廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

009:星空を追う -2-

「あの莫迦が、どこをほっつき歩いてやがる」
 低い声で、毒づいた。
 厚い外套の裾を震わせる、木枯らしの音が響いている。そんな中を一人歩きながら、クラウスはまた握りしめた拳に力を込めた。
 広場でウィルの手配書を見つけ、レオナルドと手分けして探すことになったのが、既に二時間も前のこと。急ぎファーマティカに潜伏させている仲間へ連絡を取り、ファーマティカの駅、広場、電信局等ウィルの立ち寄りそうな場所全てへ人員を配置し、見つけ次第鳩を飛ばすようにと指示をしておいたのだが、いまだに良い報せは届かない。
 辺りを睨み付けるように見回せば、すぐ隣をすれ違った男が怯えた様子を見せ、そそくさとその場を立ち去っていく。それを見ながら、しかし構わず、一つ大きく舌打ちをした。
(ああ、……くそっ)
 アビリオの街で『蛇』の気配を目印に探した時や、警官に捕まり連行される先がグラダだとわかってそれを追いかけた時とはわけが違う。このファーマティカは、人口だけでもアビリオの七倍はある大きな町だ。学術機関の建物はどれも大きく構えており、それらを中心に広がる居住区は、アップダウンの激しい丘陵地帯にある上、重なる建て増しや補修でいやに道が入り組んでいるのだ。下水に沿って地下道まであるようだと聞いた時には、流石のクラウスも眩暈を覚えた。
(アビリオで散々蛇に追い回されて、少しは自分の立場を自覚したかと思ったのに、……広場の奴等の話じゃ、手配書が貼られる直前に野良犬を追いかけて行ったとかなんとかと聞いたが……。結果的に警官からは逃れられたのかも知れないが、勝手に広場を離れて、後で合流できなくなるとは思わなかったのか。一人のまま陽が暮れて、『蛇』にまた襲われるとは少しも考えなかったのか? そこまで莫迦か。考え無しか。あの冷静沈着、怜悧な帝王サマは、生粋の莫迦に生まれ変わっておいでなわけだ)
 心の中で悪口雑言に罵って、商い通りを足早に進む。視界の開けた高台の下に、細い運河を見れば自然と、アビリオで初めてウィルを見た、あの晩のことが思い出された。
 現世で覚醒してからのおよそ二十年間、クラウスが探し続けたその『セドナ』は、ボハイラの蛇に捕らわれ顔面蒼白になってそこに居た。だがそれをようやく見つけだしたという感慨に浸る間もなく、その人物が黒々とした水底へ落ち、少しも浮かんでこないのを見て、こちらがどんなに肝を冷やしたことか、あの少年は少しも考えていないのに違いない。
(指名手配をされていることに気づいているなら、大通りを暢気に歩くことはしないだろう。だが路地裏を探すにしても、これじゃあ埒があかないな)
 いっそ警官隊の駐屯所で、待ち伏せでもしていてやろうか。警官達に探させておいて、ウィルがしょっ引かれたところを攫えばいいのだから楽な話だ。ただそうこうしている間に、ウィルがボハイラの蛇と接触してしまえば元も子もないが、――。
 苛々と歩みを進めるクラウスのすぐ隣へ、犬を連れた女性が通り過ぎていく。産業の発展によって富裕層が拡大したために、最近では、金をもてあました市民達がこぞって小綺麗な犬猫を飼うのだ。高価な布で仕立てた服を着せ、美しく毛並みを整え、どちらが主人か区別の付かない事もざらにあると聞いている。ご多分に漏れず豪奢な首輪を付けたその犬を、というよりも、その犬が付けた首輪をじっと見ていると、飼い主らしき女は何を勘違いしたものか、にこりと笑顔で会釈した。
(そうか。首輪……というより、手綱でもあれば、こう何度も探し回らずに済むのか?)
 思わず眉間に皺が寄る。クラウスと目をあわせた犬が、怯えた様子で座り込む。それを見た飼い主が、不思議そうに首を傾げる一方で、クラウスは心中舌打ちした。
(駄犬が。犬ならせめて、吠えてかかれ)
 腰抜けが、と毒づいて、また不機嫌に歩き出す。しかしそうしていくらか進んだところに、何やら見知った人影を見た。
「……、レオナルド?」
 普段ならば泰然自若とした態度を崩さないその少年が、ぜえぜえと肩で息をして、道の端に立ち尽くしている。呼べば相手もようやくこちらに気づいた様子で、「クラウス、」と呟くように呼んでから、呼吸を整えきらずに咳き込んだ。
 全力疾走でもしたのだろうか。体はすっかり子供のくせに、ちっとも外へ出ないものだから、相も変わらず体力がない。
「そんなところで、何してる」
 問いながらも、既に答えは内に得ていた。この少年が頬を火照らせるほど駆けるだなんて、余程のことがあったに違いない。自身が『蛇』に追われでもしたか、そうでなければ、――
「ウィル様を、お見かけしたんです」
 ようやく息を整えたレオナルドが、慌てた様子でそう言った。
「マナの色合いまでは、微弱で関知できませんでしたが、恐らく間違いないと思います。巡礼者の外套を身につけて、警官隊から逃げていらっしゃる様子でした。私も後を追ったのですが、どんどん引き離されてしまって、」
 そう言ってからこの少年が、ぽろりと涙をこぼしたのを見て、クラウスは思わずぎょっとした。感情を表に示すなど、普段のレオナルドにはあるまじきことだ。だが困惑しながらも、「追いつけなかったのが、泣くほど悔しかったのか」と問えば、彼は首を横に振り、「嬉しかったのです」とそう言った。
「私が最後にお会いしたセドナ様は、マナを奪われ衰弱しきっていらっしゃいましたから……」
 「飛ぶように駆けていかれるのを見たら、胸が詰まってしまって」と語るその表情は、どうやら真剣そのものだ。
(ああ、……これだから、あの帝国の連中は)
 長年の王の不在ですっかり忘れかけていたが、『彼ら』はいつもこうであった。そんなことを思い返して居心地悪く腕を組み、しかし何も知らない警官隊がすぐ隣をすれ違っていくのを見送ると、クラウスは大きく溜息を吐く。
「『飛ぶように駆ける』ほどに威勢の良いのが、裏目に出なきゃ良いんだが」
 
 * * *
 
 背後に聞こえたその声に、思わず表情を曇らせる。よく聞き覚えのある声だ。
 ああ、――面倒な人間に見つかってしまった。そう独りごちながら、イレーネは小さく溜息を吐いた。
「天才女流天文学者の異名を持つ女史は、『夜空の下での』行いにしか、興味をお持ちでないものと思っておりましたが」
 嫌々ながらも振り返れば、思った通りの人物が、数人の取り巻きを伴いそこにいる。にやにやと下卑た笑みを浮かべてそう言ったのは、イレーネとは別の学派に属する天文学者の、ディンガー博士である。
 次から次に性能の高い観測機を仕入れては、その性能に任せた研究を中心に行うこの博士は、どうやら古天文学から得たデータを元に地道な計算を繰り返す、イレーネのやり方がお気に召さないらしい。今までに何度か、既に発表されていた彼の学説が――観測機の性能が、というより、彼の杜撰な計算のために――イレーネの研究によって覆ってしまった事があり、こうして顔を合わせる度に何かと嫌みを言ってくるのだ。夜空の下で云々という言葉はようするに、イレーネが色目を使って学会を都合の良いように動かしているとでも言いたいのだろうか。
「ごきげんよう、ディンガー博士。残念ですが私の興味のあるのは、『夜空で』起こる事象だけですわ。……用がありますので、今日はこれで」
 低俗な喧嘩を買う気はなかったが、さらりとそれだけ答えてから、目もあわせずに相手の脇を通り過ぎた。こんな男に構うより、今はクラウス・ブランケという名の青年を捜さなければ。しかし立ち去ろうとした瞬間、
 唐突に目の前へ突きつけられたその紙面に、思わず短く、息を呑む。
「連続放火に警官殺害。そして逃亡。まだ年端もいかないのに、随分色々とやらかしているようだ。昼頃からこの辺りで話題に上っている、ウィル・ドイルホーンとか言う少年の事、……女史は何か、ご存じですか?」
 直後、無遠慮に腕を掴まれて、相手を睨み付けるように振り返る。そうして初めてイレーネは、男の引き連れた取り巻きの内の一人に、見覚えのある顔が紛れていることに気がついた。
――依頼人には、少し痛い目を見せてやれと言われてるんだがね。あんたみたいな美人が相手なら、こういう痛めつけ方のほうがよっぽど楽しめるよな。
 路地裏にイレーネを追い詰めて、下卑た笑みを浮かべたあの男だ。
(そうだ、この人は、……私がウィルさんと一緒に逃げたのを知ってる)
 ひやりとした思いが背筋を抜けたが、それが表情に表れぬよう、咄嗟に奥歯を噛みしめる。そうしてから、出来る限りなんでもないような様子を装って、ディンガー博士の差し出した手配書を受け取ると、「何のことだか」と静かに呟いた。
 胸の内が緊張に、早鐘のように鳴っている。落ち着こうと努めるのに、煩わしい鼓動の音が、どうにも思考をかき乱す。
(落ち着きなさい、落ち着くのよ。この男だって、白昼堂々と人を襲おうとしたことなど、明るみにはしたくないないはずでしょう)
 小さく一つ息を呑み、まずは手配書を突き返す。「存じ上げませんわ」と言えばにやにやと、ディンガー博士がまた笑う。
「ああ、そうでしたか。いや、そうでしょうとも。女史のような聡明な方が、このような厄介者と関わりを持つなど考えられないことです。ですが、ねえ、……もし何か『あらぬ噂』がたっては困るでしょう。家庭も捨て、女性としての愉しみも捨てて学徒としての道を選ばれた女史でいらっしゃる。この上、研究の場まで失うようなことになれば」
「……、何を仰りたいのか、わかりかねます」
「簡単な話です。法を犯し人を殺した殺人鬼が、私達の町へ潜伏している。ならば我々一市民も立ち上がり、捜査の協力をするべきでしょう。実は我々は既に、この少年と接触したらしき人物の名を得ていましてね。その情報を警官隊に伝えても良いのですが……、もしこの少年の居場所がわかるなら、この少年自身を掴まえればいいわけですから、接触者のことはとくに明るみに出す必要はないと、そう考えているのです」
 博士の笑みが、また色を増す。しかしかえってイレーネは、彼が話せば話すほど、自身の緊張が薄れていくことに気づいていた。
 つまり彼は、イレーネがウィルの情報を話すのであればウィル自身を捕らえに行き――その場合、恐らく狙いは彼にかけられた手配金であろう――、話さないようであれば、つまり彼を擁護するのであれば、イレーネを警官隊へ突き出すつもりであると、そう言っているのだ。
(浅ましい)
 心の中で吐き捨てて、一つ小さく溜息を吐く。
 悪漢を寄越してきたかと思えば、次はこう出てくるとは。ウィルという少年の情報を流してやる気など毛頭無いが、それにしたってこの程度のことで、イレーネの弱みを握ったつもりでいるのだろうか。
 真っ当な研究者であれば、研究の場でこそ戦うべきであるとは、少しも考えないのだろうか。
 小さく、細く、息を吐く。視線を上げれば視界の端に、例の手配書が見えていた。
 意図したわけではないのだが、思わず少し、吹き出してしまう。あの無邪気そうな少年を、人の悪意というものは、こんなにも凶悪な顔に仕立て上げる。それが何故だか今になって、やけに滑稽なことと思われたのだ。
 そうして笑ったイレーネを見て、相手は明らかに調子を崩されたという顔をし、それから一つ、咳払いする。イレーネはあくまでも朗らかな口調で、無邪気を装い、こう言った。
「それはご苦労なことです、ディンガー博士。私も一市民として、博士の大捕物のお話しをうかがえる日を楽しみにしておりますわ。……けれど最近は何かと物騒ですから、くれぐれも、お一人の時にはお気をつけて。都合の悪い学説を消し去ろうと、学者を狙う悪漢が、町に潜んでいるようですから。特に、夜は……」
 一度言葉を途切れさせ、取り巻き達へも目を配る。
「今晩のように月の細い日は、観測日和でもありますけれど。……闇を増すのは、夜空ばかりではありませんものね?」
 うっすら笑ってそう言えば、相手は口を真一文字に結び、それからそそくさと、取り巻きを伴い去っていく。小気味よい思いでそれを見送ると、イレーネはまた一つ、静かに大きく息を吐いた。
――家庭も捨て、女性としての愉しみも捨てて学徒としての道を選ばれた女史でいらっしゃる。
(そうよ。私に残ったのは研究だけ。他には何も、……いいえ、その研究だって、それ程欲していやしなかった)
 そんな自分が、出会ったばかりの少年のために、こうして方々を歩き回っている。それを知ったらディンガー博士は、さぞ驚くに違いない。
 広場を抜けて、道へ出る。「陽が落ちる前には」と心底困り果てた表情で、ウィル・ドイルホーンが話していたのを思いだし、空を見上げたが、まだ陽は煌々と輝いていた。
「陽が落ちる前には、なんとしてでも連れと……クラウスと合流しなきゃいけないんです。ああ、でも、逆に」
 そう言って、少年は一度、深々と溜息を吐いた。
「嫌だけど、絶対嫌だけど、でもいっそ陽が落ちた後の方が、向こうからは探しやすいのかな」
 その言葉の真意は、イレーネには預かり知れぬところであった。しかし無実の罪で警官隊に追われている今、一刻も早く知人に合流したいという思いは確かであろう。
 そんな事を考えながら、ふと視線を脇へと向ける。そうしてイレーネは、思わずその場へ足を止めた。一瞬我が目を疑うが、どうやら見間違いではなさそうだ。見覚えのある後ろ姿。古びた巡礼用のマントは、イレーネが彼に与えた物だ。
 道の脇からひょこりと顔を出し、電信局の方を覗き見ている人影がある。
「ウィルさん――!」

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