廻り火

【 番外編 】

番外編:偽おやごころ -2-

 背後から聞こえた逞しい声に、背筋の延びる思いがする。慌てて振り返った先にいたのは、先程一人で店に乗り込んできた、あの女性であった。
「あの子ってのは、ウィルって名前のチビのことか? いかにもそうだが、あんたは一体」
 空気を読まずにマクシムが言う。何やら剣呑な気配がした。ルドルフをはじめ、席を囲んだ全員が、小さく短い息を呑む。しかしいち早く異変を察知したルドルフが、マクシムに逃げろと告げる、その直前に、
 女性の握りしめたその拳が、迷わずマクシムの脳天に落ちた。
 一分の躊躇も隙もない、見事な鉄槌ぶりである。殴られたマクシムがそのまま盛大な音を立て、料理の載った机に顎をぶつける一方で、エーリクとロブが悲鳴を上げた。コンラーディンだけが咄嗟に机の上の皿を避難させていたが、その他のグラスは突然の衝撃に全て倒れ、酒は全て料理の上にぶちまけられてしまっている。
 「おいおい、何だ?」周囲から好奇の声が上がる。「喧嘩か?」「浮気の制裁か?」野次馬どもめ、黙っていろ。しかしそんな事を考えながらも、怒り心頭といった様子で仁王立ちするこの女性を前にしては、言葉がちっとも出てこない。
「あんな子供を賭けに使うなんて、あんたら随分良いご趣味だね。自分たちは酒を呷って、家無しの子供にしょうもない仕事を押しつけて? どこぞの貴族にでもなったつもりかい。この、自由市民の面汚しめ」
 先程まではすっかり他人事だろうと思っていたのだが、どうやらこの女性の怒りの理由は、自分たちにあるらしい――。そう思えば、何やら得体の知れない絶望感が、ルドルフの視界にちらついた。役所の仕事で市民のクレーム対応には慣れている、と以前豪語していたダリルが懸命に女性を宥めているが、彼女の怒りは収まりそうにない。すくみ上がったルドルフが細い息をついた、その時だ。
「お、おかみさん、あの、……あのっ」
 酒場へ駆け込む小さな影。それが先程の少年であるようだと気づいたのは、一体何事かと人だかりが裂けたおかげであった。見れば酒場の入り口近くで、先程しょんぼりと去っていったあの少年――確か、ウィルと呼ばれていた――が、何やら大きな包みを抱え、息を切らして青ざめている。
「おかみさん、おじさんは何もわるくなくて、あの、おれがやらせてほしいって言ったから、だから、」
「いいんだよ、ウィル。これは大人同士の話だからね。あんたは黙ってな」
「でも、」
 口ごもりながらそう言って、しかし机に突っ伏した姿勢からゆらりと顔を上げたマクシムの姿を見れば、少年の表情が恐怖の色に凍り付く。
 それはそうだろう。この時のマクシムの顔には皿に載っていたトマト料理がべっとりとつき、まるで顔中から流血したかのような出で立ちだったのだ。
「ごめんなさい、おれ、こんなつもりじゃ、……」
 眉根を寄せて、今にも泣き出しそうな少年の前に、先程の女性が割り込んだ。彼女は堂々たる態度で腕を組むと、「それで?」と低い声で問う。
「この子が無事に、『ツケで鞄を受け取れたら』。住み込みの仕事を世話してやるって約束したそうだね。ご覧、この子はちゃあんと鞄を持ってきたよ。この寒い中、うちの旦那に何度も何度も頭を下げてね。――で、この子に紹介できる仕事場ってのはどこなんだい?」
 住み込みの仕事を紹介するだなんて、初耳だ。しかし驚いたルドルフが咄嗟にマクシムを振り返れば、彼は情けないにも程があるトマト顔をにへらと歪ませ、女に向かってこう言った。
「いやぁ、まだ了承は得てないんだが。ちゃんとアテはあるんだよ。屋根があって学もつく、超売れっ子で猫の手も借りたいっていう、そんな仕事場が」
 何やら嫌な予感がした。そうしてふと振り返ったマクシムと目があったのを見て、ルドルフは、思わず頬を引き攣らせたのだった――。
 
「丁度良いと思ったんだよォ。お前の所は万年人手不足だってぼやいてたし、活字の掃除とかそういう下働きなら、このチビにだって出来るだろ? 頼むよ、ここでお前に引き取ってもらえなきゃ、俺、鞄屋の女将に何されるか……。今夜だけで良いから。今夜連れて帰ってくれるだけで良いから」
 顔中にはりついていたトマトを拭い、それでもまだ酔いに赤らんだ顔で懇願した、マクシムの姿を思い出す。
 ああまで言われてこの少年を連れ帰らなければ、ルドルフの方こそ、肩を怒らせた女将に何をされる事やらわからない。それで仕方なしにこの少年を連れ、すごすごと職場へ戻ってきたのだ。
(一度連れてきちまったら、今夜だけで済むわけがないだろうが。あの野郎、今、一体何月だと思ってやがる。この寒さの中、追い出されたガキが死んだりしてみろ。目覚めが悪くて仕方ないじゃないか。……くそっ)
 確かに、この事務所で請け負っている機関誌の刊行部数が伸びてきた昨今、人手が不足していることは間違いない。四人しか居ない従業員達に苦労をかけている自覚はあるし、近々、人を増やそうとは考えていた。だが。
(売り上げにもう少し余裕が出来たら、初等学校の卒業者から徒弟をとろうって算段だったのに、……)
 積み重なっていたゲラ版の山を崩しそうになり、慌ててそれに手を伸ばす、少年の姿を見つめ直す。浮浪者そのものといった出で立ちでいるこの少年が、何かしらの教育を受けているはずは勿論ない。文字の読み書き、計算、言葉遣いに活字の扱い方――。これからこの少年に、一から仕込まなければならない諸々のことを考えると、気の遠くなる思いがする。
「お、……『おやかた』」
 突然声をかけられて、思わずぎくりと肩を震わせる。しかしそれを見たこの少年が、ルドルフがした以上に驚き、びくついているのを見ると、逆に何やらしらけてしまった。「何だよ?」と低い声でそう問えば、相手はまたおずおずと、うかがうようにルドルフを見る。
「あっ、あの、これから、夜は、……」
「夜?」
「外はすごく、あの、いぬがいても、冬はさむくて、」
「犬? だから、何の話だ?」
 叱りつけたわけでもないのに、少年が情けない顔で眉根を寄せ、しょんぼりとその場に俯いてしまう。聞き返してやっただけで、何故こんな顔をされるなければならないのだ。やはり子供というものが、ルドルフにはちっともわからない。
 さっさと少年から視線を外し、置きっぱなしにしていた書類を雑に、片付ける。するとしばしの沈黙の後、少年は意を決したように、しかし相変わらずの頼りない声で、ぽつりと小さくこう問うた。
「ここで眠ったら、だめですか。あの、ゆかで、……へやの中で」
 あまりに力のこもった、あまりに些細なその希望に、思わず目を瞬かせる。
 薄暗い室内に佇んだこの少年は俯いたまま、頑なにルドルフと目を合わせようとしない。しかし自らのシャツをぎゅっと握りしめる、その両手が震えているのを見ると、何やら深い、溜息が出た。
「お前、元々そのつもりで、住み込みの仕事を探してたんじゃねえのか」
「そうだけど、……まえにパン屋で仕事をしたときは、外の納屋で眠ってたから、」
 納屋。そういえばルドルフも、子供の頃に何度か納屋で眠ったことがある。悪さをするとよく、納屋で一晩反省をしろと、親に閉め出されたのだ。だがどんなに酷い悪さをしても、冷えの厳しいこんな時期に、放り込まれたことなど無かったのに。
「……、好きにしな。その辺の物を壊したり、汚したりしなけりゃ、夜はどこで寝ても構わねえよ。徹夜作業用の毛布があるから、それも好きなだけ使えばいい。ただ、お前一人の時に火はつけるなよ。ここは普通以上に燃える物が多くて、危険だからな」
 少年から目を逸らし、ぶっきらぼうにそう話す。すると少年は「はい」と素直に返事をして、もう一度きょろきょろと辺りを見回した。その口がまたもごもごと、「かつじ、うま、井戸のみず」と繰り返している。
「ここは、あの、なんの仕事をするところですか?」
 今更の質問だが、しかしこの少年にとってみれば、ひとまず当面の寝床を手に入れて、ようやく仕事の内容にまで意識がいったというところなのだろう。「印刷所だよ」と言えば、この少年はまた、「いんさつじょ」と音を返した。
「ここにある活字を組み合わせて、新聞なんかの版を作るんだ。まあ、最近は蒸気を動力にした大型の印刷機が出回ってるから、印刷自体はうちではやらないんだけどな。お前、名前は? ウィルだっけ」
 少年が一つ頷いて、「ウィル・ドイルホーン」と自らの名前を呟いた。それを受けてルドルフは、手にしたステッキに慣れた手つきで、いくつかの文字をはめ込んでいく。並んだ活字をちらと見せれば、少年は興味深げにそれを覗き込んだ。
「これにインクを付けて、この機械にセットする」
 ゲラ刷りに使う旧式の印刷機に古紙を載せ、プレスする。そうして印字のされた紙を手渡せば、少年は何度か瞬きをして、それから恐る恐る、ルドルフを見上げてこう言った。
「これ、おれのなまえが書いてあるの?」
「そ。『ウィル・ドイルホーン』」
 少年が目を丸くして、もう一度紙に視線を落とす。インクが乾かぬうちに文字を触ったものだから、指が黒く汚れている。それでも少年は気にした様子もなく、何度か紙面とルドルフの顔とを見比べて、ふと、
 頬を赤らめ、口元をきゅっと結び、嬉しそうにこう笑った。
「あの、……おやかた、ありがとう」

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