廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

007:逃走

 昼を過ぎたファーマティカの町に、ひゅるりと冷たい風が吹く。もうすっかり北風の吹き始める時期になったのか、と何某かの物寂しさを感じながら、ウィルは顔を隠すように、頭から被った巡礼者用のマントをまた整えた。
 辺りの木々から落ちた葉が、足下でまた渦を巻く。それが開け放たれた教会の門を越え、敷地の外へと飛ばされていくのを見送ると、小さく深く溜息を吐いた。ここで待つようにと言われたが、いつまで待っても期待した人物の影は見られない。こちらへ近づいてくる馬の蹄の音が聞こえたのに気づき、ひょいと教会の門の影から顔を出してみても、見知らぬ馬車がただ目の前を通り過ぎただけであった。
「はあ……。お前はお気楽でいいよなぁ」
 すぐ隣に蹲ったスターが緊張感無く欠伸をしたのを見て、思わずぽつりとそうぼやく。意にも介さず振り向きもしないスターの頭をぐりぐりと押せば、わふっと不満げな声がした。
 
「俺が、……指名手配犯……?」
 イレーネの家で見た手配書に、ウィルは一気に青ざめた。じわりとにじむ惨めさをよそに、思考はそれでも冷静なまま、自らの身を省みる。ボハイラの蛇が起こした、アビリオでの連続放火事件。ウィルを放火犯としてグラダの収容所へ搬送しようとした道中、ボハイラの蛇に襲われ命を落とした警官達の事。『蛇』から逃げおおせる事にばかり気を取られてすっかり失念していたが、考えてみれば、確かに二人の警官はウィルの搬送中に謎の死を遂げ、放火犯の容疑者であるウィルは、現場から忽然と姿を消したのだ。
 それにしたって。
(つまり、俺はこれから……『蛇』だけじゃなく、エンデリスタの警官隊からも逃げ続けなきゃならないってことか?)
 こうなってしまうと最早どこにも、ウィルの落ち着ける場所など無いようにすら思われる。いつかは帰りたいと思っていたアビリオの街ですら、ウィルのことなど歓迎してはくれないのに違いないと、卑屈な思いが脳裏を占めた。
 ファーマティカにまで手配書が出回っているということは、アビリオの街の人々も、当然手配のことは承知しているはずだ。ウィルの知人達はこれを見て、一体どう思っただろう。親方を始めライジア印刷所の同僚達に、迷惑がかかってはいないだろうか。
――追い詰められれば、王の力を取り戻すかと思ったが。
 ほくそ笑んでそう言った、鷲鼻の警官の言葉が冷たく腹に落ちていく。そうだ。警官隊の中には、ナールと呼ばれたあの男――『蛇の手』が潜んでいるのだ。ウィルを追い詰めるために裏で手を回すくらい、きっと容易いことなのだろう。
「ウィルさん」
 戸惑いがちにそう呼ぶ声に、ぎくりと肩を震わせる。見ればイレーネが、青い顔をして息を潜め、じっとウィルの様子を窺っていた。
「あの、これは、……その」
 咄嗟に、手配書をぐしゃりと丸め込む。しかし思わずそうしてから、すぐに自分に舌打ちした。今更そんな風にして手配書を隠したところで、一体何の意味があるというのだ。
 突然こんな手配書を見せられて、彼女もさぞかし驚いたのに違いない。それなのにいまだに警官隊が乗り込んでこない事から考えると、彼女はウィルの居場所を知りながら、通報せずにいてくれたのだろうか。
「……、すみません。俺、すぐに出て行きますから、イレーネさんに迷惑がかからないようにしますから、……だからどうかこのまま、警官に通報するのだけは、」
 やっとの事で言った声が、掠れていた。思わず伏せた視線の先に、手配額がちらりと見える。ここでウィルを通報したなら、彼女にもいくらか分け前が入るのだろうか。そんな事を思いながら、じりじりと後ずさろうとして、
 不意にウィルの肩へ添えられたその手に、ごくりと静かに生唾を飲む。イレーネの手だ。彼女はじっとウィルを見て、まず、ぽつりとこう問うた。
「ここに書いてあること、本当ですか?」
 問いただすでもなく、詰るでもない穏やかな声。
 気づかぬうちに、伏せていた顔がふと上がる。何かを見透かそうとするかのようなイレーネの目と、目があった。
「ここに書いてあるような酷いことを、本当に貴方がやったんですか?」
――ここ最近、アビリオの街で相次いだ不審火は全て、ボハイラの蛇がお前を捜すために起こしたことだ。
 脳裏に響いたその声に、ほんの一瞬、言葉が詰まる。それでも。
「違います」
――お前の意志にかかわらず、これからもボハイラの蛇はお前を狙うだろう。その度にまたこういう事が起きる。何度でも。
 きゅっと口元を結び、大きく首を横へ振る。
 クラウスの言葉は幾度も脳裏を過ぎったが、それでもウィルは譲らなかった。大昔の帝国の事も、そこから現世へ転生したという人々の事も、ボハイラの蛇の存在も、……起こる事件の何もかも、ウィルにとってはつい数日前まで知るよしもなかった事柄ばかりだ。今だって全てを信じられたわけではないが、こうして巻き込まれてしまったことを不運に思いこそすれ、それらに関することでウィルが責められるのは、お門違いだ。
 お門違いだ。そう思えた。
「違います。放火も警官殺しも、俺はやってません」
 自分はあくまでも被害者なのだと、そう思うことで楽になった。
 イレーネの目が、じっとウィルのことを見ている。しかし彼女はふとその視線を逸らすと、思案を巡らせるように胸へ手を当て、続けてウィルにこう問うた。
「お連れの方と待ち合わせをしていらっしゃるのは、ルシア広場でしたよね」
 その問いが何を意図してのことなのか、ウィルにはすぐにわからなかった。
「はい。そうですけど、……」
「こんな住宅街にまで手配書が配られたくらいです。広場では恐らく、もっと大々的に手配のことが告知されているはず。私が広場へ行ってお連れの方を探しますから、ウィルさんはその間、近くに隠れていてください」
「えっ? ――でもそんなことをしたら、イレーネさんまで何かの罪になるんじゃ」
 言いかけたがしかし、それ以上は言葉が続かなかった。イレーネが何やら吹っ切れた様子で、にこりと一瞬微笑んだからだ。
「ウィルさんは無実なのでしょう? でしたら、私はその言葉を信じます。ウィルさん、どうかお手伝いをさせてください。あなたに助けていただいたからなのか、私、あなたのお役に立ちたいんです」
 
「今日はミサもありませんから、人の出入りは少ないはずです。なるべく早く戻りますから、必ず、ここで待っていてくださいね」
 そう言ってウィルを教会の庭に待たせ、颯爽と立ち去ったイレーネは、あれから一体どうしただろう。はたして、クラウスを見つけることは出来ただろうか。そんなことを考えながら、ウィルは足下に溜まった枯れ葉を、意味もなく足で寄せてみた。しかしそうするそばから枯れ葉の山は、風に吹かれて瓦解する。見れば、前の住人の持ち物のようだと言って、イレーネがアパルトマンの物置から引っ張り出してきたマントがひらひらと揺れるのを、スターも退屈そうに眺めていた。
(……。イレーネさん、まだかな)
 初対面の女性を働かせておいて、自分はこうして暇をもてあましているというのはあまりに申し訳ない話であったが、この所在なさは如何ともしがたいものがある。印刷所に勤めていた頃はいつでも時間との戦いであったから、いざ暇を与えられると、身の置き場を失ってしまうのだ。
 教会の門の内側に立ち、ちらちらと外を覗き見る。イレーネが言ったとおり、昼下がりのこの教会へ立ち寄る人の数は少なく、たまに訪れる人々は、大抵が年を重ねた老人であった。彼らは巡礼者の出で立ちをしたウィルを見て、会釈だけをして去っていく。
 そうしてウィルが何組目かの来訪者を見送ると、むくりと、隣に伏せていたスターが顔を上げた。
「どうした?」
 期待を込めてそう問うても、勿論応える声はない。スターはウィルのことなど構う様子もなくじっと教会を見つめると、しかしまたやれやれと、その場へ伏せて欠伸をする。
「なんだよ。イレーネさんが帰ってきたかと思ったのに」
 しゃがみ込んでそう言えば、その瞬間、また一段と強い風が吹いた。北風だ。
 寒気に首を竦め、巡礼者のマントを羽織り直す。風に遊んだフードを押さえれば、ウィルの周囲に枯れ葉が舞った。
 視界を遮るその舞に、顔をしかめて目を伏せる。数枚の葉がウィルの頬を引っ掻いて、身軽に空へ飛翔した。咄嗟に止めた息が苦しい。しかしウィルが枯れ葉を払い、一息をつこうとした、その瞬間。
「信心深い巡礼の方。ここはお寒いでしょう。よろしければ、会堂の中へどうぞ」
 背後から、やけに穏やかな声がした。
 それがウィルに向けられた言葉だと、気づくのに少し時が要った。しかし相手がウィルのまとった巡礼者のマントを見てそう言ったのだと気づき、慌てて振り返れば、そこに一人の少年が、笑みを浮かべて立っている。
 声は落ち着いたものと聞こえたが、見たところ、ウィルより随分年下だ。線の細い色白の少年は、しかし包容力すら感じさせる立ち居ですぐ目の前の建物を指さすと、「そこに」と続けてこう話す。
「あまり広くはありませんが、巡礼の方に向けた宿泊施設も用意があります。ご希望があれば私から、この教会の司祭様に使用の許可をお願いすることもできますよ」
「えっ? ああ、その、ありがとう。でも俺、ええと」
 助けを求めるかのように、ちらりとスターを見下ろした。しかしスターはまた一つ、退屈そうに欠伸をしただけだ。
「あっ。そうそう、人と待ち合わせをしていて! だから、お気遣いは嬉しいんだけど」
 「そうですか」と言った少年は、しかしすぐにはその場を離れず、またちらりとウィルを見る。その目が何かを問いかけているように感ぜられ、まずいとは思いながらも、ウィルはそろりと顔を背けた。
(……、何か、不審がられている気がする)
 どうやらファーマティカの町中に配られたらしい手配書は、恐らくこの教会にも届いているはずだ。ウィルの見た手配書には、ウィルの名前と年齢、性別と、ざっくりとした外見特徴しか載ってはいなかったはずだが、勘の良い人間なら、あれだけの情報でも何か気づくことがあるかもしれない。
「ファーマティカの町は、初めてですか?」
 見た目の割にはやけに落ち着いた感じのある少年が、穏やかな声でそう問うた。
「うん。まあ、……初めて、かな。君は、ここの教会の人なの?」
「いいえ、私はハラバンにあるダリアース教会の修道士です。ファーマティカへはある方をお迎えにきたのですが、行き違いになってしまったようで、ここへは人捜しの協力を求めに来たんです」
 そう言葉を切った少年は、じっとウィルのことを見てから、そろりと一歩踏み込んだ。どうやらフードの中を覗き込もうとしているようだと感じたウィルが、反射的に一歩後ずさると、相手はきらきらとした青い眼を瞬きさせて、「すみません」と謝罪する。
「私の探している方と、貴方が似ているような気がして。……申し遅れましたが、私は『カランドル』と申します。失礼ですが、貴方のお名前は」
 『カランドル』。何やら聞き慣れない響きの名だ。しかしそんなことを思いながら、ウィルはまた一歩後ずさる。
「俺はその、名乗る程の者ではなくて」
 例の手配書に、ウィルの名前が載っていた。ここで名乗れば、すぐに通報されてしまうだろう。そもそも、この少年の探し人が、ウィルということはないはずだ。ウィルにはこの町に、クラウスとイレーネ以外の知り合いなどいないのだから。
(でも、名乗らないと怪しまれるかな。何でも良いから何か、偽名を……)
 必死になって考えるのに、頭の中が真っ白だ。そうしてまた後ずさるウィルは、少年が何かに思い当たった様子で、「あっ」と小さく言葉を零したのに気づかなかった。
「答えにくければ、名乗られなくても構いません。ただ、もしかすると貴方は、」
「――く、クラウス、です」
 咄嗟に思いついた名を騙れば、相手はきょとんとした顔で瞬きした。しかし『カランドル』が何かを問い返そうとしたその瞬間、
 今まで退屈そうに伏せていたスターがむくりと立ち上がり、わん、と大きく外へ吠えた。つられてスターの視線を追えば、通りを挟んだすぐ先に、見覚えのある制服を着込んだ一団の姿が見えている。
(警官隊……!)
 手に手に手配書を掲げ、隊を組んで町を歩くその姿を見れば、自然と背筋が粟立った。
 唸り声を上げるスターの鼻先へ手をやり、黙らせると、またそろりと後ずさる。警官隊の一人が、ふとこちらへ顔を向けた。その目とウィルの視線があう。警官隊がはっとした顔をしたのを見て、
 ウィルは、一目散に逃げ出した。

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