に覚えのある声がかかった。
「ルドルフ! やあ、お前もようやく所帯を持つ気になったのか」
 マルドリア・ジャーナルの記者の一人、セルゲイだ。振り仰げばホールを上下に貫く吹き抜けを覗き込むようにして、当人がこちらへ、軽やかに手を振っている。
「おめでとう、と言いたいところだが、お前のせっかちは相変わらずだな。聞いたぞ。嫁の前に子供とは。公国紳士の致すところではないな」
「またその話か。相変わらず耳が早いな」
「ふふん、記者の地獄耳をなめるなよ」
 徒弟時代のこの同期は、にやりと笑って手を振ると、颯爽と階を降りてくる。他人事だからと、気楽なものだ。「なら、事の顛末も知ってるんだろう」と溜息混じりにそう言えば、「おおまかには」と頷いた。
「マクシムの賭け癖もよろしくないが、お前さんのお人好し具合も随分なことだ。そんなに人手が足りなかったのか」
「どこぞの記者様々が、無茶な発注かましてくるからな」
「字の読めない子供なんか、入れたって足しにはならないだろう」
「なら今更、この寒空の下へチビ一人、追いだせってか?」
「ああ、そうだ」
 思いも寄らない強い肯定の言葉に、返答の言葉がふと詰まる。そうして視線で事を問えば、この友人は肩を竦めて、「場合によっては」と付け足した。
「ルドルフ、わかっちゃいるだろう? 農村から大量に人間が流入してきたことで、町の治安は悪化の一途を辿るばかりだ。一見無害そうな子供だって、裏で悪党が糸を引いてる、スリ集団の一員だったりするぜ。聞いた話じゃその子供、身元も何もわからないそうじゃないか。情け心で雇ってやっても、恩を仇で返される可能性だってある」
 飾らぬ言葉に、ふと、今朝の騒動が脳裏を過ぎる。
――物盗りが。
 ユベールの言ったその言葉に、ルドルフも、咄嗟にウィルを疑った。だが。
――おやかた、ありがとう。
 古紙に印字された自らの名前を見て、心底嬉しそうにそう笑んだ、ウィルのことを思い出す。
 字の読めない子供が一人増えたところで、すぐには仕事の足しにならないことなど、ルドルフも十分承知している。一から育てるのを億劫に感じたことも確かだが、こうなった以上、面倒を見てやろうと腹に決めたところなのだ。そこへ来て、当人に会ってすらいない第三者に、何をずけずけ言われなければならないのだろう。
 不愉快さがふと胸に落ち、眼を細めて腕を組む。「確かに身元はよくわからんが、」と唸れば、セルゲイが意外そうに瞬きした。
「今まで何をしてたのかは、ちゃんと聞いてある。二月前までオルフェ通りのパン屋にいて、その前は洗濯屋、更にその前は鍛冶屋にいたらしい。文字は読めないし計算も出来そうにないが、気が利くし、前の職場でもやってたんだろう、掃除の腕前はそこそこだ」
「へえ。確かそのパン屋、経営がまわらなくなって店主が夜逃げしたんだったよな。まあ、詳しい理由は知らないが」
 即座にそう返されて、また言葉に詰まってしまう。するとこの友人は、「必ず追い出せって話じゃない」と笑ってみせた。
「ただ、気をつけろって言いたかったのさ。こういうご時世だ。友が泣くのは、見たくないからな」
 
 釈然とした思いを消化できぬまま、しかし善意から忠告をしてくれた友人を無碍に扱うこともできず、曖昧なままセルゲイと別れた。そうして印刷所までの道を歩きながら、ルドルフは、一つ大きく息をつく。
 セルゲイの言葉に間違いはない。町の治安が悪化しているのは事実であるし、子供の窃盗集団が検挙された例だって、これまで何度か記事にした。
 だが何故か、ここまで来た以上、――疑いたくはないのである。
――ここで眠ったら、だめですか。あの、ゆかで、……へやの中で。
 萎縮しきった様子で、しかし懇願するようにそう言った、少年の姿を思い出す。以前は納屋で寝泊まりしていたと言っていたが、それは件の、夜逃げしてしまったという店主と交渉した結果だったのだろうか。それともただ納屋を使えと言われて、ルドルフが火は使うなといった時のように、従順に「はい」と答えたのだろうか。
――よろこんでもらえるかもって、思って。でも、
 申し訳なさそうに肩を落として、消え入りそうな声で「ごめんなさい」と謝罪した、ウィルの表情を思い出す。すると何故だか、印刷所へ戻る足が些か急いた。
(そういや、誤解を解いてなかったな)
 お前のしたことは、謝るようなことではなかったのだと。
 あの掃除はありがたかったと、言ってやらなくてはなるまい。
 しかしそうして歩みを早め、郵便局の角を曲がった、その時だ。
 ふと前方に見知った子供の姿を見たように思い、訝しんで眼を細める。間違いない。ウィルである。印刷所では俯きがちに佇んでいたあの少年が、今は幾らか背筋を伸ばし、きょろきょろと辺りを見回している。きょろきょろと、というより、うろちょろと、と表現した方が適切だろうか。この少年は裏路地へと続く細い道を覗き込んでは、またすぐにそこを離れ、今度は反対側の路地を覗き込む。
 何かを探しているのだろうか。ルドルフが幾らか距離を取ったまま様子を窺っていると、ウィルは大袈裟なほど首を左右に振り、辺りに視線を配ってから、今度はひょいと、細い小径へ入っていく。
――一見無害そうな子供だって、裏で悪党が糸を引いてる、スリ集団の一員だったりするぜ。
 否定しようとしていたセルゲイの言葉が、否が応にも脳裏を過ぎる。しかし咄嗟にその後を追おうとしたルドルフの前に、ウィルとは別にもう一つ、小さな影が転がり込んだ。
 犬だ。
 グレーの毛並みに、まるで老紳士のようにふさふさと蓄えた白い髭。ルドルフには犬種などとんとわからないが、しかし番犬として飼うような大きな犬ではなく、どちらかといえば、金持ちの飼うような小型犬である。怪我でもしているのか、それとも年寄りなのか、足を地面に擦るようにして歩く姿は頼りないが、しかし、この犬はまるでウィルの歩みにあわせるように、ひょこひょこと彼の後へとついて行く。
 反してウィルの方は、距離を取って様子を窺うルドルフに気づくどころか、この犬の存在にすら気づいた様子がない。何かを探すように左右を見回しながら歩く少年は、次第にとぼとぼと肩を落とすようになり、しかし不意に、
 わんっと犬が吠えたのを聞いて、はっとした様子で振り返る。一方でルドルフは咄嗟に脇道へと姿を隠して、しかしそれから、何故隠れるのだと自問した。町で偶然見かけたから、気になりここまでついてきた。それだけだ。やましいことは何もない。ただそう言い訳をする自らが、何やらやけに滑稽だ。
 一方でウィルはルドルフに気づいた様子もなく、「スター!」と明るい声を上げた。
(……、スター?)
 道の脇へと身を隠したまま、そっと様子を窺ってみる。見ればウィルはその場にしゃがみ込み、先程の犬を抱きしめていた。やや強引とも思える仕草で首元やら腹やらを撫でまわしているが、犬の方も慣れたもので、特に嫌がる様子もない。
「スター、昨日はひとりでさみしくなかった? あのね、食べ物をもらったからおまえにもあげようと思って、もってきたんだ」
 わふっと犬が声を返す。するとウィルは得意げに、右のポケットに手を入れた。取り出したのは、昨晩ルドルフが渡したクラッカーだ。
 てっきり一箱食べきってしまったのだと思っていたが、そういうわけではなかったらしい。そういえば今朝方、ウィルが何かを自らのポケットへねじ込んでいたのは、これであったのだろう。そうする間にもこの少年は、数枚のクラッカーと、ぺたんこになってしまったパンらしきもの――恐らくこちらは、朝食として渡した分の一部だろう――を手に取り、自らもそれを食べ始めた。ウィルの手からクラッカーを咥えた犬も、そのすぐ横に我が物顔で座り込む。
「いんさつじょのおやかたが、仕事をくれることになったんだ。おれはね、そうじと、ざつようと、あとかいはんっていうのをするの。かいはんってね、こうやって、……文字の石がならんでるのを、ばらばらにして棚にもどすことなんだって」
 人前ではあんなに縮こまって、口数の少なかった少年が、犬の前ではよく話すものだ。ウィルが道端の石を横並びに並べながらそう説明するのを聞き、ルドルフはふと、昨晩のやりとりを思い出す。
――外はすごく、あの、いぬがいても、冬はさむくて、
 そういえば昨日の晩も、犬がどうとかと言っていた。この寒空の下、パン屋をクビになってからこれまでの二月はどう過ごしていたのだろうと思ったが、恐らくああして野良犬に寄り添って、その体温で暖を取っていたのだろう。
「おまえなんかやっぱりいらないって、言われなければの話だけど……。夜は、へやの中で眠ってもいいって言ってもらえたんだ。だから今日からは、おまえにしがみつかなくても、凍えずにすみそう。スター、今までありがとう。でもこれからも、たまにおれの話をきいてね」
 細い路地裏に、ひゅるりと冷たい北風が抜ける。それでもウィルはぽつぽつと、犬に向かって言葉を続けた。特に話題に上がったのは、ルドルフにとっても記憶に新しい、昨晩の例の事件のことだ。船頭のマクシムと知り合ったこと。賭けのこと。逃げ出したい思いをこらえて向かった鞄屋には、ちょうどその時、ウィルの顔見知りが訪れていたのだという。
 その顔見知り、――以前この少年が働いていた洗濯屋の女将が、運良く鞄屋の夫妻と馴染みの仲であった。そこで話を付けてもらえたからこそ、ウィルは用心深い鞄屋から、例の鞄を受け取る事が出来たらしい。
(案外、ちゃっかりした奴だ)
 だがそれは、この少年が洗濯屋の女将の信頼を得ていたからこその結果であるともいえる。
 苦笑しながらそんな事を考えて、ルドルフはふと、ウィルの声に背を向けた。どうやらあの犬に会いに来ただけのようであるし、これ以上立ち聞きを続ける必要もないだろう。しかしそうして数歩進んだ、その時だ。
「そうだ。それで、今度のおやかたがどんな人かっていうとね」
 無邪気に発されたその言葉に、思わずぴたりと足が止まる。
 聞くべきか、それともこのまま、立ち去るべきか。だが昨晩からのことを思い返すに、ルドルフはほとんど、ウィルに怯えられていた覚えしかない。きっとウィルから見たルドルフの評価は、子供の扱いに明るくない、取っつきにくいオヤジといったところだろう。
 わかりきっているその評価を、わざわざ本人の口から聞く必要があるだろうか。そうとも、今後の良好な関係構築のためには、耳にしない方が良いことだってあるに違いない。だが、それでも……。
 逡巡し、しかし好奇心に負け、ゆらりとその場を振り返る。そうしてそのままルドルフは、
 思わず眉間に皺を寄せた。
 道の向こう側に、何やら目つきの悪い男達が、たむろしているのが見える。身なりはけっして悪くないが、明らかに、堅気といった雰囲気ではない。
「おやかたの背はこれくらいで、あと、ひげがちょっとじょりじょりしてるんだ。かじやのおやかたより細くて、それから、……」
 不穏な空気に一切気づかず、ウィルが期待はずれの『親方評』を語り出す。その一方で、例の男達が何かを話し合い、二手に別れて動き出したのを見て、ルドルフは小さく唾を飲み込んだ。
 男達の足が、ウィルの方へと向いている。
――最近じゃ、そういう子供を捕まえて、安い労働力として農園へ売るような輩もいるらしいぜ。

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