廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

014:さざめく水面 -1-

 既に日はとっぷりと暮れている。帝王の行う『談話会』が閉会となり、他の出席者との別れを済ませた男は、手に小さな灯りを持ち、独り夜道を歩いていた。
 月のない夜のことであった。灯り番に手渡された、下げ筒に灯る炎のマナが、ゆらゆらと気まぐれに形を移ろわせている。王の間を出て、一度政務塔に戻る予定でいる彼の行く道を、穏やかな静寂と薄闇とが包み込んでいた。
 両手に抱え込んだ書物を、一度持ち上げ、抱え直す。炎の灯る下げ筒が、かちゃりと静かな音をさせる。
(ダンルース王騎兵の件、今晩の内に案件の整理をしておくか。大がかりな仕事になる。騎士団とも近いうちに打ち合わせておくべきだな)
 そう独りごちれば、先程男の目の前で、「今日は非番じゃなかったのか」と顔をしかめた、異国からの客人の言葉が思い出された。相手に届くわけがないとは知りながら、「好きにさせろ」と一人、呟く。そうしてから、男は小さく笑んだ。好きにさせろ。俺はこうして過ごすのが、昼夜を問わず国を思い、国の為、王の為に身を粉にして働くのが、何にも増して幸せなのだ。そう言って聞かせれば、あの年若い客人は、また理解が出来ないといった顔をして肩を竦めるのだろう。その様子が、まるで目に見えるようであったのだ。
 世に栄華を誇るアライス・アル・ニール帝国の宮殿には、王の居城を囲み五つの建物と同じ数の庭とが隣接している。その一つの庭を横切りながら、男はふと、庭に設けられた芙蓉の池に視線を落とす。穏やかな水面には芙蓉の花が浮き、花のない水面には宙を渡る無数の星々の瞬きが、密やかに照り輝いていた。
 ひょいと水面を覗き込めば、手に書物を抱え込み、官服を着込んだ自らの姿が映り込む。
 夜半の池に風が吹く。揺れる水面に、星の灯りが掻き消されていく。
 以前もこんな風に、黒々とした水面を、一人見つめていたことがあった。それを思えば、男の頬に苦笑が浮かぶ。血気盛んな青年であった頃のこと。帝国領の中でも辺境と言って差し支えないラグド地方に生まれた彼は、十九の頃に地方役場の事務官となったが、その三年後には官位剥奪の上、投獄されるという憂き目に遭った。前王の治世の下に自治を許され、領民から不正な搾取を行っていた当時の領主に、楯突いた事を咎められたのだ。
 底冷えのする牢に繋がれ、鉄格子のはめられた小さな窓より不毛の池を眺める日々が、どれほど歯がゆかったことだろう。辺境に位置するが故に帝国の監視が行き届かず、不正を不正と識る知恵すら持たずに搾取され続ける、故郷の姿に胸を痛めたあの日々が、どれほど悔しかったことだろう。
(だがそれを、……セドナ様が救ってくださった)
 雪も降り出そうかという、冬の日の事であった。静かな獄中に訪れた、およそ場に似合わぬ雅馴な振る舞いをするこの少年が何者であるのやら、彼にははじめ、わからなかった。だが何故獄に捕らわれているのかと問われ、故郷の現状や自らの想いを語って聞かせれば、少年は「そうか」とただ頷いて、穏やかにその場を立ち去った。
 男が二年越しに獄の外の空を見たのは、その僅か三日後の事である。そうして彼は後から、その少年が当時はまだ十四の少年であった、アライス・アル・ニール帝国皇太子のセドナであったと知ったのだ。
 視察と銘打って国領を周遊していたこの皇太子は、同じ頃、ラグドに限らず様々な土地を――特に、帝国中央からでは目の届きにくい地域を――巡っては、人々の声を聞き、統治のあり方を問うていたのだと聞いている。
 その翌年、前王の崩御に伴って、少年はついに帝位を継承した。日に日に豊かになる故郷を背に、男が王都の官吏となるべく勉学に打ち込み始めたのも、同じ頃のことである。
 『その日』から、以前にも増して昼夜を問わず、国のことを考えている。そうして自らの全霊をかけて、職務を全うするつもりであった。
 それこそが、この王から受けた恩に報いる、唯一の方法であるはずだ。男はそう確信していたのだ。
 懐かしい故郷を思いながら、ふと、小さく息を吐く。そろそろ気温も落ちてきた。ここで感慨に耽るより、政務塔に向かった方がよいだろう。そう考えて視線を上げれば、水面の星空がまた揺れた。
 風が出てきたのだろうか。水面に映る星空が、尋常ではなく揺れている。だがその傍らに咲く芙蓉の花を目にすると、男は小さく息を呑んだ。花弁がちらとも揺れていない。風で水面が揺れているわけではないのだ。――ならば。
 咄嗟に空を仰ぎ見る。抱えていた資料の幾らかが足元に落ちたのがわかったが、それすら気には留まらなかった。そうして男は声もないまま、ただ頭上を覆う星空に、息を殺して見入っていた。
 何やらおかしな眩暈がした。確かに立って上を見上げているはずなのに、それすら疑いたくなるほど、視界がまわって見えている。だが気を確かに持とうと首を軽く振ってみたところで、目に映る、その異様な景色は変わらない。
「――、星が」
 星が夜空を、『流れて』いる。だが常より人々が、願いをかけ、語らいながら見送る『流れ星』とはわけが違う。
 あまねく星が一様に、胎動するかの如き光景である。
 無数の星が次々に、北の空へと消えていく。ようやく視線を落とした彼は、一瞬静かな池の水面を睨み付け、すぐにその場を引き返した。
 何やら妙な、胸騒ぎがする。
 王のもとへ戻らなくては。これだけの流星だ。恐らく市井にはこれを凶星と読んで、騒ぎ立てる者も現れよう――。しかしそこまで考えて、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
 『凶星』。瞬時に脳裏に過ぎったその言葉が、何やらやけに、煩わしい。
 気づけば足が早足になり、そのうちに息が弾んでくる。そうしてたった今通り過ぎた庭を横切ると、宮殿の中央に位置する王の居城が、視界の内に現れた。
 先程『談話会』のあった王の間は接見塔にあるが、この時間だ。王も恐らく、既に居城へ移っていることだろう。そう考えて、しかし少しずつ流れる星を減らしてゆく夜空を見上げれば、王の居城の最上階、王の寝室のバルコニーに、ぽつりと佇む影を見た。
(セドナ様――?)
 王も流星を見たのだろうか。常より夜空の星を好み、来世は星になりたいとまで話すあの人のことだ。夜空の異変にいち早く気づき、外へ出てそれを見ていたのかもしれない。しかしそこまで考えて、彼は小さく息を呑む。バルコニーのその影が、ゆらりとこちらを振り返ったように見えたのだ。
 星の流れる夜のこと。その人物の表情は影に伏され、男のいる場所からは露ともうかがい知ることができなかった。だが彼は直感的に、それが自らの主であると確信する。
「セドナ様、」
 ここから声は、届くまい。そうとわかっていながら、思わずその名を呼びかける。だが相手はそれに応えるかのように、そっと右手を差し出した。
――誓いに、
 ふと耳元へ届いた声に、はっと周囲へ視線を移す。聞き間違えようのない、深く良く響く王の声。だがそれこそ、これだけの距離が離れていながら、こんなに明瞭に聞こえようはずがないではないか。
 そうして思わず立ち止まり、男は慌てて振り返る。気づけば先程手にしていた、大量の書類がないのである。急いでいたとはいえ、まさか全てなくなるまで、気づかぬ事などあるだろうか。しかし果たして歩いてきた道に視線を投げても、それらしき物は見当たらない。そうしているとまた再度、明瞭な声が耳に響いた。
――君が誓いに応えるのなら。
 低く穏やかな王の声。それを聞けば何故だか不意に、以前他愛もない会話の中で王が零した、静かな言葉が蘇る。
「皆は私の力を褒めそやすけれど、私の力なんて、あの空に輝く星の光に比べたら、たいしたことはないんだよ。私自身には、民の夜道を照らすことすらままならないのだから」
 考えてみればあの夜も、月の薄い、星雲煌めく日であった。静かに階下を見下ろす王が、どのような表情をしていたのかはわからない。だが身に纏った白練の上衣だけが、夜空の光を受けて淡く輝いて見えていたことを、男は今でも覚えている。
「生命は死ねば等しく魂に還り、転生を繰り返すものだけれど、……もし生まれ変わる先を選べるのなら、その時は星になりたいな。そうすれば、今よりもずっと分け隔て無く、人々の営みを見守っていられるだろう?」
(ああ、――違います。我が王)
 優しい王のその言葉に、声に出して異を唱えようとはしなかった。他国に対して、民に対して、いつでも帝王として強く堅実な姿勢を貫いてきたこの王は、そうするだけの知恵も、力も有り余るほど全てその身の内に持っている。しかしだからこそ王は折に触れて、自分はあくまでも自身の統べる全ての民と等しく、人の身であるのだと言うことを、噛みしめるように口にするのだ。――けれど。
(あなたの言葉に、あなたの描く国の画に、どれほど多くの民が救われてきたことか――)
 バルコニーへ視線を戻せば、先程よりいくらか遠のいた、王の影が見えていた。その影は最早こちらを振り返る様子もなく、ただ食い入るように、独り星雲を見上げている。それを見れば何やらどくりと、鼓動が軋む思いがした。
「いけません、セドナ様。まだ、……まだ、」
 何故ともわからぬ焦燥感。駆ける我が身が、何やら軽い。咄嗟に掲げた右手はほっそりとして、星空の下に白く浮かび上がっていた。気づけば、被っていたはずの官帽がない。長い髪は幾らか乱れ、しかし高い位置で、いつの間にやら一つにまとめられている。
 ぜえぜえと喘ぎながら、しかし人気のない庭を駆け続ける。その手にマナを灯した下げ筒はなかったが、今の彼には、――彼女には、そんなものがなくとも、周囲の景色がしかと見えていた。
(いけません。あなたにはまだ、行うべき事が多くあるはず)
 身につけた藤色のドレスの裾を持ち上げ、辿り着いた城の廊下を駆ける。そういえばつい先程も、彼女はこうしてどこかの小径を駆けていた。一つ大きく違うのは、彼女の手を引く少年の姿の無いことだ。
(ああ、何故今まで忘れていたの。あの日のこと。そしてこの、僅か七日後のあの出来事――)
 地に伏し、涙を流す人々のこと。唯一無二の栄華を誇ったアライス・アル・ニール帝国が、――その頂に君臨するべき、ただ一人の王を喪った日のことを。

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