廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

013:銃声

 黒々とした銃口が、静かに並ぶ盾の合間から、冷たくウィル達を睨み付けている。
 アビリオで警官隊に捕らえられたときのことを思い出しながら、せめて戦意がないことを示そうと、まず恐る恐る両手を空へ挙げたのはウィルであった。先程クラウスに打ち倒され、ウィル達を囲むように地に伏し、あるいは呻き声を上げる男達を見た警官隊は、明らかに警戒心を強めており、こちらが何やら怪しい動きをすれば、すぐにでも発砲しそうな面持ちで身構えている。
 なんとかして、申し開きをしなければ。しかし背後に立つイレーネは、すっかり青ざめて足元に落ちた空き缶を見つめたままでおり、クラウスは悪びれた様子もなく、マッチも使わず新しい葉巻の先に火を点けた。マナの熱でも使ったのだろうか。流石に警官隊を相手に無茶をする気はないようだが、彼が一体どう動くつもりやら、ウィルには見当もつきやしない。
「ウィル・ドイルホーンはお前で間違いないか?」
 口元に髭を蓄えた男が、苦い声でそう問うた。銃を構えている他の警官よりも何やら華美な徽章をつけているから、恐らくは、この隊を指揮する立場の人間なのであろう。ウィルが渋々頷くと、この男は自らの髭を撫で、感情を読み取らせない様子で息を吐く。
「アビリオの街での放火、殺人、逃亡。ここの乱闘もお前達の仕業だな? 見た目よりも随分と、肝の据わったことをする奴だ。……だがこれ以上逃げられるとは思うな。同伴者二人も共に、署まで来てもらおうか」
 しっかりと罪状が増えている事に、クラウスへちらと視線を送る。だが変わらずぷかぷかと葉巻をふかす彼は構う様子もなく、ただ顔を背けて、橋の下へ遠く視線を落としているようであった。
 先程橋の下から聞こえてきた、声の主を探しているのだろうか。どちらにせよ、警官との問答に加わるつもりはないらしい。そう見てとったウィルは心許なさに一度小さく息をつき、しかしぎゅっと口元を一文字に結ぶと、背後に立つイレーネへ、小さな声で囁いた。
 「イレーネさん」振り返らぬまま声をかけても、彼女の応えは聞こえない。
「警官に何か聞かれても、俺に無理矢理協力させられた、って言って下さい。俺もそう伝えます」
 アビリオではウィルがどんなに無罪を主張しても、警官達はちらとも聴く耳を持たなかった。あの時はナールという名の『蛇の手』が関わっていたことも、その理由の一つにあっただろう。だが恐らく、そもそも彼らにとっては、ウィルが真犯人であろうが無かろうが、ともかく一連の事件の犯人を捕らえたという体裁さえ整えばそれで良いのだ。
 今ここで周囲を取り囲む警官達に、何を喚こうと無駄である。それならば。
(その先のことを、考えなくちゃ――)
 だが覚悟を決めて伝えたウィルの言葉にも、待てどもイレーネの応えはない。「イレーネさん?」ともう一度声をかければ、彼女はようやくはっとした様子で、しかし何やら戸惑うように、ぽつりと一言、呟いた。
「ウィルさん、あの、先程からおかしな音が聞こえませんか」
 「音?」と思わず聞き返す。こんな時に、一体何を言い出すのだろう。しかしウィルの袖口をつまんだ彼女の指先は、そっと細かに震えている。
「音がどんどん大きくなるんです。……水の流れる、音が」
 さもすれば北風に掻き消されてしまいそうなその声が、しかし明らかな狼狽を孕んで、ウィルの耳元にそう届く。怪訝に思ったウィルが浅く振り返れば、血の気の失せたイレーネと目があった。同時に大きく風が吹く。ウィルの細い髪が、風に遊ばれ視界を遮る。どこかから、堅い車輪の音が聞こえていた。馬の嘶きと共に響くそれは、橋下をゆく馬車の走る音であろう。
 それらの音は聞こえても、イレーネの言うような水音は、ウィルの耳には届かない。だがウィルが口を開きかけた、その時。
「流石、――良いところに現れる」
「武器を捨てろ。お前達を連行する」
 髭の警官のその言葉が、にやりと笑んで呟いた、クラウスの言葉と重なった。
 『良いところに現れる』。そんな風に聞こえたが、ウィルの聞き違いだっただろうか。見れば言葉を発した当の本人は、ふかしていた葉巻を頓着のない様子でぽいと捨て、ウィルに倣うかのように、両手を空へ掲げてみせた。
 何やらよくわからないが、ようやく殊勝な態度をとる気になったのだろうか。両手を挙げ、まるで戦意などないかのように肩を緩めたクラウスには、先程悪漢達を悉く叩きのめした時のような覇気を感じない。しかしウィルが様子を窺う間に、そっとウィルの隣へと移動した彼は、――足元の石を軽い調子でまず蹴飛ばして、不敵に笑んでこう言った。
「逃走の目処が立った。舌、噛まないように気をつけろ」
 「へ?」と間抜けに聞き返すウィルの一方で、その動きを見て取った警官隊が、無言で銃を構え直す。カチャリと冷たい金属音。だがウィルの問いかけに応えたのは、
 クラウスの、――言葉ではなく、行動であった。
 ひょいと持ち上がったクラウスの脚が、無防備なウィルの大腿を蹴りつける。予想もしなかったその行動に、体勢を崩したウィルは身体を傾げ、さっと全身に冷や汗をかいた。
「えっ、……えっ!」
 細い橋の欄干に、ウィルの右足が蹴躓く。
 背後に冷たい風が吹く。助けを求めて両手を差し出すのに、二本の腕はただクラウスの視界を彷徨い、何者の助けも得られぬままに風を切る。それどころかとどめとばかりに肩を押され、
 ウィルはそのまま、橋から下へと転落した。
「――ウィルさん!」
 咄嗟のことで、声が出ない。青ざめたイレーネが一瞬遅れて手を差し伸べたのがわかったが、最早、その手を掴む術すらありはしない。一瞬の内、ウィルの脳裏にはアビリオで運河へ落ちたときのことが過ぎったが、しかしこの、建物の三階ほどの高さはあろう橋の下に待つのが、冷たく佇む水面ではない事はよくよく承知していた。
 段差の激しい町の中。橋の下にあるのは堅い、石畳だけだ。
 頭の中が真っ白になる。「嘘だろ」と呟いたような気もするが、今は己の言葉さえ、確かなものとは思われなかった。ただ咄嗟に目は瞑ったらしく、暗転した視界の中でウィルは、すぐに訪れるであろう着地の衝撃を待ち構えていた。
 頭を守るべきであろうか。だがどのようにして守るというのだろう。怪我は免れないにしても、何か痛みを和らげる落下の仕方はないだろうか。いやそもそも、あの高さから落ちては即死なのではあるまいか。瞬く間とさえ思われる落下の間に、様々なことが脳裏を過ぎる。そうして身を縮こまらせたウィルは刹那の後に、――ふと包み込まれるような感覚を覚え、しかしいつまでも訪れない衝撃に、訝しんで眉をひそめた。
 恐る恐る薄目を開ければ、石造りの家の玄関が見える。その手前では石畳の隙間から生えたらしい逞しい雑草が、ぴんと葉を張り、立っていた。
「えっ?」
 状況が理解できぬまま二度瞬きをして、がばりとその場へ身を起こす。気づけばウィルの身体は硬い石畳の上に横たわっており、見上げれば先程までそこにいたはずの、細い橋が視界に収まった。
 ぎょっとした顔で下を覗き込む警官の一人と、目があった。呆然としたまま力無く手を振ってみると、この警官も、また虚を突かれた表情のまま、曖昧にウィルへ頷いてみせる。
 次の瞬間。
 不意に視界に影が落ち、咄嗟に視線を移したウィルは、這ってその場を退いた。高い叫び声と共に、たった今までウィルが横たわっていた辺りへ降り立ったのは、イレーネである。真っ青になって為す術もなく尻餅をついた彼女の隣に、すぐにクラウスも降りてきた。だがどちらもこの高さを飛び降りたというのに、怪我した様子は少しもない。
「貴方という人は、よ、予告も無しになんていうことを、……」
 恐らくは、ウィルと同じようにクラウスに突き落とされたのだろう。地面に座り込んだまま、震えた声で苦言を言うイレーネへ、ウィルも大きく二度頷いた。そうしてからふと、自身の目許がうっすら涙ぐんでいることに気づき、慌てて袖で雑に拭う。それ程恐ろしい思いをしたのだ。だが気恥ずかしさに湧いた赤面を誤魔化すように、ウィルがクラウスを睨み付けた、すぐ隣から、
「皆さん、ご無事で何よりです」
 ほっと安堵の溜息と共に、そう呟いた声がある。
 聞き覚えのある幼い声。先程までも橋の下から、クラウスに制止をかけていたあの声だ。しかし声の主を振り返り、ウィルは小さく息を呑む。
 ウィルより幾分年下と見える色白の少年が、その場に一人、立っていた。幼さの残る表情はいくらか紅潮して、寒空の下だというのに随分汗ばんでいる。たがその頬はふわりと優しく笑んで、ウィルと目が合うと、明るい声でこう言った。
「お迎えに上がりました、ウィル様!」
 息を弾ませてそう話す、きらきらとした青い瞳に見覚えがある。
――信心深い巡礼の方。ここはお寒いでしょう。よろしければ、会堂の中へどうぞ。
――ハラバンにあるダリアース教会の修道士です。ファーマティカへはある方をお迎えにきたのですが、行き違いになってしまったようで。
(教会で会った、……あの子供!)
 イレーネを待って教会の庭にいたウィルを、巡礼者と勘違いして声をかけた、あの子供である。確か『カランドル』と名乗っていただろうか。状況をちっとも理解できずにいるウィルが、言葉の無いまま視線で問えば、この少年はやけに大人びた仕草で、困ったように首を傾げてみせる。そうしてから、似合わぬ白手袋を着けた両手で恭しげに、先程風に飛ばされた、ウィルの帽子を差し出した。
「詳しいお話は、後程させていただきます。今は、この場から早く立ち去りましょう」
 『カランドル』の視線を追って橋を見上げれば、警官の数人が慌てて上官に指示を仰ぎ、また数人が大慌てで周囲の道に捌けていく様子が見て取れる。ウィル達の後を追い、今にも橋から飛び降りようとしている者は流石にその仲間から止められているようだったが、しかしこの道へ降りてくるのも時間の問題であろう。
 「レオナルド」とまた別の名を呼んだのはクラウスだ。「今し方通りがかった馬車は、ハリオット商会のものか?」
「ええ。状況を察して駆けつけてくれたようです。まずは合流を」
 クラウスの問いに、少年がさらりと言葉を返す。どうやらこの二人は、元々面識があるらしい。その様子を側に見ながら、ウィルは未だに座り込んだままでいるイレーネへ、そっと右手を差し出した。「立てますか」と問うてみれば、彼女は浅く頷いてみせる。だがその視線は戸惑いを隠しきれぬ様子で落ち着かず、差し出されたウィルの手を取ろうとはしない。
「ごめんなさい。私、さっきから何かおかしいんです。聞こえるはずのない音が聞こえたり、それに、……何か、頭の中に声が響いたり」
 そういえば先程も、水の音がどうとかと言っていた。しかしウィルがその事を問おうとした、次の瞬間。
「――ウィル様!」
 少年の叫ぶ声と同時に、ダァンと空気を貫く音。思わず棒立ちになったウィルの右足を掠めたその弾丸は、乾いた音を立て、ガツリと石畳の間に突き刺さる。――橋の上に残留していた警官隊が、こちらに向けて発砲したのだ。
 慌てて音の出元を振り返ろうとして、ウィルはしかし、その場へ強く尻餅をついた。イレーネに腕を引かれたようだと、気づくのに時間はかからない。見れば代わりに立ち上がったイレーネが、ウィルを庇うように立つ。
「イレーネさん、……!」
 再び聞こえた銃声が、ウィルの耳にも鈍く響いた。

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