廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

011:木枯らしの吹く

 繋いだ手は熱を帯び、背筋を汗が伝っていく。苦しげな息づかいを耳にしながら、しかしウィルはちらと背後を振り返ると、それでも、息を荒げてやっとの事で走る、イレーネの細い手を引いた。
(ああもう、……あいつ、しつこいな!)
 視界の端に追っ手の影を見て、握る掌に力を込める。スターが男の注意を引いてくれていることと、細かに小径を曲がり駆けていることで、今はまだ、少しは追っ手を遠ざけることが出来ていたが、このままでは追いつかれるのも時間の問題だ。
――早速会えて嬉しいぜ。
 青痣の出来た顔でにやりと笑った男の表情を思い出せば、苦い思いが腹に落ちる。恐らくは出会い頭に階段から突き落とされたことを、まだ恨みに思っているのだろう。それなりに大層な怪我をしているのだから、家に帰ってじっとしていればいいものを、まったくご苦労なことである。
(それにしたって、ああ、くそ、間の悪い……!)
 こちらはただでさえ、ボハイラの蛇に警官隊と、あちこちから逃げ回らねばならない身の上なのだ。この上、女性を襲うような小悪党になど構っている暇はないというのに、自分は一体何をしているのだろう。そう思えばむかむかと、腹の内に苛立ちが湧いた。
(クラウスのことだって探さなきゃならないのに、――それに)
 ちらと背後を振り返れば、ここまで懸命に駆けてきたイレーネも、流石に体力の限界と見える。足がもつれて転びそうになりながら、それでもなんとか踏みとどまる彼女の姿を見て、ウィルは周囲を見回した。
 イレーネだけでも、人通りのあるところへ逃がしたい。しかしただでさえ慣れない町の中、特にファーマティカは急な坂道も多く、小径は文字通り縦横無尽に入り組んでいるため、どこへ進むべきとも見当が付かない状況だ。
(大声で人を呼んだら、俺が警官に見つかるかな……。でもこれ以上、イレーネさんを走らせるのは難しそうだし、)
 すぐ背後にはまた、スターの吠える声が聞こえている。このまま駆けても逃げ切れない。それならば、もういっそのこと――
 一度生唾を呑みこむと、大きく息を吸い込んだ。しかしウィルが声を上げようとした、その時だ。
 唐突に腕を強くひかれて、つんのめるように立ち止まる。振り返れば、今まで黙ってウィルに腕を引かれていたイレーネが、肩で息をしながら何やら訴えるように、道の脇を指さしていた。
(――、貯蔵庫!)
 イレーネの指の先に見えたのは、半開きになった貯蔵庫の扉であった。急勾配の小径に沿って、民家の半地下に備え付けられた扉には、木で出来た格子がはめられている。だがその錠は壊れてぶらさがり、その為にだらしなく開いてしまっていたのだ。
 住民の不用心に感謝しながら、即座に扉へ手をかける。そうしてまずイレーネを押し込むと、すぐに自分も、扉の内へ飛び込んだ。
 音を殺して扉を閉じ、身じろぎもせずに外の動きへ聞き耳を立てた。イレーネが顔を真っ赤にしながら、それでも、外の男に息づかいを悟られぬようにと身をかがめて座り込む一方で、スターの吠える声が一瞬近くに聞こえ、しかし男の足音を誘うように、段々と遠ざかっていく。
 薄暗い格子の隙間から、恐る恐る、外の様子を窺った。ファーマティカの細い小径には、ただ北風が吹いている。だが左右に視線を移してみても、人影と見えるものはない。どうやら男はスターに先導されるまま、通り過ぎてくれたらしい。
 一息、長い安堵の溜息を吐く。そうしてウィルはずるずると、壁に背をもたれたままで、座り込む。
「……なんとか、撒けた、かな?」
 これでひとまず、難は逃れたはずだ。しかし緊張を解いたウィルのすぐ隣で、イレーネは不安げに口元を結び、小さく首を横へ振る。
「きっとすぐに気づかれます」
 まだ整えきらない息づかいの合間にそう告げて、彼女はじっとウィルを見据え、続けてこう訴えた。北風の吹き始めた季節だというのに、彼女の頬は紅潮して、肌にもじわりと汗が浮かんでいる。
「ウィルさん、すぐに逃げてください。あの男が戻ってくる前に、今きた道を下ってください。私、このまま一緒にいては、足手まといになってしまう。ウィルさんだけでも、早く」
 「そ、そんなことできません」思いもしないその言葉に、咄嗟にウィルがそう言った。あの男に怪我をさせたのがウィル――正確にはスターだが――である以上、その恨みを買っている自覚は確かにあったが、男のそもそもの狙いはイレーネのはずである。なのにそれを知っていて、こんな所へ彼女を一人、置き去りにできようはずがないではないか。
 しかしウィルが言葉を選んでいると、イレーネは再度首を横へ振り、申し訳なさそうにこう話す。
「あの男の今の狙いは、ウィルさん、あなたなんです。あの男の雇い主が、あなたにかかった手配金のことを知ったようで、……。あの男は、ウィルさんが私と一緒にいたことを知っていましたから、それで、私を尾けていたようなんです。――何のお力にもなれず、かえってご迷惑をおかけしてしまって、本当に……本当にごめんなさい。でもせめて、自分の事は自分自身でどうにかします。だからウィルさんは、行ってください」
 そう言ってイレーネが、扉の向こうへ目を向ける。しかし同時に、外から聞こえてきた話し声を聞き、二人は小さく息を呑んだ。
「おい、本当にこの辺りなんだな?」
「ああ。手配書のガキが一人と、それを手助けした女が隠れているはずだ。女もあわせて掴まえろ」
 先程の男の声と共に、いくつかの声がなにやら話し合っている。ウィル達を見失ったことに気づき、仲間を連れて戻ってきたのだろうか。
 木枯らしと共に吹き込む不穏なその声を聞き、ウィルは、握る拳に力を込めた。
(どうしよう、……)
 小さく唾を飲み込むと、いまだ息の整わないイレーネにちらと視線を移す。助けてくれた親切な人を、こんな風に巻き込んでしまった――。そう思えば罪悪感が、ぎゅっと胸を締め付ける。
――ウィルさんは無実なのでしょう? でしたら、私はその言葉を信じます。
――何のお力にもなれず、かえってご迷惑をおかけしてしまって、本当に……本当にごめんなさい。
(俺のせいで、……関係のない人を危険なことに巻き込まないために、アビリオから出てきたっていうのに)
 一体何をしているのかと、心中自身を罵倒する。しかしそうしてから、一度奥歯を噛み締めると、ウィルもまた、扉の外を睨みつけた。
 イレーネがなんと言おうが、どうにかして、ここから二人で逃げ出さなくては。そうして警官に見つかる前にイレーネを安全な場所へ帰し、ウィル自身も、上手く警官隊から逃げおおせなくてはいけない。しかしどんなに考えても、上手くこの場を切り抜ける策などちっとも浮かばずに、両手の拳を握り込む。
(ああ、……ボハイラの蛇や警官隊どころか、ただの小悪党からすら逃げられないのか、俺は!)
 そうこうしている間にも、声がじわじわと近づいてくる。しかしもう一度扉の向こうの様子を窺おうとして立ち上がり、
 ウィルはそのままぎょっとして、思わずその場に立ち尽くした。
 軽やかな衣擦れの音。見れば、今までじっと扉の向こうを睨み付けていたイレーネが唐突にその場へ立ち上がり、――その身につけたドレスの裾を、ひらりと膝までたくし上げている。
「い、イレーネさん! 一体何を……」
「こんな物を着ているから、走りにくいんです。この靴も! 裸足の方がまだマシだわ。パニエも脱いでしまえば、少しは走りやすくなるでしょう!」
 苛立ちを隠す様子もなくそう言って、ぽいと靴を脱ぎ捨てる。不意の出来事に赤面したウィルが、咄嗟に目を伏せ、両手で自らの顔を覆っても、彼女が気にした様子はない。
 指の隙間からちらと垣間見えた白い柔肌に、思わずごくりと唾を飲む。しかしそうして視線を落とし、――
「イレーネさん、その右足って」
 ぽつりと、そう問いかけた。
 靴を脱いだ爪先が、ウィルの視線の先にある。だが腕や首筋と同じに白く汗ばんで見えるのは、その左足だけのことであった。
 彼女の細い右足には、その足首から膝下にかけて、――赤々とした、広い火傷の痕が見えていたのだ。
「古い傷です、お気になさらないで」
 きっぱりとした口調でそう言って、イレーネがドレスの裾を下ろす。パニエという、どうやらドレスの下に着ていたらしい物を脱ぎ捨てた彼女のスカートはすとんとしており、木枯らしが強く吹き込む度、布越しに足の輪郭が際立った。
「私は私で、上手く逃げられるよう善処します。……、もし掴まって警官隊に引き渡されたとしても、私はそう大きな罪には問われないでしょう。ですからウィルさんは、構わず行ってください」
 イレーネの声には迷いがない。
「こんな事にはなりましたけど、なんだか私、ウィルさんと一緒にお話ししたり、町を駆け回ったり、とても楽しかったです。……ふふ、可笑しいですよね」
 苦笑するその顔を見れば、尚更、ウィルの胸中はざわついた。
 音を立てて、木枯らしが吹く。木の格子で外と隔てられた室内に、埃が渦巻き舞い上がる。風の音の中に、ふと聞き覚えのある犬の雄叫を聞いた気がして、ウィルはいささか目を伏せた。賢いスターは無事だろうか。あの勇敢な犬ならば、きっと、ウィルよりもずっと頼もしく、この恩人を助けてくれるだろうに。
 視線を泳がせながら、しかしウィルは、自らが身につけていた巡礼者のマントをイレーネに手渡すと、「羽織ってください」と短く言った。
「今更こんなことを言うのも、申し訳ないと思うけど……。巻き込んでしまって、すみません。だけどもう少し、俺と一緒に来てください。少なくとも、あの男達から逃げきるまでは」
「でも、」
 イレーネが何か言おうとするのを遮って、もう一度彼女の手を取った。
(俺はとにかく、……今、できるだけのことをしよう)
 自分自身に言い聞かせ、扉の外を睨め付ける。ウィルに言われるままマントを羽織ったイレーネが、躊躇いがちに頷くのを見て、ウィルは恐る恐る格子の扉を開いた。
 足音を忍ばせ、周囲に気を配りながら、するりと外へ身を滑らせる。イレーネに手招きをして坂道を幾らか下ると、今度は二人で、隣の家の影へ身を潜めた。男達の会話は、まだ少し離れたところから聞こえてきている。
「大通りに出るには、どっちへ向かったらいいですか?」
 声を潜めてウィルが問えば、イレーネが右の道を指す。ウィルも素直に頷いて、しかしふと、伏せた視線の先にイレーネの裸足の爪先を見ると、そっと自らの胸元へ手を当てた。
――お前の胸の火傷痕。
 耳の奥に、以前クラウスから聞かされた言葉が蘇る。
(まさか、……まさかな)
――その傷が一体何なのか、知りたいと思ったことはないか?
 小さく唾を飲みこんで、また建物の影に隠れるように、そっとその場を移動する。だがそうして小径を一つ曲がった、次の瞬間。
「おっと。お二人さん、こんな所にいたのかよ」
 男の発した低い声に、思わずその場へ立ち止まる。咄嗟に声を振り返れば、ウィル達の退路を塞ぐように、見知らぬ男がそこに立ち、にやにやと笑いながら二人の事を眺めていた。
 はっとしたウィルが、イレーネの手を掴み直す。
 男の笑みが、濃さを増す。
 二人が駆け出したのと、男が大声を上げたのとは、ほぼ同時の事であった。
「おい、早く来い! 例の二人を見つけたぞ!」
「イレーネさん、こっちへ!」
 大きく頷いたイレーネが、空いた方の手でスカートの裾を浮かせ、ウィルの後を駆けてくる。そうして少しの間小径を進み、不意に開けた視界を見て、ウィルは小さく舌打ちした。
 橋だ。低い位置にある別の道を跨ぐようにして、短い橋が架かっている。だがその橋の向こうには、――既に、例の男の仲間と思しき連中が、嫌味な笑みを浮かべて並び立っていたのだ。
(挟まれた――!)
 二人で橋の中心に立ち、前後へ視線を廻らせる。しかし橋の両側へ数人の男達が立ち塞がっているのを見れば、焦りばかりが先に立つ。
「手間をかけさせるんじゃねえよ。お前等二人とも、この怪我の礼をたっぷりさせて貰ってから、警官隊に突きだしてやるからな」
 顔に青痣の出来た男が、そう言いにじり寄ってくる。しかし背中合わせに立ったウィルとイレーネが、互いに一歩退いた、その時だ。
「――こんなところで、なにを遊んでやがるんだ?」
 不意に聞こえたその声に、ウィルが肩を震わせる。しかし咄嗟にそうしてしまった理由がわからず、きょろきょろと辺りを見回してみて、
 声の出所を見つけると、ウィルはその場へ、硬直した。
「待ち合わせの場所にいないと思ったら、女を連れてチンピラどもと駆けっこか? 随分と良いご身分だなぁ、俺も仲間に入れてくれよ」
 例の悪漢の背後から、一つ、ひたひたと歩み寄る人影がある。上等な外套を羽織ったその男は、火の着いた葉巻を無造作に咥え、長い一息を吐き出すと、怒りを隠さずウィルただ一人を睨みつけた。
「背が高くて、赤褐色の髪、……ウィルさん、もしかして」
 恐る恐る問うたイレーネに、やっとのことでウィルが頷く。そうして凶悪さすら感じる視線でウィルを見据えるその男へ向き直ると、ウィルは力無い声で、「スミマセン」と呟いた。
「いや、その……広場に帰りたいのは山々だったんだけど、色々と事情があって、やむを得なくて。勝手にアビリオに帰ろうとしたとか、食べ物につられたとか、そういう事じゃないんだよ。だから、……。でも、あの、やっぱり、……怒ってます、よね」
 おずおずとそう問うてみれば、男は何も答えずに、ただその場に立ち止まる。一体何事かと警戒する悪漢達の事など意にも介さぬ様子で、しかしウィルの問いにゆっくりと深く頷いたのは、クラウス・ブランケその人であった。

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