廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

012:橋の上

「アビリオであれだけ追い回されて、少しも堪えなかったのか。思ったよりもタフなようで、頼もしい限りだな」
 ウィル達の立つ橋の上下に、音を立てて強い北風が吹いていた。その風がウィルのかぶった帽子を撫で、ふわりと空に攫っていく。しかしウィルは帽子の事になど気づきもせず、顔面蒼白になって、ただふるふると首を横に振った。
(まずい。これは、なんていうか、……)
 そっと顔を上げ、眼前に立つ男の様子を窺ってみる。しかし対峙する男――クラウスは、ウィルと目があってもにこりともせず、深く長く、葉巻の煙を吐き出すのみである。虚を突かれたというように様子を窺う周囲の視線になど、注意を払う気は微塵もないらしい。
「言ってみろ、お前が今いるここは、広場か?」
 低い声でそう言って、葉巻を口に咥えると、ひょいと外套の袖を捲る。そうしてシャツの袖口についたカフスボタンを外す合間にも、凍てつくようなクラウスの視線はウィルを捕らえて放さない。
「あの、それは、だから、」
「そういえば、アビリオでもあちこち走らされたっけなぁ。ウィル様々は走るのも、人を走らせるのも、どうやら随分お好きらしい」
「その、俺も走りたくて走ってたわけじゃ、」
 必死に首を横に振りながら、やっとの思いで言葉を返す。しかしウィルが言い終えるのも待たず、
「おい、この二人に用があるのは俺達なんだよ。てめえ一体何者だ?」
 そう声を上げたのは、先程までウィル達を追い回していたあの男であった。
 突然場に現れ、ウィル以外の人間にはちっとも注意を払わないクラウスの様子が、どうやら気に触ったのだろう。男が気怠げに顎をしゃくると、他の男達もにやにやと取り囲むように、クラウスの前に立ち塞がる。クラウスもこれには流石に眉をしかめたが、この男は黙らない。
「あのガキか、それとも女のお仲間か? 悪いことは言わねえから、黙ってここから立ち去りな。でなきゃてめえも、ブタ箱に放り込んじまうぜ」
 下卑た笑い声を耳にしながら、クラウスがまた、静かに葉巻の煙を吐き出した。「ウィルさん」小声で囁いたイレーネをちらと振り返れば、彼女も緊張した面持ちで、じっとクラウス達の様子を窺っている。
「多勢に無勢です。あの人、大丈夫なのですか」
 問われてウィルも、黙り込む。アビリオでのことを思いかえすに、クラウスが黙ってやられている姿など想像できなかったが、それは相手がボハイラの蛇であった場合の話である。流石にここでマナや銃を使うことは出来ないだろうし、何か策はあるのだろうか――。
(いざとなったら俺だって、……いないよりは、マシなはず……)
 ぐっと拳を握りしめ、悪漢達の一挙動に視線を配る。しかしそうしたウィルを他所に、ようやく口を開いたクラウスは、
 何やら不敵に笑んでいた。
「ブタ箱。……成る程な。お前らはそこの莫迦にかけられた、手配金狙いの輩ってわけか」
「そうさ。あのガキを捕まえりゃ、それなりの金が手に入るからな。だからてめえはとっとと他所へ、――」
「残念だなぁ。お前らがもう少し使える奴だったなら、俺から礼を弾んでやってもよかったのに」
 無表情に溜息を吐いたクラウスに、男が言葉を見失う。一体どういう意味かと様子を窺う男達を一瞥すると、クラウスはやれやれと息を吐いた。
「つまりこういう事だろう。お前達がクソみたいなノロマでさえなければ? ガキ一匹ろくに捕まえられない能なしのぼんくらでさえなければ? 今頃そこの大莫迦者は、警官隊の駐屯所にでも突き出されていたわけだよな。そうなれば俺は、無為に町中を探し回らないでも済んだって事だ。ああ、本当に残念だな」
 クラウスの声が、――いっそ、清々しいほどの怒りを孕んでいる。
 真っ青に青ざめたウィルが、音の無いまま思わず小さな悲鳴を上げた。唖然としたままクラウスの言葉を呑み込んだ男達は、言葉の咀嚼に一拍かけて、――頬を怒りに紅潮させる。
「てめえ、訳のわからないことを言いやがって……!」
 思わず手の出た悪漢の拳をひらりと避けると、クラウスが些かの躊躇も無く、火の点いた葉巻を相手の額へ押しつける。そうして返す手を別の男の首へ打ち付ければ、首を打たれた男が昏倒し、その場にずるりと崩れ落ちた。
 葉巻を押しつけられた男が叫び声をあげたのと、他の男達が怒りの声をあげたのとは、ほぼ同時の事である。
「何しやがる!」
 ぎょっとして立ち竦むウィルの姿になど見向きもせず、男達が銘々に拳を振り上げる。対して地面に落ちた葉巻を踏みつけるクラウスの表情は、なにやら随分、晴れやかだ。
「まだ俺の邪魔をしたいのか? 丁度良い、最近むしゃくしゃすることばかりなんだ。気晴らしくらいはさせてくれよ」
「クラウス、ちょっと、」
 止めに入ろうとしたウィルの言葉など、クラウスの耳に届いた気配はちっともない。しかし同時にイレーネに呼ばれ、ウィルははっと息を呑んだ。見れば橋の反対側を塞いでいた男の内の数人が、怒りの形相でウィル達の方へ向かってきていたのだ。
 小さく悲鳴をあげ、イレーネの手を引き細い橋の脇へ寄る。低い欄干に足を取られ、危うく橋の下へ落下しそうになるのをなんとか踏みとどまったものの、安心感など微塵もない。どうやら元よりそのつもりだったのだろう、数人の男達が真っ直ぐクラウスに向かっていくのを見送って、しかし彼らが容赦なくその場へ打ち倒されるのを目にすると、ウィルはぶるりと肩を震わせた。
 向かってくる拳を右に避け、背後の敵を蹴りつける。確実に相手の内股を狙い、足をすくうその様は、まるで背中に目でもあるかのような鮮やかさだ。
(チンピラより、蛇より、……正直俺はクラウスが怖い!)
 きゅっと心臓が縮まるような錯覚さえ覚えながら、助けを求めて左右へ視線を彷徨わせる。「あなたの連れの方、一体何者なのですか」おずおず聞いたイレーネの問いにも、答える言葉が浮かばない。
 しかし、その時だ。
「クラウス、警官隊がそちらへ向かっています! 早くウィル様をお連れしないと――!」
 唐突に聞こえた高い声に、思わずはっと瞬きした。子供の声だ。だがその声の主を判じることもなく、ウィルは耳元で聞こえた小さな悲鳴に、慌てて背後を振り返る。見ればウィル達の背後からにじり寄ってきた男が三人、その額に冷や汗を浮かべ、しかしにやにやと笑んでイレーネの腕を掴んでいた。
「イレーネさん!」
 声を上げたウィルの肩に、もう一人の男の手が伸びる。「放せ」と身を捩ってみても、相手の男とは体格が違う。ウィルのささやかな抵抗などちっとも意味を成した様子はなく、あっという間に両腕を拘束されてしまった。胸元に押し当てられた、ぎらりと光るナイフを見て、ごくりと小さく息を呑む。
「好き勝手に暴れやがって……! おいてめえ、これが見えないのか! こいつらがどうなっても、構わないのか!」
 クラウスのでたらめな強さを前にして、彼らも必死なのだろう。しかし自らの同行者へそっと向き直り、
 ウィルはその表情に、乾いた笑みを貼り付ける。
 つまらなそうに溜息を吐いたクラウスの足元へ、今まさに、勇敢にもクラウスへ殴りかかっていった最後の一人が倒れ込んだのが見て取れた。そうして手近な人間を全て地に伏したクラウスは、交互に手首を伸ばし肩を回しながら、ウィルに押し当てられたナイフのことなど歯牙にもかけた様子無く、じりじりとウィルに歩み寄る。それを見たウィルもその腕を掴む悪漢と共に、じわりじわりと後ずさる。
「落ち着こう。落ち着いてちょっと話をしよう」
 クラウスからの応えはない。だが同時に、どこかから再び高い子供の声がする。
「クラウス、これ以上はいけません! 相手は一般人ですよ、これ以上暴れては、騒ぎが大きくなります!」
 声はどうやら、橋の下から聞こえている。馴染みがあるほどではないが、ウィルにもどこか、聞き覚えのある声だ。しかし目の前に立つクラウスは、「たいして暴れちゃいないだろう」と不満げに言葉を零してから、また大きく溜息を吐いた。そうして恐る恐る声をかけたウィルの方へ、ようやくちらと視線を移す。
「あのさ、俺、人質に取られてて……。出来たらなるべく穏便に、事が済んだらいいなと……思うんだけど」
 そう言いへらりと笑ってみせれば、クラウスは一度、浅く頷いた。しかしそうして続いた一段と低いその声に、ウィルは恐々息を吐く。
「安心しろ。全員、今すぐ、――叩きのめす」
 さっと視界に黒い影。それがどうやらクラウスが投げつけたらしい、どこのゴミとも知れぬ空き缶であると気づいたのは、そのすぐ直後のことである。缶はウィルを拘束していた男の顔面に直撃し、同時に、
 小さな光を伴って、パリッとはじけるような音を響かせた。
(雷の、マナ!)
 以前見たそれより随分威力は劣ったが、間違いない。
――雷……。カミナリ! また私たちの邪魔をするのか!
 アビリオの街に轟いた、『蛇』を焼いたあの光だ。
 突然のことに男が悲鳴を上げ、ウィルを掴む手を緩ませる。咄嗟にその腕を逃れ、危うく尻餅をつきかけたウィルの真横へ身を滑り込ませたのはクラウスだ。その腕が確実に次の獲物を捕らえ、また一人、男がその場に倒れ伏す。
 小さく叫んで身をかがめたイレーネを見て、ウィルは慌ててその腕をひいた。見たところ、どうやら彼女も無傷のようだ。「大丈夫ですか」と短く問えば、呆気にとられたままのイレーネも、「ええ」とぽつり、呟いた。
「私は大丈夫です。ですが、……今の光、」
「えっ? ええと、あれは……」
 どう説明をしたものかと、言葉を選んで押し黙る。だが直後、クラウスに投げ飛ばされた男がウィルの真横に倒れ込んだのを見、一仕事を終えたといった様子で手を払い、捲り上げていた袖を直すクラウスと目が合うと、ウィルはぶるりと肩を震わせた。
 黙ったままでいるクラウスの表情から、機嫌の良し悪しは読み取れない。しかしこうして悪漢達を全て伏せた今となっては、――次にあの拳を受けるのは、恐らくウィルに違いない。
「クラウス、あの、頼むから、ちょっとだけ言い訳をさせてもらえないかな」
 「言い訳?」聞き返したクラウスの言葉に、咄嗟に深く頷いてみせる。だがクラウスはまた大きく溜息を吐くと、ふいと橋の向こうへ顔を向けてしまった。
「無理だな」
「そ、そう言わず……」
 しかしその視線の先を目で追って、ウィルも情けない溜息を吐く。見れば橋の向こうの曲がり角から、見覚えのある制服姿が、連なりこちらへ駆けてきていたのだ。
 がちゃがちゃと煩い足音を立て、橋の両側へ数人の男が盾を構える。その隙間から覗く銃口を見れば、冷え冷えとした思いが腹に落ちた。
「どうも、言い訳とやらを聞いてやれる時間はなさそうだ」
 ウィル達を囲むように構えたのは、他でもない、エンデリスタ大公国警官隊の面々である。

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