廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

018:六時の拠点 -2-

 いやに大人びた話し方をするこの少年の瞳が、またきらきらと輝いて見える。「六時の拠点?」とウィルが聞き返せば、姿勢を正したローザが頷き、「このファーマティカでの活動の拠点を、そのように呼んでいます」とまず答えた。
「アライス・アル・ニール帝国の巡察使制度を模倣して、国内外に情報収集や物流のための十二の地方拠点を置いているんです。マナの性質上、帝国時代に『王家の滝』があったラヒサールを拠点の中心に据えた際、ファーマティカは南の方角にあるので、地図を時計の文字盤に見立てて『六時の拠点』と呼んでいるのですが……」
 流れるように言葉を紡いでいたローザが、しかしウィルを見てふと、言葉を切った。恐らくは、説明を聞くウィルの表情が険しくなってきたことに気づいたのだろう。
 巡察使。王家の滝。初めて聞く単語の数々に、ちっとも理解が追いつかない。
「道中クラウスからは、……どこまで聞いておいでです?」
 不安げな様子でそう尋ねる、ローザの琥珀色の瞳がじっと、ウィルの顔を見つめている。見透かすようなその視線には幾らかたじろいだが、しかしウィルは自分でもよくわからないまま、一度大きく頷いた。
 クラウスからはセドナやボハイラの蛇のことなど、多少の事情は聞いているが、そういえば現世で覚醒した他の人々の事や、彼らがどうしているのかといった話はほとんど聞かされていなかった。しかし素直にそう話して良いものなのか判断が付かず、ローザの視線を誘導するかのように、クラウスに視線を送ってみる。
 どうせ先程までと同じように、助けを得ることなど出来やしないだろう。半ば諦めながらの振りではあったのだが、意外なことにクラウスは、今度ばかりはウィルの目を見て――何やら尊大な態度で――頷き返すと、「最低限の事だけ伝えてある」とローザに言った。
「最低限、の内容を具体的に教えてもらえるかしら」
「最低限は、最低限だ」
 そうしてクラウスが、彼の言うところの最低限、ウィルがアビリオで聞いたのと同じ程度の説明をするのを聞き終えると、ローザとレオナルドが顔を見合わせ、苦笑する。
「本当に最低限ね。まあクラウスらしいといえば、らしいか……」
「言っとくが、お前の寄越した電報の『最低限』加減だって相当だからな。説明無しで『ファムにて待て』って」
「いいじゃない、ちゃんとファムで会えたんだから。私のは結果オーライでしょ?」
「それを言うなら、俺だって目的は果たしてる」
 「な?」と突然同意を求められ、ウィルは思わずびくりとした。クラウスが言う『目的』というのは、以前の言葉から察するに、『ウィルをボハイラの蛇から守る』事だろうか。あるいは、『ウィルをアビリオから連れ出す』事だろうか。どちらにせよ、確かに彼の『目的』は果たされているのだろう。ウィルがおずおずと頷くと、隣で話を聞いていたレオナルドはどちらの肩を持つ様子でもなく、曖昧な表情を浮かべてみせた。
「しかし、……それであれば、少し詳しいお話しをさせていただいた方が良さそうですね」
 彼の身長にはいささか高すぎるのであろう木の椅子から、レオナルドが爪先立ちになってひょいと立ち上がる。そうして側の棚から取り出したのは、ぐるりと巻いた大きな紙であった。ローザの手を借り、彼が腕を一杯に伸ばして机の上に広げたのは、エンデリスタ大公国とその周辺を記した広域地図だ。
「我々の他にも、現世に転生している仲間が多くいることは、クラウスからお話ししていましたね」
 ウィルが頷くと、レオナルドがにこりと笑う。
「転生し、現世にて覚醒――アライス・アル・ニール帝国での記憶を取り戻した仲間は、各々の方法で我々に合流し、いくつかの隊に分かれて『ボハイラの蛇』との戦いの準備を進めて参りました。転生されたセドナ様をお捜しする隊、ボハイラの蛇の動向を探る隊、活動資金及び武器や馬車などの物資を整える隊、アライス・アル・ニール帝国の遺構を捜索する隊――。他に医療隊などもありますが、大きな隊はこの四隊です。
 大抵の場合、どの隊もエンデリスタ大公国の国内外を問わぬ情報が必要となり、移動も頻繁に行う必要があるため、その活動を補佐し、各地の情報を速やかに伝達するために、十三の拠点を設けました。このうちの一つ、本拠地となる『ラヒサールの砦』を中心に十二の地方拠点があり、ラヒサールから見て六時の方角にある、このファーマティカの拠点を『六時の拠点』と呼んでいるんです。とはいえこの拠点は、商会の一部を用いているだけの、比較的小さな拠点なのですが」
 大きな地図に向かって、腕を伸ばして指さししながら説明し、「ここまでは、よろしいですか?」とレオナルドがウィルに問う。説明されたばかりの事柄を脳裏で反芻しながら、ウィルがやっとのことで頷くと、彼は嬉しそうににこにこと笑ってみせた。
――王に仕え、王を守り、ボハイラの蛇と戦うため。その為だけに転生した人間が、俺の他にも大勢いる。
 確かにそうは聞いていたが、ウィルが想像した以上に大きな組織が、既にできあがっているようだ。そんな事を考えてから、ふと、アビリオで前世の名をザラフトと名乗った、ブルーノ・アッヘンヴァルという老紳士を思い出す。ウィルとクラウスの出立の際、彼は何故アビリオの街に残るのだろうと少し不思議に思っていたのだが、今の説明から想像するに、彼はアビリオの街か、あるいはその周辺にある、別の『拠点』に戻っていったのだろうか。
 「通常、最も多くの転生者が集い、幹部が集まる最大の拠点は、グノーにある『四時の拠点』だ」と続けたのはクラウスだ。「だから俺達も、ファーマティカを経由してグノーに向かう予定だったんだが、……まあ、幹部たるそこのオフタリが、お前に会うのを待ちきれずに、先走ったらしくてな」
 言われたローザが気まずそうに視線を逸らし、レオナルドが困った様子でまた笑う。グノーといえば、確か内海に面した港があることで有名な町だ。「ばらさないでよ」と呟くように文句を言い、クラウスを睨むローザも、その町からやってきたということだろうか。
 交通の便も良く、人口も多いファーマティカやグノーの町に『拠点』とやらを置いているのは、ウィルにも何となくだが納得がいった。だが先の話に出てきた、『本拠地』であるラヒサールという地名は、今までに聞いたこともない。気にするようなことではないのかもしれないと思いながらも、ウィルがその事を問うてみれば、今度はローザが説明した。
「ラヒサールは、帝国時代から変わらぬ大きな滝のある地域なんです。以前は『王家の滝』と呼ばれていたこの地域一体は、我々のマナの力を強め、ボハイラの蛇の干渉を押さえることができる場所だとされています。
 現代の交通網からは少し外れた所にあるので、環境を整えるのに時間がかかってしまっているのですが、セドナ様をお守りし、ボハイラの蛇と戦うためには最も適した地域です。いずれは各拠点に散らばっている仲間も含め、このラヒサールの砦へ集結するのがいいかと考えています」
 ローザが指さした地図の辺りは、エンデリスタ大公国の首都よりやや北に位置する山間部である。王家の滝。それがどんなものであるのか、ウィルには想像も付かなかったが、しかし彼は溜息であると悟られぬよう静かに息を吐き出して、膝の上に置いた両手に、きゅっといささか力を込めた。
 『ボハイラの蛇と戦うため』、『戦いの準備のため』。当然のように彼らが発したその言葉が、冷たい石のおもりのように、ウィルの心にずしりずしりと降り積もる。
――帝王を失った帝国は、たちまち『蛇』に食いつぶされていったが、――帝王が最期まで守り抜いた封印だけは、なんとしてでも、奴らに明け渡すわけにはいかなかった。封印はそれを受け継いだ王の魂に宿る。だから遺された帝国の人間達は、封印を王の魂に宿したまま、来世へと逃がすことにしたんだ。
 クラウスから以前聞いたいくつかの言葉が、今更ながら染みこむように、ウィルの脳裏で色を成す。
――そうして自分たちの身にも、王へ施したものと同じ転生の術をかけた。きたる来世でも王に仕え、封印を解くため再び王の身辺を脅かすであろう、『ボハイラの蛇』と戦うために。
「セドナ様?」
 ローザに声をかけられて、思わず肩を震わせる。その反応に驚いたのだろう、きょとんとした様子のローザを見ると、ウィルは慌てて自らの頬に、乾いた笑みを貼り付けた。心の中にもやもやとかかる、暗い霞を振り払う。しかし咄嗟に言葉が浮かばず、黙ってしまったウィルを見かねたのだろう。「今日は随分とお疲れでしょう」と、レオナルドが変わらぬ穏やかな声でそう告げた。
「急ぐ話ではありません。続きは、また明日にいたしましょう」
 彼の一言で、その場は解散することになった。そうして例の豪奢な部屋へと案内され、用意された夕食を流し込むように一人で食べ終えた後、ウィルは不相応に広い部屋にぽつんと取り残されて、眠れぬ長い夜を過ごすことになったのである。
 
 寝ぼけた頭を掻きながら、絨毯の敷かれた長い廊下を、独りとぼとぼと歩いていく。
 口に手を当て、大欠伸。細めていた目を開けば、窓がない方の壁には点々と大きな絵画が飾られ、天井近くには壁自体に、まるで頭上にも窓があるかの如く縁取られた空の絵が描かれている。黙ってそれらを見回して、それからウィルは、ふう、と短く溜息を吐いた。夜明けとともに目が覚めてしまったものだから、屋敷の中はまだ静まりかえっており、この廊下にも、ウィルの他には人の気配を感じない。
「八時になりましたら、お部屋まで食事と湯を運ばせます。他にも何か必要な物があれば、いつでもお申し付け下さい」
 にこりと笑んでウィルに伝えた、ローザの言葉を思い出す。恐らくは、ウィルがゆっくり休めるようにとその時間を指定してくれたのだろうが、時計を見れば、まだ二時間近く時があった。それなら少し、朝食の時間まで一人でそぞろ歩きするのもいいだろう。そう思って部屋を出てきたのだ。この屋敷には前世の事情を知る者と、商会の人間以外は立ち入らないと聞いているから、少しくらい出歩いたところで問題はないはずだ。
 北風の吹く窓の外を眺めながら、長い廊下を歩いて行く。やがてシャンデリアの吊された、吹き抜けのある階段に出た。広々とした踊り場には、ウィルが入ってしまえそうな大きさの瓶が飾られており、ぴかぴかに磨かれたその表面を覗き込めば、剽軽に歪んだウィルの顔が映り込んでいる。
(この瓶は、何に使うものなんだろう。飾ってあるだけなのかな……)
 心の中で呟いて、理由もわからぬまま、また小さく溜息を吐く。しかしそうしてからウィルは、思わずびくりと肩を震わせた。下の階から、見知らぬ人影が階段を上がってきていることに気づいたのだ。
 咄嗟に振り返ったウィルがぎこちなく微笑めば、相手はさっと脇へ避け、深々と、ウィルへ向かって頭を下げる。この屋敷に仕えているメイドだろう。彼女が例の火傷痕を持つ人間であるのかどうか、ウィルにはわからなかったが、とにかくウィルに敬意を払うようにと言いつかっているらしい彼らは、こうしてウィルの姿を見るなり、悉くこうべを垂れてしまうのだ。
「お、……おはようございます」
 ウィルが言えばこのメイドも、同じように言葉を返す。しかし顔を上げようとはしないのを見て、ウィルはすっかり着たきりになっている麻のシャツの袖を握りしめると、そそくさと、彼女の前を通り過ぎる。
 こんなことなら、どんなに似合わないとはいえ、クラウスの言うとおりにスーツの一つでも仕立てて貰うべきであった。金色に縁取られた手摺りに沿って階段を下りながら、今更ながら後悔した。
――お前がどう思おうが、お前が帝王セドナの転生先である事実は変わらない。
 そう断言してウィルをアビリオから連れ出した、クラウスの言葉を思い出す。
――こうして再びお目通りが叶ったこと、無上の喜びにございます。どうか現世でも、お側にお仕えすることをお許しください。
――ご到着の時を、今か今かとお待ちしておりました。
――存じ上げなかった事とはいえ、あの路地裏で助けていただいてよりこれまで、多大なるご無礼をいたしました。どのような罰もお受けします。ですがどうか、……どうか現世でも、御身にお仕えすることをお許し下さい、――セドナ様。
 こんなに眩しい世界の中に、ウィルの居場所が見つからない。
(当たり前だ。これは俺の為じゃなく、……セドナの為に、用意された場所なんだから)
 ちくちくと胸が痛むのを、覆い隠すように息をした。ふと顔を上げれば、階下の廊下に設けられた、広い窓から朝方の陽が射している。やはり部屋へ戻ろうか。戻って朝食の時間まで、じっと待っていた方が良いのではないだろうか。逡巡したウィルは、しかしふと覗いた窓の向こうに見たその影に、思わず目を瞬いた。
 咄嗟に窓へ寄り、もう一度外を覗き込む。屋敷の前には美しく刈り込まれた植木の生える庭があり、その脇――馬車の出入りする表門から少し離れた横門近くに、うろうろと歩いてはまた戻り、金色の尾を振る姿が一つある。
 そのふわふわとした尾に、見覚えがあった。
「……、スター」
 呟く。そうして次の瞬間には、ウィルはくるりと踵を返し、階段を駆け下りていた。

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