廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

020:ソロン

 七時をまわった屋敷の中は、先程ウィルが歩いた時より、ずっと賑わいを見せていた。
 事務室や会議室、倉庫等があるらしい一階から三階までのフロアには商会の人間らしきスーツを着た人々が行き来しており、客間のある四階以上では、シーツや枕カバーなどの洗濯物を抱えたメイド達とすれ違う。ウィルの働いていた印刷所もそうであったが、この屋敷の人々も、朝早い時間から仕事を始める習慣のようだ。
 そんな中を、ローザについて歩いている。ようやくクラウスの側を離れたスターはウィルのすぐ後ろをついてきていたが、クラウス自身の姿はそこにない。イレーネに話を聴きに行こうと誘ったローザに、何やら頑なに同行を拒否するものだから、彼とは屋敷の入り口で別れたのだ。
「彼女が誰の転生先なのか、気にならないの?」
 にやりと笑んでそう問うたローザに、「マナを見たから、見当はついてる」と苦い顔をしたクラウスの姿を思い出す。ウィルにはまだ今ひとつ実感が湧かないのだが、イレーネがアライス・アル・ニール帝国民の生まれ変わりだというのならば、例え現世での繋がりはなくとも、クラウスにとっては長い間まみえることの無かった旧友とも言うべき人物なのではないだろうか。
 そう考えると、クラウスの態度は素っ気なさ過ぎるようにも思われたが、しかしあれ程きっぱり「行かない」「興味がない」と言い切られては、ウィルも納得するより他にない。
「一度『行かない』と言ったら、クラウスは梃子でも動きませんからね。まあ、放っておきましょう」
 あっさりとした物言いのローザの言葉に、思わず少し、笑ってしまった。屋敷の中へスターを連れ込んで良いものやら迷っていたウィルに、なんの躊躇もなく「どうぞ」と笑った彼女は闊達として、何をするにも歯切れが良い。
「多分クラウスは、彼女に会ったら叱られると思っているんですよ」
 ローザが何気ない様子で続けるのを聞いて、ウィルが小さく首を傾げる。『彼女』というのがイレーネのことであろうことはわかったが、しかし何故、クラウスが彼女に叱られるのだろう。
「レオナルドから聞きましたよ。警官隊から逃げるためとはいえ、クラウスに橋から突き落とされたそうじゃないですか。レオナルドが土のマナで地面を軟化させたからいいものの、間に合わなければ大怪我ではすみませんからね。まあ今叱られなくても、時間の問題だと思いますけど」
 土のマナ。あの時石畳に叩きつけられても、怪我一つ無かったのはレオナルドという少年のおかげであったらしい。そういえば前後のごたつきのせいで、クラウスに突き落とされたことをすっかり失念していた。
(クラウスを怒らせたままかもって思ってずっと気にしてたけど、もしかして俺だって、ちょっとは怒っても良かったんじゃないの?)
 実際、クラウスの行動のおかげで無事にここまで逃げおおせたことを思えば、既に怒りなど湧きはしないのだが、そういう話題でなら、また先程のように軽い調子で話も出来るかも知れない。そんな事を考えれば、またいくらか、ウィルの気持ちが軽くなる。そうしてふとローザを見て、ウィルは思わず瞬きした。隣を歩く彼女が、まるで悪巧みをする少年かのような、悪戯っぽい笑みを浮かべている事に気づいたのだ。
 颯爽と歩く立ち姿に変わりはないが、騎士を名乗った昨日とは、打って変わった表情だ。あの時の凛々しさは、今のローザには感じられない。しかし明るいその表情は、昨日のそれよりずっと親しみやすく感じられた。
「もしかしてローザさんは、その、……イレーネさんの前世が『誰』だったのか、もう知ってるんですか?」
 口を開いてウィルが問えば、ローザが嬉しそうにウィルを振り返り、じっとその顔を覗き込む。
 思えば昨日もそうであった。彼女はどうやら会話をする際、相手の顔を見つめる傾向にあるようなのだ。だからこそ昨日は余計に緊張をして、凛とした彼女の琥珀色の瞳から、必死に視線を逸らしてしまった。
 「いいえ。私もまだ存じません」答える彼女の声はきっぱりとしていたが、やはりどこか、楽しげだ。「ですがクラウスの態度を見たら、なんとなく見当がついてしまいました。水のマナを使うと聞いていますし、何より、あのクラウスが相当苦手とする人物のようですから」
「クラウスに、苦手な人なんているんですか?」
「きっと沢山いますよ。見た目より、中身はずっと子供ですからね。叱られるとすぐに不貞腐れますし」
 ふと、ファーマティカの駅へ着いたばかりのことを思い出す。あの時のクラウスはウィルに敬語を使うなとだけ言いつけて、ウィルがそれに従うまで、意地でもウィルを振り返らなかった。
「彼女の前世が私の想像通りであれば、とても有能な人物なので、今後行動を共に出来ると助かるのですが」
 嬉しげにローザが話すのを聞きながら、とりあえずは相槌を打っておく。そうしながらウィルは脳裏で、彼女が言うところの『誰かに叱られて不貞腐れるクラウス』という図を思い浮かべてみていた。だがすぐに思い浮かぶクラウスの表情はと言えば、いつも通りの仏頂面か、あるいはボハイラの蛇や悪漢達相手に浮かべていたような不敵な笑みばかりで、今ひとつ上手く想像出来ない。
「誰に対してでも強気で、マイペースな人なのかと思ってたけど……」
 声に出して呟いてしまってから、思わずはっと息を呑む。見ればローザが琥珀色の瞳をまん丸くして、しかしすぐさま、明るい声で笑い出した。
「強気でマイペース、確かに、流石よく見ていらっしゃる!」
「あっ、でもあの、悪い意味じゃなくて! なんていうか大胆不敵で、こう、堂々としてる? いや、ええと、頼もしい? だからあの、俺が言いたかったのはですね、」
「いえいえ、わかります。今のクラウスったら、愛想もなければ可愛げもないし、まるで傍若無人を絵に描いたような男ですよね」
 ローザが一度笑い止み、しかしまたすぐにウィルから顔を背けると、口元に拳を充てて吹きだしている。
「く、クラウスに言わないでくださいね」
「横柄だとか勝手だとか、言われ慣れていると思いますよ」
「そこまで言ってません」
「ふふ、失礼いたしました」
 ふと先を見れば、こちらへ向かってくるメイドの姿が視界に入る。メイドの側も、ウィル達の姿に気づいたのであろう。廊下の脇に寄りまた深々と頭を垂れるのを見れば、ウィルは何やら申し訳なさばかり感じてしまうのだが、ローザは慣れた様子でにこりとメイドに微笑みかけると、なんの気負いもなく廊下の中心を歩いて行く。
 前世は騎士であったというし、今だって、ハリオット商会の副社長を務めるような人物だ。きっと、人に傅かれることには慣れているのだろう――。しかしふと、再び前を向いた彼女の左耳を見て、ウィルは思わず瞬きした。
 昨日見たのと同じように、彼女が左耳の辺りにつけた不思議な金属の塊が、鈍色の光を帯びている。だがそれがただの飾りではなく、小さなラッパ型に先を広げた補聴器であることに、今更ながら気づいたのだ。
「生まれつき、耳の聞こえがよくないのです」
 思わずじっと見てしまったウィルの視線に気づいたのだろう。ローザはちらとウィルを見て、しかしすぐまた行く先へと視線を戻すと、穏やかな声でぽつり、そう言った。
 赤みを帯びた彼女の髪が、窓辺から射す朝日に透けて光を帯びている。それがさらりと彼女の背を撫で、タイル敷きの廊下へ軽やかな影を映し出す。
「耳のことさえなければ、……できれば前世と同じく、戦士としてお側にお仕えしたいと思っていました。残念ながら、この体では戦いの第一線で働くことなど出来ないでしょうが、……。その分、他の分野で少しでも、お役に立たせて下さいね」
 言葉を発するウィルを見る、琥珀色の眼を思い出す。もしかするとあれは、表情を見ていたのではなく、ウィルの唇の動きを見ていたのだろうか。
 だがそう問うていいものだろうかと逡巡しているうちに、どうやら目的の場所へ着いてしまったらしい。ローザが扉をノックしようと右手を挙げ、しかし唐突に内側から開いたそれを見て、さっとその場を後ずさる。
 代わりに部屋から顔を出したのは、レオナルドであった。
「ああ、ローザ。いいところに。ラヒサール付近の地質図がほしいのですが、この拠点にはありましたっけ。ファーマティカやグノー周辺のものはオスカーが見つけてくれたのですが、資料室の勝手がわからなくて」
 どうもそこまで言ってから、ローザの背後で尾を振るスターと、扉の陰に隠れてしまっていたウィルの存在に気付いたらしい。この少年は驚いた様子で目を瞬いてから、「おはようございます」と言って朗らかな笑みを浮かべ、見た目からは想像もつかない大人びた動作で振り返ると、扉の内側へと声をかけた。
「イレーネ。ウィル様たちがいらっしゃいました。中へお通ししても?」
 「えっ? ええ、勿論です! ……ああ、でも、このままでは」扉の内から、聞き覚えのある女性の声。しかしそれに続いてばさばさと、なにやら物を落としたような音がする。同時にがちゃんと響いたのは、何か食器でも倒した音だろうか。
「あの、俺達突然来ちゃって……。よかったら、また後で出直します」
 考えてみれば、同性のローザやまだ子供のレオナルドならばともかく、女性の寝室へ突然尋ねたのでは失礼だったのではないだろうか。そう考えての言葉であったのだが、部屋の内の人物は、そうとは受け取らなかったらしい。
「そのようなお手数をおかけするわけには、……どうぞ、どうぞ中へ!」
 にこにこと微笑んで立つレオナルドのすぐ背後に、一人の女性が顔を出す。白い肌を些か紅潮させて、現れたのはイレーネであった。
 屋敷の誰かに借りたのだろうか、昨日とは違う白いシャツと深緑色のスカートに身を包み、豊かな金色の巻き毛は結ばず、全て肩に下ろしている。昨日のきっちりと結い上げた髪型も似合っていたが、今日のような髪型も、また彼女の女性らしさを際立たせているように思われた。しかしウィルの視線に気づいたのだろうか、イレーネは咄嗟に毛束をまとめて片側の肩にかけると、「お見苦しい格好で、……」と目を伏せてしまう。
 彼女の長い睫毛が、戸惑いがちに揺れている。やはり後程、出直した方が良いのではないだろうか。しかしそうは思いながらも、ウィルは安堵の溜息を吐く。
 熱に浮かされた様子であった昨日と比べ、今日は随分顔色が良い。体調はもう、完全に持ち直したのだろうか。
 ウィルが問うより先に、「熱はもう大丈夫なのですか?」とローザが問うた。そう問いながら、構う様子もなく部屋の中へと入っていく彼女を見て、イレーネは諦めた様子で苦笑する。
「お陰様で、体調はすっかり持ち直しました。すぐにご挨拶に伺うべきかとも考えたのですが、つい、その、現在が帝国歴何年にあたるのか、ここが帝国時代のどの地域であったのか、気になってしまって」
 遅れて部屋に入ったウィルがひょいと覗けば、この部屋の中央にある机やソファの上には、これでもかとでも言わんばかりに様々な地図が広げられている。倒れたティーカップの始末をしているメイドが一人、室内にいるのだが、彼女にも散乱した地図をどうこうしようという気はないらしい。
 けっしてだらしなく散らかっているという風ではないが、整然としているとは言い難い。そんな室内を見れば、あちこちに本の積み重なったイレーネの自宅の様子が思い出され、ウィルは小さく笑ってしまった。
 しかし。
「ああ、それで地質図がご入り用でしたか。でしたら後程、こちらの部屋へ運ばせましょう。ご要望とあらば、エンデリスタ大公国内の物に限らず、どの地域の地図でも取り寄せますよ」
「申し訳ありません、エイル殿。いえ、今はローザさんでしたか。それに、その……」
 戸惑う様子で揺れるイレーネの視線が、それでも遠慮がちに、そっとウィルの方を向く。それを見て、ウィルは、思わずぎくりと背筋を伸ばした。
――存じ上げなかった事とはいえ、あの路地裏で助けていただいてよりこれまで、多大なるご無礼をいたしました。どのような罰もお受けします。
 馬車で聞いた彼女の言葉が蘇る。震えた彼女のその声は、それまでに話していた『イレーネ』の声音とは、全く異質な物と思われた。
「あの、イレーネさん。俺、」
「現在の状況に関しては、レオナルド様より幾らかうかがいました。昨日はろくにご挨拶も出来ず、申し訳ございません」
 堅い声で言う彼女の視線にたじろいで、思わずその場に視線を落とす。ウィルの前へ膝を突き、頭を垂れたイレーネの立ち居には、――戸惑いの色は、最早無い。
「改めてご挨拶をさせてください。前世では故郷をセドナ様にお救いいただき、御身にお仕えして後は、一等法務官の位を賜り政務に携わっておりました。セドナ様の御世においての名は、ソロン・キマと申します。セドナ様が崩御されて以来、こうして来世でまたお仕えすることだけを、唯一の望みとしてまいりました」

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