廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

010:水音

 声を潜めてイレーネが呼べば、相手はぎくりと肩を震わせ、恐る恐るこちらを振り返る。「イレーネさん」と安堵した様子でそう応えたのは、間違いなくウィル・ドイルホーンその人であった。
 ここまで走ってきたのだろうか。額には玉のような汗を浮かべ、息をわずかに弾ませている。「どうしてこんなところへ」と問えば、相手は用心深く辺りを見回してから、イレーネを細い小径へ手招きした。見ればスターと呼ばれていた犬も、ぴたりとそばへ寄り添っている。
「教会の方へも警官隊が来て」
「見つかったんですか?」
「はい。目があっちゃって……。あっ、でも、すぐに走って逃げたので、なんとか振り切れたんですけど」
 ウィルが自らの服の袖で汗を拭うのを見て、イレーネは、そっとハンカチを差し出した。そうしてから、ちらとあたりを見回してみる。
 確かに今のところ、辺りに追っ手の姿は見られない。だが、それも時間の問題だろう。指名手配中の少年を見つけながら、それを取り逃がした警官隊は、威信に賭けてこの少年を見つけ出そうとするはずだ。
 恐縮しながらハンカチを受け取るウィルを見て、胸元にそっと手を添える。自分にどうにか、できないだろうか。この少年を町の外へ逃がし、彼の連れにそれを伝える、なにか良い方法はないだろうか――。しかしイレーネが考え込んでいると、「あの」と、おずおずと話しかける声がした。
 ウィルだ。彼は眉根を寄せて、しかしぎこちない笑みを浮かべると、それでもイレーネにこう言った。
「イレーネさんが一人でいるっていうことは、クラウス、広場には居なかったんですよね? ……それがわかっただけでも、助かりました。俺、もうちょっとこの辺りを探してみます。イレーネさんは、その、もう家へ帰ってください」
 言われてイレーネは、思わず幾度か瞬きした。「何故です?」と問えば、かえってウィルの方が驚いたというような顔をして、「そりゃ、だって」と口ごもる。
「だって俺、指名手配犯で、……俺を助けたって警官に知れたら、きっとイレーネさんにも迷惑がかかります。だからこれ以上は、もうお願いできません」
 意志を感じる、固い声。そう言って口元を真一文字に結ぶウィルの事を、イレーネはただ、何も語らずじっと見ていた。まだどことなくあどけない顔をしたこの少年は、俯き、彼女と目をあわせようともしない。
(……、そうね。確かにウィルさんの言うとおり)
 こんな少年に罪をなすりつけてまで、事態を収拾しようとしている警官隊のことだ。ディンガー博士のこともあるし、これ以上彼に関わって、それを見咎められては、学位剥奪程度では済まなくなる可能性もある。
(だけど、)
 ふと足元に視線を移せば、ウィルへ寄り添うように座り込んだスターと目があった。どうやらこの賢い犬は、主人の思いをよく理解しているようだ。凛とした表情で主人を見つめ、まるで主人を励ますように、常にその側に控えている。それに反してこの少年は、どうやら、――自分が今、どんなに不安げな顔をしているのやら、ちっとも理解していない。
(ああ、……なんだか少し、あの方と似て見える)
 あの人は、この少年のようには、素直に思いを顔に出したりしなかったけれど。
 しかしそう考えて、イレーネは思わず瞬きした。不意に浮かんだその思いが、一体何を指すのやら、まるで見当が付かなかったからだ。
(……『あの方』?)
 自分自身に、問いかける。すると脳裏に、
 不意にぴしゃりと、水音がした。
 ぴしゃり、ぴしゃりと脈打つように、胸を穿つ高邁な音。もう一度辺りを見回すが、音の出所は掴めない。
「イレーネさん――?」
 問われて思わず、はっとする。そうしてもう一度耳を澄ませば、先程の音は、最早遠くへ消え失せていた。
(私ったら、何を考えているのかしら)
 今は惚けている場合ではないだろう。そう自分を叱咤して、きゅっと拳を握りしめる。
「とにかく、今はここを離れましょう。近くに警官隊の駐屯地があります。電信局へは私が行きますから、さあ早く」
「でも、……」
 ウィルが困り果てた様子で眉根を寄せ、顔を上げる。その時だ。
「こんなに簡単に見つかるとはなぁ」
 ウィルが表情を凍り付かせたのと、その嫌味な声が聞こえてきたのとは、ほぼ同時の事であった。スターが唸り声を上げ、その場へすっくと立ち上がる。咄嗟にこの犬の視線を追い、イレーネも短く息を呑んだ。
 額や手足に痛々しげな手当の跡を残し、そこに立つのは――先程、ディンガー博士と共に立ち去ったはずの、あの悪漢であったのだ。
「女史の後を尾ければ、もしかしたらとは思ったが……、早速会えて嬉しいぜ」
 男の言葉に、青ざめる。後を尾けられていることに、何故気づけなかったのだろう。これではイレーネ自らが、ウィルの居場所を報せたのも同じ事ではないか――。
「ウィルさん、ごめんなさい、私」
――星になりたい。
 ちりりとした鈍い痛みが、不意に背筋を走っていった。それと同時に聞こえるのは、やはり先程の水音だ。朝露の落ちる音のようだったそれは、しかし徐々に勢いを増し、胸の内を渦巻いていく。
――生まれ変わる先を選べるのなら、その時は星になりたいな。
 ああ、何故今、あの声のことを思い出すのだ。
 誰のものともわからない、それなのに何故か懐かしい声。
 低く穏やかな、しかしその声の主に似合わない、――何故だかどこか、寂しげな声。
「イレーネさん!」
 叫ぶようなその声に、はっとなって息を呑む。そうして詰め寄ってきた相手の男の手を避けると、イレーネは、ウィルに連れられるままその場を駆け出した。
 
 * * *
 
「――皆、よく集まってくれた。では『談話会』を始めよう」
 薄闇の降りた王の間に、低く穏やかな声が響く。唯一の主の言葉を受け、男も静かに頷いた。
 広いこの王の間で、『談話会』の時にのみ設けられる、円卓に彼も座している。燃えるような夕焼けの刻は既に過ぎ去っており、使用人達が部屋の燭台に火を灯すにつれ、部屋の明暗が濃くなった。
「サルディア王国とダンルース王国の領土争いに関して、まずはご報告を」
 口火を切ったのは、騎士団長のエイルである。開催の時を定めず、不定期に王直々の招集がかかるこの『談話会』において、決められた議題はなく発言の順序に定めもない。主が頷いたのを見て取ると、彼女は続けてこう話した。
「ついにダンルース王が王騎兵を投入したようです。彼らは過去にも、敵対国の兵糧を奪うために国境付近の村を焼くことをしていますから、焦土作戦を決行する可能性は高いでしょう。先日の仰せの通り、国境警備はダンルース王を刺激しないよう密かに増強するにとどめましたが、また新たに溢れた難民がこちらへ流れてくるのも、遠からぬ事かと存じます。既に受け入れ体制は整っていますが、窓口を増やすことも検討した方がよろしいでしょう」
「また仰せの通り、神殿で先に受け入れを行ったサルディア王国からの難民の一部、まず技術者には市民権を与え、代わりにサルディア式車輪の技術提供を求めております」
 続けたのは、大神官であるカランドルだ。帝王の信頼も厚く、帝国で唯一その胸に四枚花弁のメシスの徽章を許されているこの神官は、しかし歴代の大神官と比べて現場を好む傾向にある。日頃は神官職の長として神事を取り仕切り、人々を導きながらも、その職務の内外に関わらず議会へ赴いては意見を交わし、また何事もなかったかのように神事へ戻っていく柔軟さには、いつも感服してしまう。
「既にいくらか試作品も仕上がりました。どうやら我が国の車輪との違いは、輻と轂の組み方にあるようですね。試しに騎士団で用いる重量馬車にサルディア式車輪を取り付けましたが、高耐荷重で多少の悪路にも強いとのことです。今後、多方面での利用が見込めるかと」
 「それなら、次はその車輪を使って、サルディア王国との国境線まで難民のための物資を運ぼうか」受け答える王の声は明瞭で、柔らかい。
「流れてきた難民は、皆やむを得ず国を捨て、我が帝国に辿り着いた者達だ。己等の技術が故郷の同胞を救う手立てになったと思えば、彼らの心も報われよう。長年にかけて培われた技術を頂くのだから、私達もその恩に報いなくてはね」
 そう話し、この年若い王は何某かの資料を見ることもなく、具体的な物資の内容を挙げていく。恐らくは国庫の中身から、想定される難民の頭数まで、彼の頭の中には克明に記録されているのだろう。
 この帝王はよく学ぶ。書を読み過去の賢人達の施政を学び、国内外を問わずに自らその地へ赴いては、土地と時代を学び帰す。今日は見知った顔ぶれの多いこの『談話会』も、時には無作為に声をかけられた下位官達が円卓に座し、王の御前で討論を交わす場になることがあり、そこで交わされる官位や職務領域を越えた意見から、王は国民の心を学ぶ。
 ふと顔を上げれば、自然な姿でこの円卓に座す主と目があった。王が常と同じく微笑むのを見て、男も一度礼を取ると、こう言葉を繋げる。
「先程エイル殿から報告のあった、ダンルース王騎兵の焦土作戦についてですが、時期によっては食い止める方法があるかも知れません。ダンルースとサルディアの国境より手前にはミーファリア山脈が連なっていますが、雪解けの時期にはこの山脈より下る二条の河川が増水します。これを一時的に堰き止め、上手く利用してダンルースの足を止めることが出来れば、サルディアに大きな貸しが作れるでしょう」
 この王は、自国の領土拡大を好んで進める事をしない。だが諸国との交友を深めることには貪欲だ。男が言えば、王はまた小さく頷いて、男とエイルへ目配せした。
「ではいざという時のために、騎士団と共にその準備を進めてくれ。しかし、――やはり、君を治水担当から法務官へ引き抜いてしまったのは、少し勿体なかったかも知れないね。君ほど我が帝国と、それに隣接する国々の地理を把握しきっている人間は、恐らく他にいないだろう」
 唐突にしみじみと語られたその言葉に、男は思わず苦笑する。そうしてまた頭を垂れると、「何事も、御意のままに」とそう告げた。
(貴方に望まれるのならば、どのような職務もこなしてみせましょう。そうすることでしか私には、――この身に受けたご恩を、お返しすることなど出来ないのですから)

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