廻り火

【 番外編 】

番外編:偽おやごころ -3-
 
 すっかり冬を迎えたアビリオの街に、音を立てて枯れ葉が舞った。
 昨日より今日、今日より明日と冷え込んでいく寒空は清々しいほどにからりと晴れて、寝不足に揺らぐ視界を白々と照らし出している。そんな中、ルドルフは外套のポケットに両手を仕舞い込み、眼を細め、肩を丸めて歩いていた。
 馴染みの店から声がかかる。勧められるまま、朝食代わりのサンドイッチとコーヒーを買い、大きく一つ欠伸をした。昨晩の、あの思いも寄らぬ拾い物のおかげで、今朝はいつまで経っても眠気が視界にちらついているのだ。しかし品物を受け取り、代金を支払って、ルドルフはそのまま手を止めた。
 訝しんだ店主に何事かと問われ、ふと、いくらか考える。結局ルドルフはその店で、二人分の朝食を買った。
 トマトと卵の挟まったサンドイッチに、焼きたてのクロワッサン。そういえば、ルドルフ自身は子供の頃、トマトが大の苦手であった。昨日の拾い物――ウィルは、好き嫌いを言わずに食べるだろうか。
(まあ、腹が満ちればなんでもいいだろう。……昨日の食べっぷりじゃ、これで足りるかわからんが)
 きゅるきゅると腹を鳴らせているのを見るに見かねて、職場に置いていたクラッカーを渡したところ、あの少年は単調な味に文句もつけず、みるみるうちに、一箱全てを平らげてしまった。
(しかしクラッカーだけ食べさせとくわけにいかないしな。これからはあいつの食費も、経費に入れておかないと……)
 脳裏で軽く計算をして、がりがりと、つい頭を掻く。仕方がない。人を雇うとはそういう事だ。
 しかしそうして角を曲がり、ふと目に入ったその光景に、思わず眉をしかめてしまう。見ればライジア印刷所の前に数人、人だかりが出来ていたのだ。
「お、親方!」
 ルドルフの顔を見るなりそう呼んだのは、創業の頃から勤めているドルマンだ。そのそばに、背を丸めた見習いのヘッセが立っている。
「お前等、そんなところで何してんだ。ヘッセ、今日はお前が鍵当番だろ?」
「親方、大変なんです。事務所の中が何か、ともかく、ちょっと、変なんです!」
 ヘッセがルドルフの腕を掴み、ドルマンが強くその背を押す。大判印刷所から臨時でこちらに勤めているユベールは、「物盗りが」と神妙な口調でそう言った。
「物盗り?」
 問い返しながら、背筋に冷たいものが走っていくのを感じていた。昨晩はあの少年だけを事務所に残し、外から確かに鍵をかけた。無害そうな少年だからと警戒していなかったのだが、もしあの少年の目的が、元々盗みであったとしたら。
 しかし焦って印刷所の扉に手をかけたルドルフの腕を、今度は間借り書生のオディロンが引く。
「待ってください、簡単に入らない方が。館妖精の仕業かもしれないし」
「はあ? 物盗りが入ったんだろう?」
「いや、別に物は盗られてないというか……。でも一瞬、盗られたかと思うような面積の広さで、……」
「面積?」
「バカ、物盗りじゃなきゃ、あんなの誰がやったって言うんだ」
「だって物盗りなら、真っ先に活字を盗むだろ? それ以外に金目の物なんて無いんだし」
「大体、物盗りならどこから入ったって言うんだよ。鍵がかかってたんだぞ? それにその、すすり泣くような声も聞こえたっていうか」
「おい、ちょっと待て。一体何の話をしてるんだ」
 一向に話が見えてこない。しかしヘッセが今にも泣きそうな顔で、「幽霊の仕業じゃ」と呟くのを見て、ルドルフは深く溜息を吐いた。
 全くもって、何が起きているやらわからない。だがしかし、……答えは恐らく、全てこの扉の内にあるのだろう。
 ごくりと小さく唾を飲み、ドアノブを持つ手に力を込める。そうして意を決して自らの立ち上げた事務所の扉を開ききり、――視界に入ったその光景に、思わず小さく息を呑む。
 いつもは雑然とした室内が、今日は何やら輝いて見えた。
 一階から中二階へ登る階段の手前までにかけて、床面積が異様に広い。その理由はすぐに知れた。普段はあちこちに散乱している古新聞やゲラ版が、きちんとまとめて置いてあるのだ。その重しに仕事道具の木槌が使われていることはいただけないが、そうして広げられたスペースは、雑巾がけでもしたかのようにつやつやとして見えていた。
「俺達がいつも適当にしておくから、きっと綺麗好きの館妖精のかんに障ったんですよ」
 オディロンがもっともらしくそう言って、一人で何やら納得している。従業員達が何やら騒ぎ立てていたのは、この整理整頓された職場に対して、ということであったらしい。
 その時ふと、奥から鼻を啜るような音がした。幽霊説を捨てきれずにいるらしい、ヘッセが肩を震わせるのを尻目に、ずかずかと奥へ上がり込む。そうして階段を上がり、中二階の最も奥――所長席の影を覗き込むと、思った通り、そこに一つの人影があった。
「そんなところで何やってんだ、ウィル」
 ちんまりと身体を丸めて座り込んでいた少年が、はっと息を呑み顔を上げる。どうやら外で騒ぎ立てた声が、中途半端に聞こえていたのだろう。ウィルはすっかり青ざめて、ぼろぼろと涙をこぼしながら、か細い声でこう問うた。
「ど、どこかで、……悪いお化けが出たの?」
 
「いやぁ、まさか正体は、物盗りでも幽霊でもなく、親方が拾ってきた子供だったとは」
 組み終えた活字を木槌で整えながら、しみじみとそう言ったのはユベールであった。その向こうではぱたぱたと静かな金属音を響かせながら、ドルマンが大きく頷き、先程までは幽霊だの館妖精だのと騒いでいたヘッセとオディロンが、互いに顔を見合わせ、「それで」と声を合わせて聞いてくる。
「本当に、親方の隠し子じゃないんですか」
 またこれだ。ルドルフは荒く溜息を吐くと、「馬鹿言ってないで仕事しろ」と喝を入れた。
「まあ、そうですよね。別に親方、隠す必要ないですもんね」
「奥さん居ないし、彼女も居ないし。第一、全然似てないし」
「でも子供は嫌いだってずっと言ってたのに」
「捨て子なんて珍しいもんでもないし、何だって突然」
「やっぱり、深い理由があるに違いない」
 詮索の声が煩わしい。だが先程から何度、話の流れで引き取っただけだと話しても、ゴシップ好きの彼らの耳にはちっとも届いた気配がないのである。こうなったら後でマクシムを連れてきて、直接説明させるより他にないだろう。元々、全ての原因はあの男の所行にあるのだ。その程度の事は、してもらわなくては。
 しかしそうして、美しく積み上げられた書類とぴかぴかに磨き上げられた一階の床に視線をやり、そこに座り込んで冷めたクロワッサンを黙々と頬張っているウィルを見ると、ルドルフはもう一度、小さく溜息を吐いた。
(頼りげのないチビだと思ったが、まあ、仕事ぶりはなかなかだな……)
 どうやら幽霊が出たわけではないようだと納得し、ようやく泣き止んだこの少年から聞いた事の顛末は、至って簡潔なものであった。昨晩ルドルフが帰宅した後、事務所に一人取り残されたウィルは、毛布を探す内に事務所内の物があちらこちらへ散らばっていることに気づいたのだという。それで朝日が射すのと同時に起き出して、ひとり、片付けを始めたのだそうだ。
「よろこんでもらえるかもって、思って。でも、おどろかせて、……ごめんなさい」
 消え入りそうな声で項垂れたこの少年は、終始ルドルフの影に隠れるようにして、誰とも目を合わせないままそう言った。人見知りでもあるようだが、恐らく従業員達の騒ぎようを見て、自分のしたことはどうやら、『喜ばれることではなかったようだ』と感じたらしい。いや、むしろ叱られるとでも思ったのかもしれない。それくらい彼は萎縮して、ルドルフから渡された朝食を受け取ると、部屋の隅で邪魔にならないように、身を縮めてそれを食べ始めた。
 そうして黙々とパンをかじる隣に置かれた水桶には、昨晩ルドルフが言いつけたとおり、たっぷりと井戸の水を張ってある。
(やることはやってるし、気が利かないわけでもなさそうだ。まあ、拾いもんとしては上出来なんだが、……)
 しょんぼりと背中を丸めて座る姿を見れば、なにやらもやもやと、煮え切らない思いが胸に募る。そうして様子を窺っていると、ヘッセがその背後に近寄っていくのが見て取れた。彼もやはり、あのいじけた姿勢の少年のことが気になったのだろう。だがウィルの手元を覗き込んだヘッセが小さく息を呑み、
 即座にこちらを振り仰ぐ。
「親方! こんなチビに、なに飲ませてんですか!」
 突然の大声に驚いたのだろう。ウィルがびくりと肩を震わせたが、ヘッセは気づいた様子もない。「何って、コーヒーだけど」ルドルフが答えれば、植字中のドルマンまでもが手を止めて、「親方、それは」と呆れた声を出した。
「苦いでしょ、子供には……。せめてミルクで割るとか」
「むしろミルクでいいですよ。ウィル、お前も苦かったなら苦いって言えよ。ほとんど飲めてないじゃねえか」
 今まではこの事務所内で一番若年だったヘッセが、兄貴風を吹かせてそう言った。対してウィルは、「ごめんなさい」と元々小柄な身体を更に縮こまらせるばかりだ。だが萎縮しがちな態度に反して、その目がとろんと揺れている。眠たいのだろう。そういえば昨晩は、たいして眠っていないはずだ。
――よろこんでもらえるかもって、思って。
 これまで、既にいくつかの職場を転々としてきたと言っていた。その理由はまちまちであるようだったが、ようやく見つけたこの職場を追い出されるようなことがないように、どうにかして気に入られようと、この少年も必死なのだろう。事務所の片付けに関しては、ルドルフにとってもここしばらくの懸案事項であったため、正直大変助かったのだが、そういえば、そうは言いそびれてしまっていた。
(それにしても、……)
 ようやく寝床を確保した今日くらい、子供らしく悠々と眠っていればよかったものを。
「――わかった、わかった。じゃあ今後、ヘッセをウィルの世話係にしよう。食べ物はお前が用意してやりな」
「食費は経費から落ちますか」
「ウィルの分は、な。余計な物まで買うんじゃねえぞ」
 「承知しました! よーし、よろしくな。ウィル」軽く請け負うヘッセを見て、びくりとウィルがまた震える。まるで罠にかかって捕らえられた、うり坊の如き怯えようだ。だがヘッセも面倒見の良い方であるし、そのうち、ここでの生活にも慣れることだろう。
「解版の仕方も教えてやってくれ。その辺の道具の使い方もな。俺はこの後、記者との打ち合わせがあるから、細かいことはお前に任せる。まあ初日だし、今日は早めに終わらせて、早く寝かせてやりな」
 「はぁい」と明るくヘッセが返す。しかし、その時だ。
 ヘッセの背後に佇む少年が、ふと、握りしめていた何かを己のポケットへ滑り込ませる。その瞬間をルドルフは、見逃してはいなかった。

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