廻り火

【 番外編 】

番外編:偽おやごころ -1-

「こっちにあるのがチェース。隣の棚に入ってるのが活字。お前の仕事は当面、解版とインキ落とし、あとは掃除とその他雑用全般だからな。洗い油はそこにある。火には絶対近づけるなよ」
 ガスランプに火を灯し、薄暗い事務所の中を、指さしながら進んでいく。そうして深く息を吸えば、既に馴染んだインキの匂いが、彼の鼻孔をくすぐった。
 じわりじわりと寒さの広がる、冬の頭のことである。既にとっぷりと日は暮れており、一度は灯を消し鍵を閉めたこの事務所の中も、既に随分冷え込んでいる。
 だがそれでも、外の寒さよりは、幾分マシだ。そんな事を考えながらも、彼の頭は先程までいた、酒場の喧噪を思い出していた。いつもなら、この時分は既に十分酒を呷り、程良く火照って家へと帰り着くような時間である。実際、今夜も彼もそうするつもりでいたのだ。いつも通りに仕事を終え、従業員達を家へ帰し、この事務所――今年でようやく開業五年目を迎える、ライジア印刷所の戸に鍵をかけ、酒場で飲み仲間達と合流した。
 そこまではよかった。いつもと同じ夜であった。
 だが事情が変わったのは、彼が、ライジア印刷所の所長であるルドルフが、三杯目のエールに口をつけた時である。
「朝起きたら、まずは井戸から水を汲んで、そこの器に水を張る。そのあとで解版だ。詳しいやり方は明日教えるが、こうやってチェースを外して、活字を洗って馬に戻す。馬ってのは、このケース棚のことだ。……覚えたか?」
 口早にそう言って、ふと背後を振り返る。しかし視線の先に誰も居ないのを見て取ると、ああそうか、と呟いて、ルドルフはそのまま視線を下へ落とした。
 薄暗い事務所の入り口に、小汚い格好をした子供が一人、緊張した面持ちで立ち竦んでいる。
 これが彼の予定を狂わせた、張本人の姿であった。
「チェース、かつじ、井戸からみず、……か、かいはん」
 聞いたばかりの言葉を、意味もわからず口の中でもごもごと繰り返したのは、まだあどけない顔をした少年であった。親元を離れて久しいと話したこの少年は、最早元が何色だったのかも判別のつかない黒ずんだズボンに、あちこちすり切れたシャツという、見るからに貧した出で立ちでそこにいた。本人が言うには今年で八つになるそうだが、明らかに発育不良の身体はちんまりとして痩せており、元からそういう形なのだろう、ふっくらと出た頬ばかりが、アンバランスに丸みを帯びて見えている。
「拾ったからには、仕事はきっちりやらせるからな。お前、数は数えられるのか?」
 きょろきょろと物珍しそうに事務所の中を見回していた少年が、はっとルドルフを振り返る。しかし目が合うやいなや、びくりと肩を震わせるのを見て、ルドルフはまた一人、小さく深い溜息を吐いた。
(くそ、なんだってこんな事になったんだ)
 これだから子供は苦手だと、あれ程何度も言ったのに。
「かずは、に、二十くらいまで」
「計算は」
「たすのは、その、りょうほうの指でかぞえられれば……」
 おどおどとした態度で答える少年の姿はいかにも頼りなく、見れば見るほど溜息が出る。そうしていれば否が応にも、酔った勢いで豪快に笑う、飲み仲間達とのやりとりが、恨みがましく思い出された。
 
「ルドルフ、丁度良いところに来た。今なぁ、ちょっとした賭けをやってたとこなんだよ」
 仕事を終え、遅れて酒場へ登場したルドルフにそう言ったのは、既に顔を真っ赤にし、できあがった様子でいた昔なじみの船頭、マクシムであった。
 郵便局に勤めるロブに、役所で下働きをしているダリル、挿絵装飾描きのエーリクと、本屋勤めのコンラーディン。席には既にいつもの顔ぶれが揃っている。その中でも特に赤い顔をしたマクシムを見ると、ルドルフは呆れて溜息を吐いた。
 「賭け? お前も飽きねえなあ」負けてばかりのこの飲み仲間は、いつもそう言ってなんでもかんでも賭けの対象にしてしまう。そうして何度、仲間達に酒を奢る羽目になった事やら、この脳天気な頭は覚えていられないらしい。しかし呆れながらも席に着き、いつものメニューを注文し終えたところで、ルドルフは不意に眉をしかめた。
 コンラーディンの座るすぐ後ろに、一つ見かけない顔がある。少年だ。酒場にいるには幼すぎる少年が、いかにも不安げな顔をして、じっとこちらを窺っていることに気づいたのだ。
 「それじゃ、ウィル。鞄屋の場所はわかったな」その少年に、声をかけたのはマクシムだ。「行ったら、『船頭さんの代わりに、注文していた鞄を取りに来ました』って言うんだ。お代はツケにしてくださいって言うのも忘れずにな。いいか、ちゃんともらってくるんだぞ」
「おい、賭けって一体何する気だ」
 思わずルドルフが声をかけたが、マクシムはこの少年の頭をぽんぽんと撫でると、さっさとその場を送り出してしまった。他の仲間達は最早諦めた様子で、彼を止める素振りもない。ウィルと呼ばれた少年も、何度か心細げに振り返りはしたものの、そのうち観念した様子で、小走りにその場を立ち去った。
「『鞄屋がうさん臭がって、門前払いする』に十リガ」
「『適当にその辺で時間を潰して、駄賃だけ貰いに帰ってくる』に三十リガ」
「『あの坊主の声がか細すぎて、話も出来ない』に十リガ」
「『上手く鞄をもらえても、それを盗んでそのまま逃げる』に二十リガ」
「しまった、その可能性を考えてなかった。持ち逃げされちゃ、困るな」
「馬鹿だな。金には困ってそうだったし、十分あり得る事だろうに」
 ようやく話が見えてきた。どうやら賭けの内容というのは、あの少年が言われたとおりの『お使い』を、こなせるかどうか、という事らしい。
 「賭けをするのに、子供を使うな。悪趣味だ」どん、と置かれたエールを手に取り、一口飲んでそう言えば、マクシムがいじけた様子で口を尖らせる。
「仕方ないだろ。あの坊主が、何でも良いから何か仕事をさせてほしいって言ってきたんだ。だからわざわざ、チビにでも出来る仕事を考えてやったのさ。結果がどうあれ戻ってくれば、駄賃をやるって約束してる」
「それにしたって、あの用心深くてケチな鞄屋が、初対面の子供相手に、しかもツケなんかで商品を渡すわけがないだろう」
「まあ、そりゃそうなんだけどさ。……じゃあお前は、『鞄をもらえずすごすご帰ってくる』に賭けとくか?」
 目を爛々と輝かせて問う声に、思わず一つ、溜息を吐く。そうして先程の不安げな、しょんぼりと肩を落として歩く少年の姿を思い出し、ぽつりとこう回答した。
「鞄ももらえず、俺達に会わせる顔もなく、何の稼ぎもないままとぼとぼと自分のねぐらに帰る、ってところかな……」
 その様子を想像したら、何やら気分が冷めてしまった。手元のジョッキに残ったエールを一気に飲み干し、次を注文すると、いつものハムに齧り付く。こんな事ならあの少年が行く前に、せめて、何か食べさせてやれば良かった。そんな事を考えて、しかしルドルフは自嘲した。今だからそんなお人好しなことを考えるが、きっと当人がこの場にまだ残っていたら、そういう善意は脳裏を掠めもしなかっただろう。昔から、あれくらいの年頃の子供は大の苦手なのだ。
「しかしこの町にも、ああいう子供が増えたなぁ」
 エールを片手にしみじみとそう言ったのは、やはりいくらか酔い始めているロブである。それを聞いて、ダリルも大きく頷いてみせた。
「機械化だ、産業化だなんだって、田舎からどんどん人間が集まってきてるからな。とはいえ町の側は、受け入れ体勢も何も整っちゃいない。そりゃ、路上に人が溢れるさ」
「それに、聞いたか? 造船屋なんかを覗けば、仕事がきつくてバタバタ人が死んでるらしい。そうやって親に死なれた子供ってのも、まあ憐れなもんだよな」
「最近じゃ、そういう子供を捕まえて、安い労働力として農園へ売るような輩もいるらしいぜ。その後は奴隷同然に働かせるんだとか」
 安い煙草の煙をくゆらせて、エーリクがしみじみとそう言った。その一方でマクシムは、堅い肉に黙々とフォークを突き立てている。
 ほら見ろ、賭けに子供なんかを使うから、こんな湿っぽいことになったじゃないか。そんな事を思いながらルドルフは、二杯目のエールを空にする。
 夜は随分更けてきていた。客の増えた酒屋は更に賑わいを見せ、一方では酔いつぶれた男達が、机に突っ伏しいびきを立てて眠り始める。
 混沌とした喧噪が、アビリオの街を彩っていた。
 いつも通りの夜である。日中を馬車馬の如く駆け抜けて、ようやく仕事から解放された人々が、声を高らかに飲み明かす。英気を養い朝を迎えれば、慌ただしいこの工業都市アビリオの一日が始まる。だからこそこの町の男は皆、夜をこうして陽気に振る舞うのだ。
 この喧噪を一人後にした先程の少年は、そろそろ鞄屋に着いただろうか。それ程遠い場所ではない。彼が駆けていったなら、戻ってきても良い頃合いだ。そう思いながら三杯目のエールを受け取り、何気なく、入り口の方へ視線を向ける。少年の姿はやはり無い。しかし不意に扉が開き、勇ましい雰囲気のある中年の女性が入ってきたのを、ルドルフは他人事ながら、物珍しく窺った。
 それ程若くはないとはいえ、こんな時間に女性が一人で酒場へ乗り込んでくるなど、あまり見ない光景だ。なにやら憤慨した目つきで酒場の中を見回しているから、飲んだくれの亭主を探しに来たか、それともその浮気現場でも押さえに来たのだろうか。これはもしかすると、今夜はこの酒場で、面白いものが見られるかもしれない。
「さっきの子供、帰ってこねえなぁ」
 ダリルがふと、呟いた。
「そういや今更だけど、はじめはあの子供が言われたことを出来るかどうかって賭けだったのに、マクシム以外は全員失敗する方に賭けてたよな」
「ああ。だからあいつが帰ってきて、どう失敗したかって事の顛末を話してくれなきゃ、誰が勝ったかわからないわけ」
「逆に成功したら、マクシムの一人勝ちって事か?」
「まあ、万が一にもそれはないだろうけど。ちなみに、あいつが今夜中に帰ってきもしなければ、一人勝ちするのは俺だからな」
 言ってルドルフがにやりと笑めば、マクシムがつまらなそうに口を尖らせる。しかしそうしてルドルフが、三杯目のエールに口をつけた、その時だ。
「あんたらかい? あの子を賭けに使ったのは」

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