廻り火

【 番外編 】

番外編:偽おやごころ -5-
 
 耳の裏へ甦る、エーリクの言葉が煩わしい。だが楽しげに話すウィルの方へ、男達が確実に歩み寄っていくのを見れば、焦燥感が胸を突く。
「あっ。それより、先にいいもの見せてあげる。これね、おれのたからものにするんだ。おやかたがおれにくれたんだよ」
 宝物にできるような代物など、渡した覚えはないのだが。
 焦る頭でそんな事を考えて、しかし咄嗟に、例の男達に向かい合う角度で――ウィルの声がする方へ、大股に強く歩き出す。男の一人がそれに気づき、睨むようにルドルフを見た。それでも歩みを止めはしない。
 勢い込んで小径を曲がり、声を出そうと息を吸う。しかし、
 視線の先のその少年が、大切そうに手にした古紙を見て、ルドルフは思わずほんの一瞬、そのままの姿勢で言葉を止めた。
――これ、おれのなまえが書いてあるの?
――そ。『ウィル・ドイルホーン』。
「……、ウィル!」
 思わず荒い、声が出た。
 楽しげに話していた少年が、びくりとその場へ立ち上がる。同時に例の男達が足を止めたのを見て、ルドルフは小さく唾を飲んだ。
 緊張を悟られてはいけない。出来る限り、何でもない風を装わなければ。
「そんなところで何してる。帰るぞ」
「お、……おやかた? どうしてここに、あの、おれ」
「偶然通りかかったんだ。犬も一緒で良いから、来な」
 困惑しきった様子のウィルが、それでも素直に従った。だがこの小心者は、また頑なに萎縮するばかりで、ルドルフの顔など見ようともしない。
 その一方で、――ウィルの足元に座り込んだ黒い犬と、なにやらふと、目があった。
 黒々とした目の小さな犬が、じっとルドルフを眺めている。その犬はよろよろと力無く立ち上がると、ぺろりとウィルの足を舐め、ルドルフ達に背を向けた。そうしてまた、地面に足を擦るように、その場を立ち去っていく。
 それを見送って息をつき、またウィルへと視線を戻すと、ルドルフは思わず苦笑した。すっかり縮こまってしまったこの少年が、また懲りずに顔を青くしていることに気づいたからだ。
「ごめんなさい」
 消え入りそうな声で、ウィルが言う。気づけば既に、先程の男達の姿は側にない。恐らくは、保護者のいるウィルを狙うより、他の子供を捜すことに決めたのだろう。
「ごめんなさい。お使いの帰りに、あの、ちょっとだけ、ちょっとだけスターのところへよりみちしようって思って、……あっ、スターっていうのはさっきの犬のことで、おれが名前をつけたんだけど、それで」
「ウィル」
「……、はい」
「手え出しな」
 恐る恐る差し出された、ウィルの右手をひょいと取る。そうして手を繋いで路地裏を抜ければ、昼を過ぎたアビリオの街は、今日も人混みに活気づき、通りを賑わせていた。
「俺はお前の事、今更、いらないなんて言うつもりはねえよ」
 びくりとウィルの、腕が震える。
「そういえばお前、掃除は得意なんだよな?」
 目を合わせぬままルドルフが問えば、訳がわからないといった様子で、ウィルが小さく頷いた。
「じゃあこれからも、掃除はお前の仕事だな。言いそびれてたけど、今朝の掃除は助かったよ。事務所のやつら、どこにでも物を置きっぱなしにするから、いつまでも片付かなくて困ってたんだ。……あとで詳しく書類の場所を教えるから、残りの箇所も整理してくれるか?」
 問うてからふと視線を下ろせば、手を握られたままのウィルも、いつの間にやらルドルフの方を見上げていた。
 「はい」とウィルが頷いた。その目がきらと、輝いて見える。
「そういや、さっきの犬はどこに行ったんだろうな」
「たぶん、そのあたりにいると思うけど……。おじいちゃんみたいで、すぐにつかれて寝ちゃうの」
「ああ、見るからによろよろしてたもんな」
「でも優しくて、あったかいんだ。おれが話すの、じっと聞いててくれるし……。夜はおひさまがでてくるまで、いつもずっとそばにいてくれたんだよ」
 そう言って、ウィルがくしゃりと笑ってみせた。
 「そうか」と短く相槌を打ち、繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込める。
「そろそろ帰ろう、ウィル」
 ルドルフが言うと、ウィルも大きく、頷いた。
 
 * * *
  
  ぱたたた、ぱたたた、と、静かな音が流れていく。活字を並べるその音は、重なり、連なり、黙々と仕事をこなす職人たちの呼吸のごとく、もうじき昼時を迎えようというこのライジア印刷所の内に複数響いている。だがそれらの音の内にも、静かな焦りが籠もっている事を、ルドルフはよく承知していた。
 東部の寒波に首都の干魃。それに、――度々アビリオの街を騒がせている、例の連続放火事件。ここしばらく、いつにも増して事件が多い。結果として提携先のマルドリア・ジャーナルの記事も増えるものだから、印刷所の技師達の間には、何とも言えぬ緊迫した空気が流れている。
 そんな中、ふと事務所の扉が開く。恐らく走ってきたのだろう。額に浮いた汗を拭いながら、「ただいま戻りました」とシャツの首元を緩めたのは、ウィルであった。
「カルドで起こった農奴解放運動の記事、電信局で直接貰ってきました。セルゲイさんに中身も確認してもらったので、このまま植字できます。えっと、俺、やっていいですか」
「助かる。……ああそうだ、ウィル、去年インクを仕入れた時の伝票知らないか? 見積が届いたんだが、どうも金額がおかしいんだ」
「去年の伝票なら、紫の棚の二段目にあるはずだけど、……また値上がり?」
 ヘッセの問いにそう答えて、記事を置いたウィルがルドルフのいる中二階へと上がってくる。「おかえり」とルドルフが言えば、疲れ切った顔をしたウィルが、にへらと力無く笑ってみせた。
(まあ、当然か……)
 頻発した諸々の事件のおかげで、技師達はろくに休んでいない。すっかり仕事の虫に成長してしまったこの少年も、ここ数日、ろくに眠っていないはずだ。
 棚を漁っていたウィルが、伝票の束を抱えてヘッセの元へ向かっていく。その後ろ姿を見送り、入れ替わりに一階へ移した自席へ戻ると、ルドルフは小さく溜息をついた。
 積み重なった記事の隣に、一通の封書が伏せてある。その内容を思い返すと、得体の知れない嫌な予感に、何やら胸が騒いだのだ。
(鉄道王の息子なんかが、うちの技師見習いに、一体何のご用やら)
 クラウス・ブランケと名乗る男から手紙が届いたのが、二日前の昼の事。用件だけが簡潔に記された文面には、この男がわざわざウィルに会うために、アビリオの街へ訪れる予定である旨が記されていた。
 全くもって、意味がわからない。ウィルにもそれとなく、そういう知り合いがいるのかと聞いてみたのだが、心当たりはなさそうだ。しかし再び封書を開こうとして、ルドルフは何故だかふと、もう随分と昔に見た、小柄な犬の事を思い出していた。
――夜はおひさまがでてくるまで、ずっとそばにいてくれたんだよ。
 ウィルは確かにそう言ったが、しかしあれきりその犬は、姿を見せなくなってしまった。
 ルドルフがちらりと見た限りでも、もう随分と年を取って、歩くのもやっとといった風貌ではあった。それでも夜風に凍える子供を暖め続けたあの犬は、何故急に、姿をくらましてしまったのだろう。
 どこかで倒れているのかもしれない、怪我をしたのかもしれない、そう心配するウィルに付き添って、ルドルフも何度か犬を探しに出かけた。結局のところ、犬を見つける事は出来なかったが、――しかしルドルフには段々と、その犬が姿をくらました理由が、腑に落ちていく気がしていた。
(ウィルに居場所が見つかったと思って、……きっと安心したんだろう)
 ルドルフにウィルを託せたからこそ、行くべき所へ行けたのだろう。
 ちらと中二階へ視線をやり、また細い溜息をつく。こちらが舌を巻くような熱心さで仕事を学び、文字を学んだあの少年は、周囲からの信頼も厚く、今ではこの印刷所になくてはならない存在になった。組合を説き伏せ、下働きから技師見習いに昇格させたのが三年前の春のこと。まだ若いが実績を考えれば、そろそろ頃合いを見計らって、一人前の技師として推薦してもいいとすら思っている。
(一人前、ねえ)
 一人前の技師ともなれば、いつまでもこの事務所に留まる必要もない。やりようによっては独立だって夢ではないし、機械化の進む昨今、徒弟期間が終わったからといって技術取得のための遍歴の旅に出る者は減ったにしろ、そういう選択肢だってある。
 自信なげに立ち竦んでいた少年が、ここまでになった。それを手放すのは惜しいが、ウィルの未来は、あくまでも本人に決めさせなくては。
 そしてその日が来たのなら、笑って送り出してやらなくては。
 しかしそんな事を考えた、次の瞬間、――
「ウィル! ――ウィル・ドイルホーン! さっさと出てこないか、居るんだろう!」
  外から響いたその怒声に、思わず目を丸くする。
 聞き覚えのあるこの声は、マルドリア・ジャーナルの編集長であるグラハンだ。となれば、この怒声の理由にも、ある程度の予測はついた。ルドルフが今朝発行したばかりの朝刊に手を伸ばせば、なにやら悲痛な唸り声が、ウィルのいる中二階からも聞こえてくる。
「この忙しいのに、あのバカ。誤植やらかしたな」
「グラハンさんは、結構根に持つタイプだからなぁ……。こりゃ大変だぞ」
 植字の手は止めぬまま、ドルマンとクルトがそう言い互いに頷きあう。にわかに賑やかになった事務所を見回し、改めて記事を眺めたルドルフも、一つ細い溜息を吐いた。どうやら手紙の事よりも、先に片付けなければならない仕事が出来たらしい。
 転がり落ちるように階段を下る音を聞きながら、記事を置いて腕を組む。そうして駆けつけたウィルががばりを頭を下げるのを見て、ルドルフはそっと、例の封書を脇へと寄せた。
「お得意さんが外で怒鳴り散らしてるのは、ファーマティカの天文台で発表された論文の件か。あの記事の組版は、ウィル。お前が担当だったな」
「……ハイ」
 こうなるとこの少年は、相も変わらず頼りない。消え入りそうな声でそう言って、今にも泣き出しそうなのを見ると、ルドルフはついつい笑ってしまった。
(『一人前』って認めてやるには、もうしばらく、時間がかかりそうだな)
-- 『廻り火』第一章本編へ続く --
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