廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

017:六時の拠点 -1-

「冬場だけ、どうしてもって言われたから仕方なく預かったんだけどね。ほら、うちの奉公人は、他には娘ばかりだろう? 男の子が一人紛れていることで、後々面倒が起こると困るんだよ」
「まあ、そりゃあそうかもしれないが……。生憎、うちも人手には困ってなくてね。文字も読めない、親元もよくわからんっていうんじゃ、ちょっとな。どうにか他所をあたれないか?」
 冬の寒さの多分に残る、春先のことだ。大人達が薄い扉の向こう側で話すのを聞きながら、まだ子供の頃のウィルは、玄関口の階段へしょんぼりと座り、かじかんだ両手をせめてゆるゆると握りしめていた。ああ、今度もどうやら駄目だったらしい。そんな思いが心に落ちれば、どうしようもない情けなさばかりが、ぽつりぽつりとウィルの脳裏を占めていく。
 故郷を出て、小さな鍛冶屋へ奉公した。慣れない仕事に始めは戸惑ったが、それでもウィルは懸命に、周囲を真似て仕事を覚えようと努力したつもりであった。朝は誰より早く起き、炉に灯る火の具合を見て、鍛冶職人達の使う道具を調えた。筋骨隆々とした男達の多い環境の中、ひょろひょろとした小柄なウィルは邪険に扱われることも多かったが、それでも、どうにかして認めて貰わなくてはと必死であった。
 ここで見限られては、また、ウィルを必要としないあの家に戻ることになる。ただでさえ、あんなに厄介者扱いをされていたのだ。もし実家へ戻るようなことになれば、さぞかし冷たい目で見られるのに違いない――。しかしそんなウィルの思いを踏みにじるように、鍛冶屋はこの冬を迎える直前に、炉の火を落とすことになった。既にそれなりの技術を身につけていた、先輩の奉公人達は次々に他の鍛冶屋へと引き抜かれていったが、ようやく下働きの仕事を覚えたばかりのウィルに、そんな話があるわけもない。
「仕事ぶりは真面目なんだろう? 洗濯屋にも、一人くらい男手があった方が便利なんじゃないのかい」
「うちで、この先も面倒を見ろってことかい? ううん、でもねえ」
 次の奉公先が見つかるまで、冬の間だけ、という条件で、洗濯屋の手伝いをすることになった。冬の井戸水は冷たく、他の奉公人である少女達に、男のくせに洗濯屋なんて、と面白半分でからかわれることも多かったが、それでも仕事に手は抜かなかった。ここで懸命に働けば、その事を認めてさえもらえれば、――居場所をもらえるかも知れないと、淡い期待を抱いたからだ。
 扉が開く。洗濯屋の女将が、困ったように頬を掻くのが見て取れた。やはり、交渉はうまくいかなかったらしい。扉の奥に構えた男と目があったが、その男が気まずそうに視線を逸らしたのを見て、ウィルも思わず俯いた。
「行くよ、ウィル。次はパン屋へ行ってみよう。……ほら、そんな情けない顔をするのはおやめ。大丈夫、ちゃんとあんたが生活していけそうな所を見つけてやるからさ」
 世話焼きのこの女将は、真面目に仕事をしてさえいれば、ウィルにも優しくしてくれた。それでも、このまま居着いていいと言ってはくれない。
(洗濯屋に、おれがいたら、だめですか?)
 心の中で、そう問うた。けれど口に出すことなどできやしない。聞けばこの優しい女将は、きっと困ってしまうのだろう。
「いいかい、まずはしっかりと挨拶をするんだよ。あんたはちょっと人見知りだけど、真面目だし、働き者だって事を相手にわかってもらわないと」
 出会ったばかりの人と話しをするのは、正直苦手だ。品定めするかのような相手の目を見れば、胸が音を立てて縮こまってしまうし、その上、「お前には何が出来るんだ?」などと聞かれると、ウィルの心は緊張に凍りつき、言葉を作ることをすぐに放棄してしまう。
(でも、……ちゃんと仕事を、みつけなくちゃ、……)
 仕事を見つけ、生きる場所を見つけ、そうしてそこで頑張っていれば、いつか誰かが、ウィルに居場所をくれるかもしれない。
 ここにいてもいいよ、と、――許しをくれるかもしれない。
(いつか、……誰かが、)
 ぽろぽろと零れてきた涙を、ウィルは慌てて袖で拭った。先を歩く女将が振り返る前に、どうにかして、涙を止めてしまわなくては。役立たずな上に、泣き虫だなんて思われてはいけないのだから。
 誰かに必要とされるような自分にならなくては、居場所など、いつまで経っても見つかりっこないのだから。
 けれどそう思えば思うほど、ウィルの両目からはぽろぽろと、大粒の涙が零れていった。
 
 * * *
 
 カーテンの隙間から、薄明かりが漏れている。見知らぬ天井を見上げる背には、なにやら馴染まぬ柔らかな感触があった。ここは一体、どこであったろう。そんな事を考え、ぼんやりと体を起こしてみれば、ぽろりと、両目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
(勘弁してくれよ。この歳になって、夢を見たせいでぼろ泣きなんて、……)
 誰が見ているわけでもないのに、羞恥に頬が紅潮する。しかし乱暴にシャツの袖口で目許を拭い、たった今まで自身が横になっていたソファと、くるまっていた薄い膝掛けとを見ると、ウィルはまた人知れず、大きく深い溜息を吐いた。
 イレーネと共にファーマティカの町を駆け回り、ようやく警官達の追っ手を撒いた、翌朝のことである。
 巧緻な模様の絨毯が敷かれた、広い部屋に独りで居る。この屋敷の最上階である、五階に設けられた客室だ。少し離れたところには、天蓋付きのベッドが置かれ、ウィルの眠っていたソファ以外にも、たっぷり三人は座れる大きなソファがもう一つある。傍らに置かれたクローゼットには金の彫り物が施され、サイドテーブルにはセンス良く、大柄な花が生けられていた。
 ウィルのためにと用意されていたらしいその部屋は、しかしウィル当人には、あまりに煌びやかな、分不相応な場所であるとしか思われない。
(ベッド、少しは使った形跡を残しておかないと、訝しまれるかな……)
 本の挿絵にすら見たことのないような、細かな刺繍の施されたベッドカバーをめくることができず、昨晩は結局、そわそわと落ち着かないままソファの上で眠ってしまったのだ。それですらあまりに柔らかな感触にいつまでも慣れることが出来ず、夜中に何度も寝て起きてを繰り返して、ようやく迎えた朝である。そんな具合であったから、やけに懐かしい夢を見てしまった事も、妙に納得してしまう。
――ウィルさん、……いえ、あなたは。
 恐る恐る問うように、しかし何某かの期待に縋るように囁いたイレーネの言葉が、ウィルの脳裏から離れない。
――存じ上げなかった事とはいえ、あの路地裏で助けていただいてよりこれまで、多大なるご無礼をいたしました。どのような罰もお受けします。ですがどうか、……どうか現世でも、御身にお仕えすることをお許し下さい、――セドナ様。
 カーテンを開き、窓の外を覗き込む。するとあれ程駆けずり回ったファーマティカの町が一望でき、そこに吹いた一陣の風と共に、軽やかに紅葉が舞うところであった。そうしてぼんやりと町の様子を眺めていると、自然と、昨日のことがウィルの脳裏に蘇る。
 
 ローザ・ハリオットと名乗った女性に促されるまま、馬車を降りたウィル達が通されたのは、学術都市ファーマティカの中央よりやや東に位置する、ハリオット商会ファーマティカ支部の屋敷であった。
 ハリオット商会と言えば、アビリオでも紙面にその名を見ない日はなかった程の、エンデリスタ大公国内で五指に入る大商会の一つである。遙か東の香辛料から、紅茶、食料品、武器の類までを扱うこの会社の事は、ウィルも度々記事に組んでいた。だが、まさか敏腕副社長と噂されるローザ・ハリオットその人が『アライス・アル・ニール帝国からの転生者』であるなどとは、思ってもみないことである。
「父が、――現世での父親が元々古物商でしたので、商いを習って商材を拡充させたんです。セドナ様をお迎えするための準備は勿論、現世で仲間を募り、活動をするにあたって必要な資金や拠点を確保するために、まずは国内外の物流をおさえるべきかと思いましたので」
 一つの商会をこれ程急成長させることなど、商いを習ったからといって誰にでも行えるようなものではないのは当然であるが、あっさりとそう説明をしたローザには、その事を鼻にかける様子など少しもない。
 元が父親の会社であるとはいえ、そもそもが、女性の身で企業の役員層に席を持つなどこの国では滅多に例の無いことだ。それでも彼女がその席を与えられているのは、他の追随を許さぬ洞察力と行動力で商会の成長に貢献し、この人事に異論を唱える者が現れ得ないためだと記事で読んだことがあったが、実際にこうして快活に話す姿を見ていると、やり手の経営者であるというのも確かに頷けた。
 ウィルがそんな事を考えている間にも、ローザは彼女を出迎えたメイド達にイレーネの世話を任せ、馬車に乗っていた他の積み荷に関する指示を出すと、「さあ、こちらへ」と朗らかに笑んでウィルに言う。こうして笑っている表情だけを見ると、その姿はやはり、ウィルとそれ程歳の変わらない、一人の女性にも見えるのだが――。
 そんな彼女に案内をされ、通されたのは屋敷の一階にある応接間であった。濃い色の木材で造られた飾り気のない、しかし何やら高級感のある机と椅子を中心に据えた、落ち着きのある部屋である。壁際にはアンティーク調の鎧が飾られ、黒と灰色の大きなタイルを互い違いにはめ込んだ床にはぼんやりと、窓から射し込む赤い夕焼けが照り輝いている。
 勧められた椅子へ恐縮しながらウィルが腰掛ければ、ローザとレオナルドもそれに続いた。クラウスだけは扉の方を向いて、今にも部屋を出て行ってしまいそうに思われたが、しかしちらりとウィルに目配せしたのを見て、ウィルは訳もわからないまま、慌てて小さく頷いた。クラウスのその視線が、ウィルには、「居てやった方が良いか」と問うたように感じられたのだ。アビリオからのこの同行者に関しては、今でもわからないことだらけだが、彼が居るのと居ないのとでは、心許なさが幾分異なるように思う。
 緊張に背筋を伸ばしたウィルの目の前で、メイド達が花柄のカップに熱い紅茶を注いでいる。そうして四人それぞれの前に、暖かな湯気の立ち上るカップが用意されたのを見ると、レオナルドがまた、にこりと笑んでこう言った。
「では改めて。……『六時の拠点』へようこそ、ウィル様。一同、ウィル様のお越しを心よりお待ちしておりました」

Tora & Thor All Rights Reserved.