廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

021:誓約 -1-

「俺がアビリオにいちゃいけないなら、すぐ出て行きます」
 薄暗い森の中――アビリオ近くのある森で、自ら発したその言葉が、不意に脳裏に蘇る。
「実家にでも帰って身を隠します。それも駄目ならどこにでも……! でも今はどうか、どうか後生だから、」
 膝ががくがくと震えるのを、堪えようと必死であった。グラダの刑務所へと向かう、身に覚えのない道の上。ボハイラの蛇との遭遇に、クラウス・ブランケの口から語られた、太古に滅んだ帝国の末路。
 非業の死を遂げた帝王と、彼の抱えた封印の話。
 ウィルにとっては何もかも。
 何もかもが、唐突であった。
「お前がどう思おうが、お前が帝王セドナの転生先である事実は変わらない。それが知れた以上、お前の意志にかかわらず、これからもボハイラの蛇はお前を狙うだろう。その度にまたこういう事が起きる。何度でも」
 闇夜の森で錠をかけられ、蛇に囲まれ、ウィルは無理矢理『理解』した。
 セドナを否定してクラウスの言葉と助力を拒み、『ウィル』を受け入れてくれた唯一の居場所を失うか。
 クラウスの言葉を受け入れて、『セドナ』としてアビリオを去るか。
 ウィルに許された選択肢は、その二つしかないのだと。
 
 * * *
 
「大恩ある我が王に、ご恩をお返ししたいのです。現世でもどうか、どうかお側にお仕えすることを、お許し下さい」
 跪いたまま頭を垂れ、噛みしめるようにそう話す、イレーネの前に立ち尽くす。そうしてウィルは唾を飲み込むと、握りしめていた拳をそっと緩め、袖口で、じわりと滲む汗を拭った。
 体調の持ち直したイレーネを見て、単純に安堵していた自らの浅慮が悔やまれる。居たたまれずに顔を上げれば、我関せずといった様子で部屋の中を歩き回るスターの姿があり、ティーカップの片付けを済ませていたメイドが出て行くのを見送れば、その視線の先に立つ、レオナルドと目があった。
 ウィルよりずっと年下のこの少年は、しかし大人びた穏やかな笑みを浮かべて、こちらの様子を見守っている。そうして戸惑うウィルを見据え、諭すように、こう言った。
「一言で構いません。ただ、『許す』と言って差し上げて下さい。イレーネ、それで良いですね」
 畏まったイレーネが、しかし顔は上げぬまま、恐る恐る頷いてみせる。
――お前が、帝王セドナの生まれ変わりだ。
 これまでに何度も、何度も、脳裏に蘇ったその言葉が、また鮮やかに色を成す。
 「あの、でも、……」ずきりずきりと脈打つ胸を押さえて、ウィルはぽつりと呟いた。
「でも俺、セドナの事、何も覚えていなくて。だから、あの、ソロンさんの事とか、恩がどうとか、何も知らないんです。この町へ来たのも、ボハイラの蛇から逃げなきゃいけないって言われて、言われるまま、ついてきただけで」
「まだ覚醒されていない旨も、レオナルド様よりうかがいました。それでも、……御身に纏われたそのマナの色は、間違いようもなくセドナ様のもの。私のことなど、思い出していただけなくても構いません。ただ、いずれ来るボハイラの蛇との戦いの際、少しでもお力になれたなら」
――王に仕え、王を守り、ボハイラの蛇と戦うため。その為だけに転生した人間が、俺の他にも大勢いる。
 畏まった態度で、じっとウィルの応えを待つイレーネを見る。この調子では、きっとウィルが「許す」と言うまで、立ち上がってすらくれそうにない。側で様子を窺っているローザ達は、いつまでも黙ったままのウィルを見て、どう思っているだろう。
(『許す』って、俺が一言、言えばいいのか)
 握りしめた拳を解いて、悟られぬように、ズボンの布で汗を拭く。
(そう言えば、この場はうまく終えられるのかな)
 ならば彼女が望むまま、望まれるまま、「許す」と一度、言えばいい。
 クラウスに導かれるまま、ウィルは『セドナ』としてここへ来た。その覚悟が足りていなかったとはいえ、それは確かな事なのだ。だから。
 ウィルに傅く人々が、好んでウィルを敬うのなら。ウィルは、きっと受け入れるべきなのだ。
(なんだか凄く、窮屈だけど、……。でも、特別な事じゃない)
 ごくりと唾を、呑み込んだ。
 故郷を出てからたったの今まで、どんな職場を転々としても、ウィルのするべき事は一つであった。必要としてもらえるように。居場所を与えてもらえるように。与えられた『仕事』を、望まれるまま、精一杯にこなす事。
 誘われるまま来たこの道も、――きっとそういう道なのだ。
 「それに、」と続けたイレーネの声に、思わず小さく息を呑む。いまだ傅く彼女の声は、予想に反して些か、はにかんでいた。
「ご自身も危うい状況でいらしたのに、『ウィルさん』は昨日、懸命に私を守って下さいました。そのご恩も、まずはお返ししなくては」
 きょとんとしたまま思わず目を瞬いて、思わず「それは」と口を開いた。その声が、緊張に幾らかうわずっている。
「助けて貰ったのは俺の方で、俺なんか全然、たいした事は出来なくて」
「ですが初めてお会いした時と、橋の上で挟み撃ちにされた時、二度も助けていただきました。覚醒されていなくとも、このご恩は、……覚えていて下さいますよね」
 不安げに、彼女の言葉が翳ってゆく。ウィルはびくりと肩を震わせると、もう一度、ごくりと唾を呑み込んだ。
 手の内には、まだじっとりと汗を掻いている。
 傅くイレーネの目の前に、身をかがめて跪く。はっとした様子で顔を上げた彼女の目と、目があった。
「……、熱、下がったみたいで良かったです。昨日はとても、辛そうだったので」
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。一度に覚醒をすると、体に負担がかかるのだそうです。ですが、もう何ともありません」
「ならよかったです。でも、あの、無理はしないで下さいね」
 視線を落として、一度きゅっと口元を結ぶ。
 ふとウィルの耳元に、静かな疑問が湧いて出た。
 こんな時、『セドナ』ならなんと言うのだろう。
 この誠実な『臣下』に、どんなふうに、許しの言葉を与えたのだろう。
(それに、どうしたら)
 こうして懸命に、ただ前世の縁から、ウィルに仕えようとする人々に、――幻滅されずに済むのだろう。
「その、俺、まだよくわかってないんですけど、……これから先、どうか力を貸して下さい」
 おずおずと、心許なく言葉を紡ぐ。これでいいのだろうかと自問する声が、進んでしまえと半ば捨て鉢に喚き散らす、心の声に消えていく。
 進んでしまえ。言ってしまえ。
 その場にさっと立ち上がると、無意識のうちに大きく、深く息を吸う。
 望まれるとおりにすればいい。どうせ、戻れはしないのだ。
 ここで暮らしていくより他に、ウィルに選べる道などないのだ。
「ゆ、……『許します』。――だから、」
――ウィルさんは無実なのでしょう? でしたら、私はその言葉を信じます。
 彼女の家で耳にした、そんな言葉をふと思い出す。
――ウィルさん、どうかお手伝いをさせてください。あなたに助けていただいたからなのか、私、あなたのお役に立ちたいんです。
 ウィルの事情など何も知らない、偶然の重なりの上に知り合ったこの天文学者は、にこりと笑んでそう言った。
 あの時の彼女は、まだ『覚醒』していなかった。そのはずだ。自分の前世がアライス・アル・ニール帝国の人間であったことも、ボハイラの蛇のことも、――勿論彼らの王の事も、彼女は少しも知らなかったはずだ。それでも彼女は快く、ウィルに協力を申し出た。
 そんな事を何故だか今、言い訳がましく考える。
 
 * * *
 
「どうか、――みんな、助けてください」
 貧しい田舎の農家に生まれ、家族に疎まれ早い内に家を出て、随分肩身の狭い思いをしながら生きてきた。だからこそアビリオの街の小さな印刷所で、やっとの事で見つけた居場所は、ウィルにとってどれだけ大切なものであっただろう。
(必要としてもらえるように、……居場所を、失わなくても済むように)
 その為に、思いつくことは何でもした。人の顔色ばかりを見て生きてきたのかと聞かれれば、ウィルに否定の余地はなかったが、その事を恥じる気持ちなど少しもない。
 居場所を守るために、懸命に学び、誰よりもよく働いた。嫌われないように、失望されないように、少しでも期待をしてもらえるように。それだけが、ウィルに出来る唯一のことであったから。
「この場は俺がどうにかする。……だがその代わり、これからは、俺達の組織と行動を共にしてもらうからな」
 暗いあの森の中で、クラウスと一つ取引をした。
 セドナを否定してクラウスの言葉と助力を拒み、『ウィル』を受け入れてくれた唯一の居場所を失うか。
 クラウスの言葉を受け入れて、『セドナ』としてアビリオを去るか。
 二つのどちらを選んでも、ウィルはアビリオでの居場所を失う事になっただろう。それがわかっていたから、どちらもウィルには選べなかった。
 どちらを選んだとしても、ウィルにとっては同じであった。
 だからせめて、ウィルに仮初めの居場所を与えてくれた人々の命を守るために、束の間の平穏をくれた人々のために、――そしてただ、その場をしのぐためだけに、
 ウィルは、選んだふりをした。

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