廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

019:明けの明星

 衝動に任せるまま駆けて、勢い込んで外へ出る。北風が音を立てて吹き、巻き上がった枯れ葉がウィルの視界を奪う。それでもウィルは一度ぶるりと体を震わせ、自らの腕をもう一方の腕で抱きしめると、空風の吹く屋敷の庭を駆けていった。
 途中、すれ違ったメイドが驚いた様子でウィルを振り返る。しかし構う様子も無しに、ウィルが先程窓から見た横門へ一直線に駆け寄ると、今度は目を丸くした門番に声をかけられた。
「お客人、一体どうなさいました」
 門からひょいと一歩出て、慌てて周囲を見回した。しかし求める姿がないのを見ると、「犬は」と、息を弾ませて門番に問う。
「犬、ですか?」
「はい! 金色の毛のもこもこした、結構大きい犬なんですけど、見ませんでしたか?」
 ウィルの剣幕に驚いたのだろう。門番は些か及び腰に、しかしウィルの背後を指さすと、「あの犬ですか?」と問い返す。門番の視線を追って振り返り、ウィルは瞳を輝かせた。
「スター!」
 思わず、大きな声を出してしまった。しかしウィルの声量にも負けず、大きく吠え返す声がある。通りの向こうの物陰から、ひょいと顔を出した見覚えのあるくりくりとした目に、ウィルの口元が綻んだ。
「良かった! おまえ、無事だったんだな」
 咄嗟にその場にしゃがみ込み、ぱたぱたと尾を振りながら駆け寄ってきたスターに手を伸ばす。そうしてその首元を抱きしめれば、暖かな温度がウィルの腕の中に広がった。
「怪我は無かった? 昨日はごめんな。チンピラに追われていった後、どうしたかずっと気になってたんだけど、俺も色々あって、探しに行けなくて……」
 顔を放してそう言えば、スターがぺろりとウィルの頬を舐める。許してくれるということだろうか。スターもぼさぼさになった体中の毛のあちこちに落ち葉をぶら下げてはいるものの、大きな怪我はなさそうだ。
 スターの吐いた白い息が、明け方の空に融けていく。それを見てウィルが笑えば、やはり同じように、白い息がふわりと昇り、たちまちに風の中へと消えていった。
「その犬、スターというのですか」
 眼を細めてそう言ったのは、様子を窺っていた門番だ。しまった、嬉しさのあまり周囲が見えなくなっていた。気恥ずかしさに頬を赤らめたウィルが、「はい」と小さな声で答えると、門番は気にした様子もなくにこりと笑い、しかしまずは、門の中へ戻るようにと促した。
 そういえば、この屋敷に匿われていることを警官隊に知られては、都合が悪いのであった。門番がウィルのことをどう聞いているのかはわからなかったが、確かに、言われるとおりにした方が良さそうだ。スターを伴い屋敷の庭へと後ずされば、門番はこう言葉を続けた。
「その犬、昨日の晩からずっと、この屋敷の周りをうろついていたんです。一体どこの犬かと思っていたのですが、きっと、お客人の事を探していたのでしょうね」
 ウィルの頬がまたゆるゆると、喜びを隠せず笑みを作る。そんな健気な話を聞くと、なんだか余計に、スターのことが可愛く思えてしまうではないか。
(こいつ、あんな目に遭ったのに、俺を追いかけてきてくれたんだな)
 ふとスターを見下ろせば、黒々とした目がきりりとした表情で、ウィルのことを見上げている。その尾がぱたぱたと揺れるのを見ると、ウィルはまたその場にしゃがみ込み、スターのことを抱きしめた。
「ありがとう」
 抱きしめる腕に、思わずぎゅっと力がこもる。ふわふわとした、獣臭い暖かさ。それを腕一杯に感じると、何やら、昨日おかしな縁で出会ったばかりだということなど、すっかり忘れてしまいそうになる。しかしスターが首を振り、身じろぎするのを感じて、ウィルは慌てて手を放した。
 しまった、強く抱きしめすぎただろうか。見れば様子を窺うウィルを他所に、スターはくんくんと鼻の先を揺らして、ウィルの腹の辺りの匂いを嗅いでいる。
 何かが臭うのだろうか。ウィルが咄嗟に自らの袖の匂いを嗅いでみた隣で、ひょいとウィルの膝に前足を乗せたスターは、遠慮無しにぐいぐいと、ウィルのポケットへ顔を押し込もうとしている。そうしてふと、スターの目的に思い当たると、ウィルは眉間に皺を寄せた。
 ウィルのズボンのポケットには、そもそもウィルがスターを追いかけることになった原因である、――例の小銭入れが入っていることに気づいたのだ。
「ちょっと待って。俺のことを探しに来てくれたんじゃ、……」
 言うそばから、小銭入れを探り当てたスターが更に鼻先を押し込んでくる。ウィルが慌ててポケットに手を添えても、スターはちっともお構いなしだ。
「なんだよ、結局これがほしいのかよ……」
 なんでだよ、と呟くが、当然ながら明確な応えなど得られない。しかしふと視線を上げて、ウィルは目を瞬いた。
「クラウス、」
 ウィルの居る横門からは、少し離れた表門――馬車の出入りのある大きな門の方から、屋敷へ向かって歩いて行く人影がある。見覚えのあるその影は、ウィルに気づいた様子もなく、真っ直ぐに屋敷の方へと向かっていた。どうやらどこかから帰ってきたところのようだが、こんな明け方に、いったいどこへ出かけていたのだろう。しかしその問いが胸に浮かぶよりも前に、一つ、脳裏に蘇る言葉がある。
――オマモリだ。
 アビリオでクラウスの宿を訪ねた時に見た、琥珀色の歪な形の石。一体何かと尋ねたウィルに、クラウスはただそう答えた。そうして手渡されたこの石を、ウィルはひとまず、小銭入れにしまっておいたのだ。
(もしかして、スターが狙ってるのは、……この石なんじゃ)
 ウィルの思いに気づいたのだか、スターの耳がぴくりと揺れる。はっとしたウィルが視線を戻せば、スターはウィルのポケットに鼻を押し当てたまま、しかし真剣な表情で、じっと耳を澄ませている様子だ。
「……、スター?」
 恐る恐る声をかける。しかしスターはウィルの言葉など聞こえてすらいないかの様子で、――不意にひらりと身を翻すと、ウィルに背を向け、一目散に駆けていってしまった。
 ぽつりと取り残されたウィルが、我に返るまでに一瞬の間があった。だがスターの駆けていく先を視線で追って、思わず小さく悲鳴を上げる。全速力で駆けていくスターの向こうに見えたのは、他でもない、――屋敷へと向かうクラウスの背中であったのだ。
 スターの吠える軽やかな声。浅く振り返ったクラウスが、スターを見て、何事かと咄嗟に腰の銃へと手を伸ばしたのが遠目のウィルにもよく見えた。
 短く息を呑む。無意識のうちに手を伸ばす。
「クラウス、だめだ!」
 気づけば、大声で呼びかけていた。するとウィルの姿に気づいた様子のクラウスが、反射的に手を浮かせる。クラウスの懐が束の間、全くの無防備になった。そこへ、――
 全速力で駆けつけたスターが、問答無用で飛びかかる。
 思わず両手で自らの顔を覆ったウィルの耳に、がっしゃんと派手な物音が鳴り響く。早朝の庭に、それでもまばらに各々の仕事を努めていた門番やメイド達が、一体何が起きたのかと囁きあう声が聞こえた。それらを耳に聞きながら、ウィルが恐る恐る様子を窺えば、顔をしかめて尻餅をついたクラウスと、その腹に前足を立たせ、クラウスの顔を覗き込むスターの姿がそこにある。今にも千切れるのではないかと不安になるほどの勢いで揺れるスターの尾が、朝日にきらと輝いて見えた。
「あの、だ、大丈夫……?」
 おずおずと声をかけながら、クラウスが取り落としたらしい鞄をそっと拾い上げる。そうする合間にもスターはクラウスの首元に顔をすり寄らせ、かと思えば何かを訴えるように、前足を上げては下ろすを繰り返す。何を訴えているのかはちっともわからないが、いやにクラウスに懐いている――少なくとも、ウィルの目にはそう見えた。
 もしかするとスターは、元々野良犬などではなく、クラウスの犬だったのだろうか。けれどそれを問うより早く、地面に腰を付けたまま苛立たしげな表情でいるクラウスの視線に気づき、ウィルは小さく息を呑む。
「随分、……うまく芸を仕込んだみたいだな」
「えっ! ち、違うって。今のはその、スターが自主的に、」
「スター? どこで拾ってきたのか知らないが、名前まで付けたのか」
 当然のこととも思われたが、押し倒されたままで居るクラウスの声に、何やら怒りが滲んでいる。しかし咄嗟に首を横に振り、説明の言葉を探すウィルの事など気にする様子もなく、スター自身は奔放だ。ぶんぶんと尻尾を揺らしながら、クラウスの腹に鼻先を押しつけるやら、背後に回ってみせるやら、嬉しそうにクラウスにまとわりついている。
「あの、昨日チンピラから逃げてた時に、助けてくれた犬なんだ。野良犬って聞いてたんだけど、もしかしてクラウスの犬、なのか?」
「犬を飼った覚えはないな。……出会い頭に、押し倒される理由もわからん」
 しかし仏頂面をしたクラウスの頬を、スターがまた親しげに舐めている。すっかり座り込んでしまったクラウスも、不機嫌そうな表情は変わらないものの、そのわりには嫌がる様子もない。
「おい、そろそろ離れろって。俺の顔なんか舐めたって、別に旨かないだろう」
 高価そうなスーツに皺が付くのも構わず、クラウスがその場にあぐらを掻くと、スターは一度離れてクラウスの周りをぐるぐると駆け、すぐにまたクラウスの頬に頭を寄せる。嬉しそうに笑うスターの無邪気な二つの目が、困り果てた様子で顔をしかめるクラウスの事を、じっと、穴が空きそうな程に見つめていた。
「おい、なんなんだこの犬は」
「それは俺が聞きたいんだけど……。でもクラウス、やけに懐かれてるよな。本当に初対面? スターってば、俺に対する態度と、全然違うんだけど」
「俺にそう言われてもな……。なんだ、犬をとられて悔しいのか?」
 そう言ってクラウスが、にやりと笑った、ように見えた。一体何事だろうかと様子を窺っていた周囲の人々は、どうやらたいしたことではなかったらしいと結論づけたのだろう。彼らがまた散り散りになって仕事に戻っていくのを見送ると、ウィルは寒さに縮こまるように、スターの隣へしゃがみ込む。クラウスの言葉には、「違いますー」と口を尖らせて否定をしたが、実際、面白くない思いは確かにあった。
 ウィルはスターと再会できたことが心の底から嬉しかったのに、スターにしてみれば、ウィルと居るよりも初対面らしいクラウスと居る事の方が嬉しいらしいのだ。だがあろうことか、目の前でひょいと横になり、撫でろとでも言わんばかりに腹を出してしまったスターと、当然のように手を伸ばしてそれを撫でるクラウスを見れば、すっかり毒気が削がれてしまった。
「犬、好きなの?」
「まあ、大きくて強い奴は嫌いじゃない」
「腹まで撫でちゃって、犬たらしだなぁ」
「犬やら女やら、見境なく拾ってくるお前に言われたくないけどな」
「女って、イレーネさんのこと? 見境無くってことないよ」
「間違っちゃいないだろ」
「向かってくるチンピラを、見境無くボコボコにした人に言われたくありません」
 言ってしまってから、ウィルは思わず言葉を呑みこんだ。
 何やら上手く会話が続いたものだから、つい調子に乗ってしまった。だがチンピラの件に関して言えば、ウィルが広場を離れなければ、あんな事にはならなかったはずだ。そもそも敬語を使うなとは言われたが、こんな風に親しげに話しても良いものなのだろうか。ウィルよりずっと年上で、立派な身なりをしたこの男の隣に並ぶと、どうしても、かつて印刷所で同僚に対してしていたような態度でいるのは憚られる。
 怒られる。そう思った。しかし咄嗟に上手い言い訳が浮かばず、慌てたウィルを他所に、クラウスはただ「ああ、あれは」と、何やらしみじみ言葉を続ける。
「あれはいい気晴らしになったな。誰彼構わず思う存分にボコボコにできて。もう少し手応えがあれば、完璧だったんだが」
 物騒なことを口にするクラウスが、しかし背を丸めて、また荒っぽい手つきでスターの腹を撫でている。
 あれはいい気晴らしになった。しみじみ言ったクラウスの言葉を、もう一度脳裏で咀嚼する。そうしてふと、クラウスと目が合うと、
 ウィルは思わず、声を上げて笑ってしまった。
「気晴らしってそれ、チンピラ達が気の毒すぎて、……!」
 自らの笑い声に掻き消されて、上手く言葉が続かない。笑い声に反応したスターがひょいと体を起こし、何やら楽しそうな表情で、ウィルとクラウスとを交互に眺めている。
「誰かのおかげで、方々走らされたからな。その分くらいは発散しないと」
「えっ、じゃあ、走らせた分は既にチャラになってる? もう怒ってない?」
「ちゃっかりした奴だな。なんだ、怒られたかったのか?」
「いやまさか。俺きっと、クラウスに殴られたらしばらく寝込むと思うよ……」
 思わず即座に否定して、しかし笑い止まぬまま、意味もなくスターの鼻先へ手を伸ばす。
「怒らせたままかもなぁって昨日からずっと思ってたから、怒ってないなら助かった。――でも、色々迷惑かけて、ごめん」
 ひゅるりと吹いた北風に、小さく肩を震わせる。しっかりとした生地の外套を羽織ったクラウスとは違い、室内からそのまま飛び出してきてしまったウィルが長居をするには、明け方の風は少し堪える。クラウスもウィルが震えるのを見て、その事に気づいたのだろう。ひょいとその場を立ち上がると、じっとウィルの顔を見て、「今日は随分、元気そうじゃないか」と呟いた。
 「えっ?」と短く問い返す。しかしクラウスからの応えはなく、彼はただ黙って、ポケットから数枚の厚紙を取り出した。
 列車のチケットのようだ。グノー行きとある。昨日聞いた、『四時の拠点』がある町へ向かう列車らしい。
「とりあえずは当初の目的通り、四時の拠点へ向かうことになった。グノーは比較的警官隊の力も弱いし、味方が多いからな。夜は蛇のことがあるから、自由にはしてやれないが、ここより多少は過ごしやすいはずだ」
 ちらりとチケットを裏返してみれば、今日の日付が刻印されている。こんな朝早くに、一体どこへ出かけた帰りなのだろうと思っていたのだが、どうやらこのチケットを買いに行っていたらしい。
 出発はいつになるのだろう。その事をウィルが問おうとすると、ふと、屋敷の方から声がした。
「セドナ様! こちらにいらっしゃいましたか」
 ローザだ。慌てて振り返ったウィルが、「おはようございます」と声をかければ、彼女も胸に手を当てて、同じように言葉を返す。そうして彼女は背筋を伸ばすと、にこりと笑んでこう言った。
「イレーネ・アーベラインさんが目を覚まされたようです。これから話を聴きに行くのですが、ご一緒にいかがかと思いまして」

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