廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

016:『再会』

 ぜえぜえと肩で息をするイレーネの隣に座り込み、しかしすぐに馬車の荷台から上半身を覗かせると、遅れて駆けてきた『カランドル』の腕をとって引き上げる。ウィルがそうする一方で、クラウスが馬車の幌を下ろせば、薄暗い荷台は完全に外から隔離された。
 「お手を煩わせてしまって、すみません……」顔を真っ赤にして息を整えながら、ウィルのすぐ隣に座り込んだ『カランドル』が、申し訳なさそうにそう話す。しかしその声を途切らせて、ウィルは咄嗟に、この少年の口元を両手でしっかと塞いでしまった。
 外でなにやら音がする。声は立てないように、と伝えるつもりで、ウィルが「しいっ」とだけ言えば、この少年は驚いたように目を丸くしてみせてから、無言のままで頷いた。
 がちゃがちゃと、擦れ合うような金属音。そのまま耳をそばだてていると、外から複数の声がした。
「第二隊は私に続け。補助隊は急ぎ伝令へ。他の者は西を調べろ」
 指示に応える警官隊の人々の声。早くも、ウィル達のことを追ってきたのだ。先程の金属音は、恐らく彼らが肩にかけた銃が、肩章に擦れる音であろう。
 一方で、御者台の方からは軽い鞭の音がする。馬車を出して、この場から逃れようということだろうか。ウィル達を乗せた幌馬車はゆっくりといくらか歩みを進め、しかしすぐに呼び止められて、結局、その場へ停まってしまった。
「そこの馬車、止まれ! 指名手配犯が、この辺りに逃げ込んだ可能性がある。商業者か? 持ち主の名を名乗れ」
 警官達のがなる声。ウィルは思わずびくりとしたが、口を塞いだままでいた、『カランドル』に肩を叩かれ顔を上げる。見ればクラウスが、無言で指示を出していた。
 どうやら、馬車の奥へ詰めろということらしい。頷き、イレーネを促して、荷を避けながら奥へと這ってゆけば、他の二人もついてきた。
 御者台に近いところへ、ぎゅと身を寄せ合った。同時に馬車の外からは、落ち着き払った声がする。
「あら。……血相を変えて、一体どうされたんです。何か事件でも?」
 可笑しげに、しかし凛とした口調でそう話したのは、先程ウィル達を馬車の中へと招いた女性の声であった。御者台に腰掛けていた彼女が、恐らく地面に降りたのだろう。かつん、と、固い足音が路面に響く。
「これは、ハリオット商会の」
 兵士の零した言葉の直後、かつん、と今度は複数の足音が、揃って路面に響き渡る。まるで敬礼でもするかのような足音だが、一体外で、何が起こっているのだろう。そう考えながらウィルは、一方でクラウスが立ち上がり、幌馬車の中、天井に結わえてある紐を解いているのを見て、わけがわからず眉をひそめた。
 馬車の中に、何か分厚いカーテンのようなものがかけられている。クラウスはどうやら、紐を解いてそれを広げようとしているらしい。
「――指名手配犯? まさか、今し方駆けていったのがそうなのかしら。……ええ、そうです。足の速い少年と、他にも何人か一緒でした。私としたことが、そうと知っていればお力になれたのに」
 飄々と続ける女性の声。ウィル達を匿っている雰囲気など、ちっとも匂わせない闊達なその対応に、ウィルは内心舌を巻いた。先程ちらと見た限りでは、ウィルより少し年上の、まだ年若い女性と見えたのだが、その凛とした声には人を従わせる、何某かの迫力がある。
「この馬車の中ですか? ふふ、私が指名手配犯を匿うとでもお思いですか。私どもの商会が、そちらの隊長殿と懇意にさせていただいていることは、あなた方もよくご存じでしょうに」
 朗らかな笑い声が響けば、それに対峙する警官達も、なにやら納得をした様子である。彼らの関係はよくわからないが、どうやら、警官達も先程の女性に対して強く出られない理由でもあるのだろう。
(もしかしてこのまま、上手く逃げ切れる……かな?)
 過ぎった期待に、思わず胸をなで下ろす。しかしその安堵を共有しようと、イレーネの座る方へと視線を向けて、ウィルは小さく息を呑んだ。
 見れば、足を抱くように座り込み、自らのスカートへ顔を埋めていたイレーネの額に、大量の汗が浮かんでいる。息が整わない様子でいるのは、てっきり、ここまで駆けてきたためかと思っていたのだが、それにしては様子が妙だ。
 音を殺して、そっと彼女の額へ手をやった。やはり何やら、熱っぽい。だが助けを求めるように、ウィルがクラウスを振り返った、その瞬間。
「しかし我々も、上への報告の義務がありますので。幌の中を確認させていただいても?」
 恐縮した様子の警官隊の言葉に、また小さく肩を震わせる。しかし、――
 「ええ、どうぞ。構いませんよ」何食わぬ態度の女性の声が聞こえてきたのと、クラウスが例の紐を解き終え、厚いカーテンが馬車の内部を二分したのとは、ほぼ同時の事である。
 警官が幌の入り口を持ち上げて、荷台を覗き込む音がする。対してクラウスが下ろした布はウィルの目と鼻の先でぴんと張り、警官達の視界から四人の乗客の姿を隠していた。だがしかし、布一枚を隔てているだけの事には違いない。
 幌馬車の中に布など吊されていては、かえって怪しまれるのではあるまいか――。警官達がこの布をはぎ取ってしまえば、それだけで、ウィル達の姿は丸見えだ。
 息を止め、ただ聞こえてくる音だけに集中する。警官達が、外から幌馬車の中を覗き込む音。何やら短く話し合うような声が聞こえたが、しかし乗り込んでくる気配はない。
「ここにはいないようです。先へ進みましょう」
 聞こえてきたその声に、今度こそ安堵の溜息を吐きそうになり、しかしウィルはすんでの所で、それをどうにか押さえ込む。「お勤めご苦労様です」と穏やかに応対する女性の声の後、幌の閉ざされる音がした。
 警官達の立ち去る足音と、馬車の再び動き出す音。それが少しずつ離れてゆき、次第に警官達の足音も、捜索の号令をかける声も聞こえないほどになったのを確認すると、ウィルは細く、長く、今度こそ存分に溜息を吐いた。
「絶対、……絶対、見つかると思った」
 吐き出すように呟けば、隣に座った『カランドル』が、口元に手を当てくすくすと笑う。「この辺りは、すっかりハリオット商会の勢力下ですからね。警官達も、彼女の言うことを強く否定は出来ないんですよ」
 彼女というのは、御者台にいた例の女性のことだろうか。そう問い返そうとして、しかしウィルは、クラウスが先程のカーテンを持ち上げたのを見て目を瞠った。見れば布の片面――警官達が見ていた側に、なにやら絵が描いてあったのだ。
 詰まれた木箱やかごの、まるで馬車の内部を切り取ったかのような巧妙な絵が、布一面に描かれている。つまり警官達は、馬車の奥に吊されたこの絵を本物と錯覚して、『馬車には誰も乗っていない』と判断したということだろうか。それを雑に片付け、荷台に積まれた本物の木箱へ悠々と腰掛けるクラウスは、「薄暗い馬車の中でなら、ちゃちな仕掛けも案外役立つな」と何やら満足げだ。
 カタカタと鳴る車輪の音が、馬車の内部に響いている。隣に蹲るイレーネへそっと視線を移してみれば、それに気づいたのだろう、彼女も薄く顔を上げた。だがその額には相変わらず汗が浮き、元々色白のその顔は、血の気を失い青ざめている。
「一度に覚醒をしたことで、体に負担がかかったのでしょう。一過性のものですから、二日、三日経てばよくなりますよ。ただ、どこか落ち着ける場所で、しばらく休まれた方が良いでしょうね」
 気遣わしげにそう話したのは『カランドル』だ。覚醒、とウィルが呟けば、この少年はにこりと微笑み、ただ穏やかに頷いてみせる。
 車を引く馬の蹄の音が、徐々に速度を落としていく。鉄の門の開く音。それを通り過ぎてしばらくすると、馬車が完全に動きを止めた。どこか、目的地に到着したのだろうか。そんな事を考える側から、馬車の外に機敏な軽い足音が響く。
 かつかつと、石畳を踏みしめる足音は一度馬車の側を通り過ぎ、間もなくこちらへ戻ってきた。そうして幌馬車の中へ現れたのは、ウィルがそうであろうと推察した通り、先程ウィル達を馬車の中へと招き入れた、あの女性である。
 膝丈のブーツを履いた彼女の動きは颯爽として、ぴしりと背筋が伸びている。琥珀色の大きな目は、ウィルを見るなりきらりと明るく輝いた。
「ご到着の時を、今か今かとお待ちしておりました。――セドナ様」
 満面の笑みでそう話し、この荷台の内で彼女がひらと跪くのを見て、ウィルはごくりと唾を飲む。
 赤みがかった長い金髪が、片膝を突いた彼女の背中へ、一瞬遅れてふわりと落ちた。耳元につけた、不思議な形の飾りが鈍色の光を湛えている。彼女の立ち居を見ていると、ウィルにはまるで、今いるここが薄暗い幌馬車の中などではなく、どこか意匠の凝らされた、貴人の部屋かのように思われた。
「現世での名を、ローザ・ハリオットと申します。前世においてはアグイル家のエイルと名乗り、帝国騎士隊総指揮の任を賜っておりました。こうして再びお目通りが叶ったこと、無上の喜びにございます。どうか現世でも、お側にお仕えすることをお許しください」
 深々と頭を垂れるこの女性を前に、ウィルは咄嗟にクラウスを仰ぎ見て、また内心臍を噛んだ。箱に腰掛け、退屈そうに足を組んだこの男は、助けを求めるウィルの視線に気づくどころか、目を合わせようとすらしないのである。しかしそうしているうちに、微笑みながら様子を窺っていた例の少年までもが軽く頭を垂れ、恭しげにこう話す。
「先程はご無礼をいたしました。申し遅れましたが、私は現世の名をレオナルド・バッハマンと申します。セドナ様の御世においては、カランドル・セーデキムの名で神官職に就いておりました」
 言われてみれば確かに、クラウスはこの少年のことをレオナルドと呼んでいた。虫をも殺さぬような顔をして、案外猛々しい名をしているものだ。どう返答をするべきなのかわからず、ウィルが混乱する頭ですっかり見当違いな事を考えていると、一方でレオナルドはふとローザへ顔を向け、「よく、私達の居場所がわかりましたね」と声をかける。
「この街は、うちの商会の庭のようなものですから。オスカーやレナも見張りに立てていましたし」
「それにしては、当人達の姿は見えないようですが」
「ああ、そうなんです。何やら準備に時間がかかっているようだったので、商工会議所に置いてきてしまいました。ただ、先に商会に戻っているよう言伝は残しましたから、すぐにでも追いついて来ると思いますよ」
 さらりと話した彼女は、何やら薄情なことを口にしながら、悪びれた様子は少しもない。
 望み薄ながらもう一度、ウィルはちらりと、クラウスへ視線で助けを求めた。だがやはり、この同行人は我関せずといった様子で、ウィルとは目を合わせない。その一方で隣へ蹲ったイレーネが、小さく肩を震わせるのを見て、ウィルは口元をきゅっと結んだ。
 もしかすると、また熱が上がったのかもしれない。一過性のものだとレオナルドは言っていたが、それでも、当人はきっと辛かろう。
「あの、」
 恐る恐る声を挟み込み、「助けていただいて、ありがとうございました」と続ければ、ローザとレオナルド二人の視線が、同時にウィルの方を向く。彼らの視線の内に灯る、何かがウィルの、胸を灼く。
――王に仕え、王を守り、ボハイラの蛇と戦うため。その為だけに転生した人間が、俺の他にも大勢いる。
「その、俺、ウィル・ドイルホーンといいます。俺は、か、『覚醒』というのをしていないそうで、……前世のことは少しも、覚えていないんですけど、……」
 ごくりと生唾を呑み込んで、それから消え入りそうに小さくなってしまった声で、「どうか、よろしくお願いします」とそう言った。
 我ながら間抜けなその挨拶に、ウィルの心が萎縮していく。嬉しげに笑み、また深々と頭を垂れるローザ、レオナルドの二人を見ると、きしきしと、胸が音を立てて萎れていくかのようであった。
 ぎゅっと拳を握りしめ、すぐ隣に蹲る、イレーネへちらと視線を移す。
「あの、どこか休めるところはないでしょうか。イレーネさん、熱があるみたいで、とても辛そうなので、……できたら、横になれるところがあると良いんですけど」
 恐る恐るそう言えば、ローザがさっと立ち上がり、「すぐにご用意します」と微笑んだ。確か先程、前世では騎士だったと聞いた気がするが、確かにそのすらりとした立ち居は騎士然とした凛々しいものだ。
「ここは既に味方の陣営の中ですから、警官隊も追ってきません。詳しい話は、建物の中でいたしましょう。馬車の中では狭いですから」
 つられて居住まいを正したウィルが頷けば、ローザが幌を持ち上げて、「どうぞこちらへ」と促した。
 何はともあれ、安全な場所まで辿り着いたのならば、まずは、きっと良かったのだ。しかしもう一度安堵の溜息を吐き、蹲るイレーネに手を差し出して、ウィルは思わず首を傾げた。差し出されたウィルの手をじっと見たイレーネが、ゆるゆると首を横に振ったからだ。
「私などのために、これ以上、お手を煩わせるわけには、……」
 熱に浮かされ、喘ぎながら言う声が、――しかしすとんと、ウィルの胸の内に落ちる。
 イレーネの声は、震えていた。
「存じ上げなかった事とはいえ、あの路地裏で助けていただいてよりこれまで、多大なるご無礼をいたしました。どのような罰もお受けします。ですがどうか、……どうか現世でも、御身にお仕えすることをお許し下さい、――セドナ様」

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