廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

022:誓約 -2-

「――よろしくお願いしますっ!」
 勢い込んでそう言って、がばりと深く頭を下げる。これでいいのだろうか。これで、納得してもらえるだろうか。早く答えを得たいのに、どくどくと緊張に胸が高鳴って、他には何も聞こえない。
(もしかして、もっとセドナっぽく……、王様らしく、偉そうに言うべきだったのかな)
 だがそんな事、ウィルに出来ようはずがないではないか。頭が重い。ちっとも顔を上げられない。どうかこれ以上のことを要求されなければいいと願いながら、しかし今頃ウィルを見るイレーネの表情は、失意に満ちているのではないかと思えば、心臓がきゅっと縮こまる。
 肩を竦め、眼を細めて、恐々顔を上げてみる。まず視界に入ったのは、脳天気な顔でウィルの隣に座り込んだスターの姿だ。そうしてさらに視線を上げれば、跪いたまま驚いた様子でウィルを見上げるイレーネと、同じく驚いた表情でいるレオナルドやローザの姿がある。
(やっぱり、……ちょっと間違った、……かな)
 どうすればいいかわからないが、この空気を変えるために、謝っておいた方が良いだろうか。しかしそうしてウィルが視線を彷徨わせていると、イレーネがはっと息を呑み、明らかに狼狽した様子で、「頭を上げて下さい」とまず言った。
「私達は皆、セドナ様の臣下です。そのような、その、頭など下げていただいては」
「す、すみません。あの、」
「いえ、その、申し訳ないのは私の方で……」
 慌てふためくイレーネが、両手を彷徨わせ、助けを求めるようにレオナルドの方を振り返る。しかし黙って様子を窺っていたこの少年にとっても、こういった反応は想定外であったのだろう。レオナルドが何やら思考を巡らせるように、ちらと視線を逸らしたのを見て、ウィルは咄嗟にこう続けた。
「あの、ごめんなさい。俺、こういう時にどうしたらいいのかとか、まだあんまりわかってなくて! 正直、セドナって呼ばれてもちっともぴんとこないし、ここで何をしていけばいいか、見当もつかないし、……。でも、これから色々と覚えていきたいので、だからその、そういう事も含めて、……よろしくしてもらえたら、嬉しいんですけど、」
 事実、これからも彼らの『拠点』に居続けるのであれば、学ばなくてはならないことなどこの先幾らでもあるだろう。そう考えての、しかしほとんど思いつきで発した言葉であったのだが、それでも彼らはある程度、納得をしてくれたらしい。
 その証拠に、イレーネはじっとウィルを見て、じわりじわりと微笑んだ。
「御意のままに」
 暖かみを帯びた彼女の声が、ウィルの耳朶を貫いてゆく。
 再度頭を垂れた彼女は、しかし今回は時間を置かずに顔を上げると、その場へ静かに立ち上がる。そうしてウィルを見る表情は、何やら随分、晴れやかだ。
「御身に再びお仕えできること、光栄です。……『ウィル様』」
 ふと肩の力が抜けたのを感じて、ウィルは安堵の息を吐いた。危ういところはあったにせよ、少なくとも、失望されるほどではなかったらしい。様子を窺っていたローザやレオナルドも、先程より幾分柔らかい笑みを浮かべているし、ひとまず、今はそれで十分だ。
 だがそう思った直後、ふらりとイレーネの肩が傾いだのを見て、ウィルは思わず息を呑んだ。咄嗟にローザが彼女の身体を支えると、イレーネは歯がゆそうに幾らか眼を細め、「立ちくらみが」とぽつり、呟く。
「熱が下がったとはいえ、覚醒の負荷が残っているんでしょう。座って下さい。まだ、少し休まれた方が良さそうですね」
「お手間をおかけして、すみません。ああ、でも……。私の事よりウィル様は、昨日、お怪我はありませんでしたか? 警察の銃弾が、かなり近くを通りましたが」
「俺は大丈夫です。イレーネさんがマナで助けてくれたおかげで、銃弾も、ズボンに掠ったくらいだし、……」
 ソファへ浅く腰掛けたイレーネが、安堵した様子でにこりと笑う。そうして彼女はスターへ視線を移すと、「こちらも無事のようで、良かった」と続けた。
「さて、――イレーネさん。我々も、現世でもぜひ、よろしくお願いします」
 明るい声でそう言って、イレーネへ握手を求めたのはローザである。レオナルドがそれに続くのを見て、ウィルがちらりとローザへ視線を移せば、彼女もそれに気づいた様子で、にこりとウィルに目配せする。表情から察するに、恐らくイレーネの前世であるという『ソロン・キマ』は、先程ローザが想像していた通りの人物であったのだろう。
「エイル殿やカランドル様が現世での体制を整えていて下さったのなら、心強い限りです。これからは微力ながら、私もお力添えできればと思います」
「心強いのは、こちらも同じ事。早速で申し訳ないのですが、実はお知恵をお借りしたい事案が、既にいくつかあるんです。特に地形の照合などは――もう早速始めて下さっていたようですが、帝国時代の文献がほとんど消失してしまっているため、ほとんど手が付けられていない状況で」
「ええ。その話は先程、レオナルド様からもうかがいました。その件と、それから暦の割り出しは、私に任せて下さい。ただ、できればまずは現在の体制や、現世で既に覚醒し、集っている人員の把握も行いたいのですが」
 てきぱきと話を進めていく二人の様子を窺いながら、ウィルは密かに、また深々と安堵の溜息を吐いた。挨拶を終えたところで、早速また『セドナ』としての役割を求められるのではとも思ったが、少なくとも、今はそういう流れではないようだ。しかし肩の力を抜いて視線を下げ、少し離れたところに立つレオナルドを見て、ウィルは幾らか首を傾げた。レオナルドが不思議そうな表情で、じっと何かを見つめていることに気づいたのだ。
 レオナルドの視線を追えば、ウィルにもすぐに合点がいった。この少年の視線の先にいたのは、先程から好きにあちこちを歩き回っている、スターである。
 「ああ」独りごちる彼が珍しく、年相応の笑みを浮かべている。「教会でウィル様とお会いした時にも、一緒にいた子ですね」
「レオも、犬、好きなの?」
 イレーネ達の会話の邪魔にならないようにと、一歩退いたウィルがそう問えば、レオナルドがはっとした表情でウィルを振り仰ぐ。何か、おかしなことを言っただろうか。だが思わず口ごもったウィルとは反対に、この少年は嬉しそうにえくぼを浮かべると、「ええ、好きですよ」とまず言った。
「すみません、愛称で呼ばれるようなことがあまりなかったものですから、新鮮で」
「レオナルドって名前なのに、普段レオって呼ばれないの?」
「ええ、そうですね……。それより、この子はウィル様の犬なんですか?」
 きらきらとした青い瞳で微笑むレオナルドがそう問うて、寄ってきたスターへそっと手を伸ばす。ウィルはその問いへ曖昧に頷くと、腕を組んで、こう答えた。
「昨日知り合ったばっかりなんだ。でも、結構助けてもらっちゃって。クラウスにも懐いてるみたいだし、できれば連れていきたいんだけど」
「クラウスに、ですか?」
「うん。クラウスも結構犬好きみたいで、満更でもなさそうだったよ」
 「そうですか」と答える少年が、笑みを零して優しくスターの背を撫でている。一方でイレーネとローザの方は、一通り、仕事の話が済んだらしい。「ところで」と声をかけられ、振り返れば、ローザがこう提案した。
「遅くなってしまいましたが、そろそろ朝食を頂きましょうか。皆さんでご一緒にいかがですか? この拠点に食堂はないのですが、広めの会議室に食事を運ばせましょう」
 「いかがでしょう」と尋ねられ、ウィルは大きく頷いた。先程までは緊張でつい忘れていたが、朝から何も食べていない。少し気を抜けば、また腹を鳴らしてしまいそうだ。
「そうだ。それなら、クラウスも呼んできて良いですか? さっき帰ってきたばかりだし、きっとまだ、屋敷の中にいますよね」
 思いついてそういえば、ローザが頷き、レオナルドがにこりと微笑んだ。しかし何気なく視線を移してみて、ウィルは思わず、その場で小さく息を呑む。
「クラウス。……そう、そういえば、その男の事を確認しなくてはと思っていたんです。あろうことかウィル様を、あの橋の上から突き落とした男の名ですよね」
 形ばかりの笑みを浮かべて、幾分苛立ちの混ざった低い声でそう言ったのは、――他でもない、イレーネであった。
――多分クラウスは、彼女に会ったら叱られると思っているんですよ。
 無邪気にローザが発した言葉が、ウィルの脳裏にふと蘇る。慌ててローザへ視線で問えば、彼女は音を伴わず、悪戯っぽい笑みを浮かべて、口の動きだけでこう言った。
 「ね、言ったとおりでしょう」と。
「警官の目を惑わすためとはいえ、突然人を、それもウィル様を、あんな所から突き落とす了見がありますか。それに、一般市民に対してマナの力を使うなんて。力を抑えていたようですが、あの時見たのは確かに雷のマナでした。他にもあの不遜な態度といい、人の迷惑を省みない行動といい、『例の客人』は転生を経ても、ちっとも変わっていないようですね」
 「客人?」ウィルが思わず聞き返せば、イレーネが大きく頷いてみせる。
「クラウスというあの男、……前世は恐らく、イムですね?」
 『イム』。考えてみれば、クラウスの口から直接、彼の前世での名を聞いたことはなかった。だがしかし、その名にはウィルも覚えがある。
――アライスの民に『雷帝』とまで呼ばれ、畏れられたイム殿が、考え無しに打ち込んでくるとは。
 アビリオの駅で、ナールと呼ばれた『蛇の手』と遭遇した時のこと。彼は確かに、クラウスを指してそう呼んだ。
 ウィルがこくりと頷けば、イレーネが額に手をやり、溜息を吐く。
「イレーネ。あの、でも、昔とは変わったところもあるんですよ。マナの抑制も上手になりましたし、その、サボり癖も随分なくなって、」
「そうでなくては困ります」
 はぐらかすように言ったレオナルドの言葉を、イレーネがぴしりとはねつける。しかしそうして続いた彼女の言葉に、
 ウィルは思わず、息を呑んだ。
「ウィル様がお怪我でもされたら、一体どうするつもりだったのか問いたださなくては。全く、あの王子の破天荒ぶりは相変わらずで、……」
 「王子?」気づかぬうちに、つい大きな声が出た。虚を突かれた様子のイレーネが言葉を途切らせ、「ええ」と頷くすぐ後ろでは、ローザとレオナルドがまさかとでも言う表情で、互いに顔を見合わせている。
「クラウスは、……イムは、王子だったんですか? ええと、アライス・アル・ニール帝国の?」
「いえ。帝国ではなく、グリーヴァという同盟国の王子です。とはいえイムの母親は、先帝、つまりセドナ様のお父上の妹君でしたから、セドナ様とイムは従兄弟同士の関係になります。――もしやクラウスは、自分自身の事すらお伝えしていないのですか?」
 ローザに問われ、再び大きく頷いた。
 「本人のことは、何一つ」答える言葉に力が入る。同盟国の王子だとか、従兄弟同士の関係だとか、何もかも全て初耳である。
「その話、詳しく教えてもらえますか」

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