廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

008:星空を追う -1-

 かつん、かつんと広い廊下に、一つ足音が響いている。そんな中を、一人の男が歩いていた。
 すらりとした長身に、飾り気のない長衣を纏っている。長い髪は乱れる様子もなくすっきりと官帽の中へ収められ、いくらか細すぎの感のある腕はそれでも、大量の書物を危うげなく抱え込んでいた。
 その襟元には官位と共に賜った、銀の釦が輝いている。
(私をお呼びとは、一体何のご用だろうか)
 使いの者に言われるまま、荷もそのままで駆けつけた。せめてこの書類だけでも、どこかへ置いてから参じるべきであっただろうか。だがもう一度思案して、彼は首を横へ振る。今手がけている事案には、機密事項も多分に含まれている。執務室へ書類を置きに戻るのには些か時間がかかることでもあるし、やはりこのまま、まずは用件だけでも確認しに赴くべきであろう。
 慣れた足取りで廊下を通り過ぎれば、やはり見慣れた部屋へと続く、荘厳な扉が見えてきた。戦の神ラシアムと、豊穣の神ファラーシェンの見つめ合う姿を彫刻した扉飾りの下に立ち、慣例通りに目を伏せる。自らの眉間に指で小さな円を描く動作をし、主への忠誠を示すと、重いドアノブに手をかけた。
 この扉をくぐる度、彼は必ず、初めてそれをくぐった時の事を思い出していた。或る失意の夜の事。あの時は、扉に棲まう二人の神々の射る視線の恐ろしさに、独り、身震いしたものであった。
「失礼いたします。私をお呼びとうかがいましたが、――」
 深く頭を垂れ、顔を上げれば、既に幾人か先客がいるのに気がついた。その内の一人は彼の手に持つ書類を見るや、あからさまに顔をしかめ、「今日は非番じゃなかったのか」とまず尋ねる。休みの日に男が何をしていようが知ったことではないだろうに、蒼天色の衣を羽織り、一つに縛った長い髪を獣の尾のように垂らしたこの青年は、何故だかやけに不満げだ。
「懸案事項がいくらか、残っておりましたので」
「だからって、わざわざ書類を持ってこなくても。大体お前、官服まで着込んでるじゃないか」
「お前もたまには、それくらい仕事熱心になってもいいんだぞ、イム」
 笑って言葉を挟んだのは、窓辺から外を眺めていた騎士隊長である。建国以来初めての女性騎士隊長である彼女だが、今日は官位を示す勲章の一つも身につけていない。そのせいか、普段議会で顔を合わせる時よりも、いくらか小柄に見えている。
 彼女が悪戯っぽい笑みを浮かべるのを見て、イムと呼ばれた青年は、不満の色を濃くしてみせた。
「エイル、余計なこと言うな。そういう話になるから嫌なんだ」
 朝議の頃には文武神官の面々で賑わう王の間に、今は数人の見知った顔だけがある。そうしてその中心には、――彼らにとって唯一の、この国の、この王の間の、たった一人の主が座していた。
 奥に立つ壮年の神官が、穏やかな笑みで目配せしたのを見て、男がもう一度、恭しげに頭を垂れる。
「お待たせして申し訳ございません。何かご用でしょうか。――セドナ様」
 モロスの丘の神殿から、刻告げの鐘の音が鳴る。
 まるで空の燃えるような、去る夕焼けの日のことであった。
 
 * * *
 
(赤褐色の髪、……背は高くて、歳は二十五……)
 先程聞いた特徴を、脳裏で幾度か反芻する。そうして辺りを見て回り、イレーネは小さく溜息を吐いた。
 ファーマティカの中心部に位置する、秋に賑わうルシア広場。あちらこちらのベンチに座り、あるいは笑い、あるいは語らう人々の中を、何度通り抜けた事だろう。しかしそうしていくら辺りを見回しても、目当ての人物は見当たらない。
――私が広場へ行ってお連れの方を探しますから、ウィルさんはその間、近くに隠れていてください。
――ウィルさん、どうかお手伝いをさせてください。あなたに助けていただいたからなのか、私、あなたのお役に立ちたいんです。
 自ら口にした言葉を思い出し、きゅっと掌を握りしめる。そうして広場に貼り出された人相書きを睨め付けると、彼女は一つ、短く息を吐いた。そこかしこに貼られたその人相書きには、見覚えのある少年が、わざとらしい凶悪さを孕んだ表情で描かれている。
(この人相書き、雰囲気は随分違うけれど、顔の特徴は掴んでいるわ)
 ウィル・ドイルホーンと名乗った少年が、何も知らずに顔も隠さず、もしも広場へ戻っていたなら。恐らくすぐに見つかって、今頃はきっと、警官隊へ捕らえられていたことだろう。そう考えればイレーネまで、なにやら背筋が粟立った。
(工業地帯での連続放火に、警官の殺害、それに逃亡……)
 あの少年が、どこまで自分の立場を理解しているかはわからない。だが無実が証明できないまま裁判にでもかけられれば、現行の法では恐らく強制労働を伴う終身刑、悪ければ、――最悪、死刑の可能性もある。
 きゅるきゅると腹を鳴らしながら、真っ赤になった顔を隠すように俯いた、あの少年のことを思い出す。アビリオの警官に罪をなすりつけられ、はるばるファーマティカへまで逃げてきたのだと話した姿を少しでも知る者ならば、彼に手配書にあるような罪が犯せようとは、到底思わないだろう。
(素直そうな人だったわ。折角逃げてきたこの町で、警官に捕まっては可哀想――)
 そう考えてもう一度辺りを見回してから、しかしイレーネは、また大きく溜息を吐いた。自分に任せてほしいとは言ったものの、先程からどこを探してみても、目当ての人物――クラウス・ブランケらしき人物が、広場に見当たらないのである。
(この広場へ来たのなら、きっとウィルさんの手配書は見たでしょうし、……ウィルさんがここへは戻らないと考えて、他の場所へ探しに行ってしまったのかしら)
 これだけ探しても見つからないのであれば、その可能性も検討はしておくべきであろう。しかしそれならそれで、何かしらの手がかりを残していってほしいものだ。このファーマティカの町は研究者や商人が各地から移り住んでくるために人口も多く、地元の者ですら、待ち合わせ場所を離れては目的の相手を見つけ出すことなど困難な場所だというのに。
 胸を過ぎった苛立ちに、小さく深い息を吐く。だがそうして視線を広場から壁に貼り出された手配書へ向け、
 イレーネは、ふとその場へ立ち止まった。
――でもそんなことをしたら、イレーネさんまで何かの罪になるんじゃ。
 もうすっかり青ざめて、咄嗟にそう問うた少年の声を思い出す。アビリオの街の凶悪犯。その逃亡を手助けしたと知れれば、確かに、イレーネにとって不利なことになるのは目に見えていた。
(逃亡幇助だもの。そうと知れたら罰金刑かしら? 悪ければ、学位剥奪くらいにはなるかもしれないわね。……)
 淡泊にそう考えて、また周囲を見回した。ふと通りの向こうの窓ガラスに自身の姿が映ったのを見て、思わず自分に笑ってしまう。こうしてたった一人の少年のために歩き回る自分自身が、何故だか、――いやに活き活きとして見えたのだ。
 悪漢に襲われたところを、偶然彼に助けられた。だがたったそれだけの、見ず知らずの少年に、何故こうまで協力しようとしているのだろう。
(こんな事に巻き込まれるだなんて、昨日まで……、いいえ。ウィルさんと出会うまで、考えてもみなかったのに)
 何故だか心が浮ついた。初めて覚える高揚感に、そわそわとして、落ち着かない。
(どうしてこんな風に思うのかしら。……ううん、今は、どうにかしてウィルさんを逃がすことだけ考えましょう。もしその事を咎められたとしても、罰金刑だろうが、学位剥奪だろうが、別に構わないじゃない。迷惑がかかる家族がいるわけでもないし、学位だって、それ自体に執着があるわけではないもの)
 学生の頃、家の都合で結婚をした。相手は生真面目な性格の物理学者であったが、そんな彼の不倫が発覚したのは、形だけの結婚から一年も経たない頃のことだ。男と離婚をするのと同時に、実家との縁もふつりと切れた。残されたのが、学生の頃から続けていた天体の研究だけであったから、イレーネもそれに没頭したが、女の身で学問を続けたところで博士の位に就けないことはわかっているし、今の学位を失っても、自分の生活を守れるだけの研究は、恐らく続けていけるだろう。
 イレーネが天体に興味を持った理由は、実のところ、天体そのものへの純粋な探求心や好奇心とはかけ離れていた。研究とその成果は彼女を生かしたし、形だけの結婚生活より余程、胸の空虚を紛らわせてくれたから、ここまで続けてくることができた。だが、それだけの話だ。
「……、星になりたい」
 声にならない、小さな呟き。あの少年を助けることは、何故だか、今までにも幾度も繰り返した、この呟きを唱えることと似て思えた。
――星になりたいな。
 随分昔、耳に届いた穏やかな声。それが誰のものだったのか、いつ、どんな場でそれを聞いたのかも覚えてはいないのに、しかしその声を思い出す度、イレーネの心はざわついた。
(ウィルさんがあの声の主だとしたら、この気持ちにも説明がつくのかしら。……ふふ。だけど、そんな事があるわけないわね。私より、ウィルさんの方がずっと年下だもの)
 声の主を見つけ出したい。かつてはその一心で、子供の頃に出会った誰かの言葉だろうかと、幼少期に住んでいた地域を探し歩き、それでも見つからないとなると、今度は天文学を学び始めた。そうしたところで探すその人の手がかりになるとは到底思えなかったが、「星になりたい」そう聞いた言葉だけが、イレーネとその相手とを結びつける、唯一の手がかりだったからだ。
 研究の成果を認められても、肉親との縁が切れても、彼女の世界は空虚であった。けれどその声が、
 たった一つ記憶に残った、誰のものとも知れぬ声だけが、イレーネの心を彩ってきた。
 一度ちらりと手配書を見て、今度は電信局へ向けて歩き始める。クラウス・ブランケは元々、電信局へ立ち寄るためにウィルと離れたのだと聞いている。こうして広場になんの手がかりも見つけられない以上、彼が立ち寄ったはずの電信局へ行ってみるのも良いだろうと、そう考えたからだ。
 しかしそうしてイレーネが歩き始めた、その時だ。
「おや、アーベライン女史ではありませんか。――真っ昼間にこんなところでお会いするだなんて、珍しいこともあるものだ」

Tora & Thor All Rights Reserved.