廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

015:さざめく水面 -2-

(覚えている。……思い出したわ。これは『あの時』の記憶。不吉な流星の夜のこと。駆けつけた『私』にセドナ様は、星の動きはただ自然のあり方に過ぎないのだと、心配することはないのだと、そう仰ったけど……)
 無人の廊下をひた走れば、その内に王の居室へと続く、階段の扉が見えてきた。こんな所へまで王の許可無く入り込むことなど、常であれば許されぬ事だ。だが今の彼女には、それすら些細なことと思われた。そもそもが、これが『本物の王の居城であったなら』、一人の兵もおらず、全ての扉が彼女の思うように開くことなどあるはずはないのだ。
 本当の『あの時』は、騒動を聞きつけた王自らが姿を現し、急の会議を招集した。だが、今は。
(流星の夜の三日後に、セドナ様は会議の後、謁見塔の廊下で急に意識を失われた。三日三晩熱に浮かされ、マナの力をなくされて……。そうして身体の自由の利かないまま、それきり目覚めることもなく)
 扉を開けば開くほど、彼女には自らの置かれた境遇が、確かな輪郭を象っていくように思われた。ふつふつと、記憶がその身に宿っていく。念願叶って初めてこの宮殿へ足を踏み入れた時のこと。懸命に学び地位を得て、唯一の主にと定めた帝王と、遂に再会をした日のこと。しかしその全ては、流星の夜の暗い記憶に縁取られている。
(流星のわずか七日後に、私達は仕えるべき主を喪った……。ああ、そうだわ。これは私が、私の前世が、アライス・アル・ニール帝国に生きていた頃の記憶。セドナ様が崩御される、七日前のあの日の記憶――!)
 王の居室へと続く、最後の扉を開け放つ。緻密な絨毯の敷かれたその部屋はしんと静まりかえり、しかしバルコニーへと放たれた大きな窓が、移ろう夜の瞬きを呼び込んでいる。そこに一人立つその影に、彼女ははっと顔を上げた。すっかり息が上がっていたが、少しも気にはならなかった。
「来たのか、ソロン」
 耳に馴染みのある『男』の名を呼ぶ堅い声に、彼女がごくりと息を呑む。するとバルコニーに佇んでいた人物は静かに彼女を振り返り、手を差し伸べて口を開いた。
 その表情は影に伏されて、やはり彼女にはわからない。
 
 * * *
 
 長く探したその声が、彼女の耳に囁いた。
「さあ、――誓いを果たしておくれ」
 
 * * *
 
 耳の奥に、水の流れる音を聞く。だが今になって聞くその音は、最早彼女になんの違和感ももたらさない。持って生まれたこの音は、彼女の身体に染みついていた。
「誓いを、」
 ぽつりと小さく、呟いた。たったそれだけの言葉が、不意に胸を満たしていく。
 ああ、何故今まで忘れていたのだろう。何故忘れたままでいられたのだろう。
(そうよ。だから私、あの声を探していたのだわ。ただ誓いを果たすために。王の亡骸の前で宣誓した……あの誓いを、果たすために)
 肌に冷たい北風が、ひゅるりと巻いて駆けていく。わけもわからぬまま、堅い石畳の上へくずおれていた彼女は、しかし目の前に立つ少年の背後に気づいて息を呑んだ。
 銃口が向けられている。それなのに手を差し伸べるこの少年は、その存在に気づいていない。
「――ウィル様!」
 どこからか、高く叫ぶ子供の声。同時に空気を貫く銃声が、彼女の耳元を掠めていく。
 いけない。背筋を走る警告の声に、咄嗟にその身に力を込める。そうして自らの体重をかけ、力一杯に目の前の少年の腕をひくと、それを庇うように立ち上がる。
「イレーネさん、……!」
 程なく周囲へ視線を配れば、道の脇に置かれた水瓶が目に入る。軽く手を引き、『その感触』を確かめると――、イレーネは、煙る銃口を睨み付けた。
 耳の裏をなぞる水音は、心得たとばかりに高揚する。
 
 * * *
 
 目の前の光景を、ウィルはその場に座り込んだまま、肝を潰して見守った。
 二発目の銃声が場に響いた、その一瞬後のことだ。ウィルを庇うように立ったイレーネが、手招くように右手を動かしたのと同時に、何かがきらりと煌めいた。
 それがなんの光であるのか、ウィルには勿論わからない。だがそっと身を乗り出し、彼女の前に立ちはだかるその透明な壁を目にすると、――ウィルはまた、訳もわからず嘆息する。
 この女性の前に揺らめくその壁は、まるで湖畔の水面のように陽の光を受け、誇らしげに照り輝いている。そしてその壁は確かに、先程打ち込まれたらしい、弾丸をしっかと捕らえていたのだ。
 橋の上から、警官達のどよめく声。同時に、道の脇に置かれた水瓶が一つ、ごろりと地面に転がった。だがそこから水が零れる気配がないのを見て、ウィルはもう一度恐る恐る、目の前の壁に視線を戻す。
 あの水瓶は、元々空であったのだろうか。あんなに大きななりをして、空のまま、狭いこの道に意味もなく置かれていたのだろうか。
 事実、倒れた水瓶からは一滴の水も零れないのだから、恐らくそうであったはずだ。ウィルの常識がそう語る。だがもしそうでないとすれば、――『常識』がウィルの知る『常識』を裏切る状況なのだとすれば、あるいは。
 「私、どうしてこんな所にいるの」ぽつりと呟かれたその声に、ウィルがびくりと肩を震わせる。イレーネの声だ。しかし狼狽えた様子でいる彼女自身とは対照的に、役目を終えたその壁は、ぴしゃりとその場へ飛散する。同時に石畳の上に降ったのは、なんの変哲もない水である――。
「早く戻って、川の氾濫を報せなきゃ。夜が来ないうちに、『蛇』が来ないうちに、私が、一人でも多く逃がすんだ。帝国民を守らなきゃ。一人でも多く、少しでも早く、……そうでなければ、私は、」
 青ざめた顔でそう話す、イレーネの腕が震えている。すると不意に、「ウィル様」と強い声がした。『カランドル』だ。彼は橋の上で困惑を隠せずにいる警官達をじっと見据えたまま、「行きましょう」とそう続けた。
「水のマナを扱うその方も、一緒に」
 『マナ』。その言葉を聞いて、ウィルがごくりと唾を飲む。そうするウィルの脳裏に過ぎるのは、先程垣間見たイレーネの足の火傷痕――赤黒いあの傷痕の事である。
「マナ、……」
 イレーネが小さく呟いたのを見て、ようやく立ち上がったウィルが、そっとその手を引き寄せた。次から次に起こる出来事に、ちっとも頭がついていかない。詳しい話を聞きたいのは山々だったが、しかし今は、確かにここから離れるべきであろう。
「ああ、ウィルさん、お怪我はありませんでしたか? 私、咄嗟のことで、上手く制御ができなくて」
 イレーネがそう言い振り返り、ウィルの顔を見て絶句する。一方でウィルは咄嗟に彼女の腕を掴むと、顔を背けて駆けだした。
 些か乱暴とも思えるほど、強く手を引き駆けていく。先行していたクラウスの指図に従って、小径へ折れてまた走る。
「追え! 得体の知れない同行者も、全員捕まえろ!」
 遠くに警官の声が響いたが、騒がしい足音も何もかも、隔てた遠くの音と聞こえた。だがウィルのその耳にも、確かに届く言葉がある。
「ウィルさん、……いえ、あなたは」
 イレーネの言葉が震えている。その腕を、掴む力が自然と増した。
 先導されるままに小径を駆ければ、そのうち広い道へと抜けた。広いとは言っても、ようやく馬車がすれ違って通れる程度の、それ程往来の激しくない道である。
「こちらへ、早く!」
 ぴしりとした女性の声に振り返れば、そこに一つ、大きな幌馬車が駐まっていた。乗合馬車だろうかと考えて、しかし幌に刺繍された『商会』の文字に、それが荷馬車であると気づく。大きな車輪が付いている。普段から、余程重い物を運んでいるのだろう――。
 ちらと見れば、御者台に座った女性と目があった。女性にしては珍しく、パンツスタイルに身軽そうなベストを羽織った彼女はウィルを見て、にこりと穏やかに微笑んでみせる。
 「さ、中へ」と囁かれる頃には、既にウィルもイレーネも、我が物顔で幌の内へ先に乗り込んだ、クラウスの手に引き上げられていた。

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