廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

006:暗闇の風景

 「よかったら、昼食を食べて行かれませんか。すぐに用意しますから」ようやく息を整え、微笑んだイレーネがそう言ったのと、ウィルの腹がまた情けない悲鳴を上げたのとは、ほぼ同時の事であった。
 一刻も早く、クラウスの待つ広場へ戻らなくては。その思いは勿論脳裏にあったのだが、彼女の切れ長の目が遠慮がちに微笑むのを見るにつけ、暖かい食べ物を連想させる鍋を見るにつけ、ついに断り切れなくなったウィルは、彼女の家で一杯だけスープをご馳走になってから、広場へ戻ることにした。
(まだ昼間だし、……大丈夫だよな。『蛇の手』にさえ見つからなければ良いんだから。それにすぐに外へ出たら、まださっきの男がうろついてて、逆に危険かもしれないし)
 まずは自分に言い聞かせ、窓の外を覗き込むと、心の中で言い訳する。
(ごめんなさい。とても元気で無事にしております。陽が落ちる前には、絶対、広場に帰ります)
 届くわけはなかったが、広場のクラウスに向けてそう唱える。そうして暖かな湯気を放つポタージュにスプーンを浸すと、ウィルは思わず頬を緩ませた。
 嬉々としてスプーンを口元に運べば、甘いポタージュの風味がまずはじわりと口内へ、続いて熱を伴い身体の内へ染み渡る。
(――美味しいもの食べると、幸せだぁ)
 眼を細めて二口目を口に含み、もう一度それを吟味する。僅かに利いた胡椒の風味が、心地よく鼻を抜けていく。念のため、警戒心から例の犬の様子を窺うが、そちらはそちらでイレーネからソーセージをもらったらしく、嬉しそうに齧り付いているのが見てとれた。今度こそ、邪魔をされずに済みそうだ。
 そうしていくらか味わうと、ウィルはちらりと、傍らに積み上げられた書籍の山へと視線を向けた。
 学術書だろう。厚い背表紙の本は掠れた金のラインに縁取られ、古びたものは紙面が不揃いに飛び出してしまっている。彼女が一人で暮らしているのだというアパルトマンの一室は、そういった本と書き物とで溢れていた。
 部屋の四隅には備え付けの物以外にもいくつかの本棚が置かれ、その中に所狭しと分厚い本が並べられている。個室に備え付けられたキッチンにはシンプルな食器が幾らか置かれていたが、その合間合間にも、明らかに料理の本とは見受けられない書物が置き去りにされたままになっていた。
「ちらかっていて、すみません」
 ウィルの視線に気づいたのだろう。イレーネがそう苦笑しながら、コップへ水を注いでくれたので、ウィルは慌てて首を横へ振った。「珍しくて」と言えば、彼女は「そうですか」とだけ簡潔に答え、辺りに散らばっていたレポートらしき用紙をまとめて、それをノートへ挟み込む。
(それにしても……)
 伏し目がちの彼女の瞳に、長い睫毛が揺れている。その視線の先で白い指先が動くのを眺めながら、ウィルはまた静かにスープを呑み込んだ。
(まさか、あのイレーネ・アーベラインさん本人と知り合うことになろうとは)
 『古天文学における惑星軌道の解析的解法』。そう名付けられた論文の記事の組版を任され、その筆者の名前に誤植をこさえて親方やマルドリア・ジャーナルの編集長に大目玉を賜った、あの日のことを思い出す。ここしばらくはあまりに立て続けに色々なことが起こったものだから、それももう随分と昔のことのように思われたが、考えてみれば、ほんの数日前のことだ。
 学術都市ファーマティカで発表された、天体に関する学術論文。その論文を記した天文学者こそが、――他でもない、イレーネ・アーベラインその人であったのだ。
 若くして数々の研究論文を発表し、学会でも一目置かれているらしい彼女の名は、そうでなくとも仕事でよく目にしていた。マルドリア・ジャーナルの編集長が彼女の大ファンであったために、素人目にも贔屓と映るほど、彼女に関する記事はよく扱っていたのだ。
 鋭い洞察力と考察で様々な仮説を打ち立て、それを証明し、古参の学者達に挑んでいく姿がどれほど美しいかと、酒の席で力説されたことを思い出す。もしかすると彼女のその勢いが、先程の男のような敵を生み出してしまったのかもしれないが、――なんにせよ、その当人とこんな形で鉢合わせようとは、思ってもみないことであった。
「……、その節は、失礼な誤植をしでかしてすみませんでした」
 スプーンを握りしめたまま、ウィルがぺこりと頭を下げる。経緯を知らない彼女は不思議そうにウィルを見て、だが何を思ったのか簡潔に、「とんでもない」とだけ言った。どうやら元々、口数の多い方ではないらしい。それでも彼女は自らもいくらか水を飲むと、傍らで大人しく蹲る犬を見てから、こう続けた。
「あとで、広場までご案内します。電信局の近くにある、ルシア広場でお連れの方と待ち合わせをしてらっしゃるんでしたよね」
「あっ、はい。すみません、何から何まで……。闇雲に走ったせいで、道がよくわからなくなっちゃって」
「この町は、古い道も多くて入り組んでいますからね。私も、今日は早めに天文台へ向かおうと思っていたところです。広場は通り道ですから、お気になさらないでください」
 天文台。聞いて、ウィルは思わず目を瞬いた。
 そうだ。このファーマティカには、エンデリスタ大公国が誇る国立大天文所があるのだと、以前からよく聞いていた。天文学者である彼女も、その天文所の研究員であったはずだ。ウィルの目に、好奇心が宿ったのを見て取ったのだろう。彼女は少し考えるような素振りを見せてから、「ご覧になりますか?」と、そう問うた。
「えっ、そんな事できるんですか?」
「ええ。最新の観測機や資料のある部屋にはお連れできませんけれど。一般に公開している機材もありますから、観光でファーマティカへいらした方は、天文台へもよく立ち寄られますよ」
 噂に聞くファーマティカの天文台に行くだなんて、アビリオで日銭を稼いで暮らしていた頃には考えもしなかったことだ。この町へはけっして観光目当てで立ち寄ったわけではないとはよくよく理解のあるところではあったが、それでも、ふと気持ちが浮ついた。
(そっか。俺もう、アビリオにいるんじゃないんだもんな)
 滑稽だとは思いながら、今更、そんな事を考える。「お連れの方のこともあるでしょうから、もしよかったらの話ですけれど」と控えめに続けたイレーネの言葉に、ウィルは曖昧に頷いた。
「あの、ぜひ、行ってみたいです。俺、星を眺めるのって結構好きで……、あ、でもその、全然詳しくはなくて、なんとなくぼうっと夜空を見上げるのが好きなだけなんですけど」
 おずおずとそう言えば、彼女がにこりと微笑んだ。「私もはじめは、それだけでしたよ」応える声は、柔らかい。
「はじめは、ただ眺めているのが好きなだけでした。星空を見ると、なんだか懐かしいような、不思議な気持ちがしたものですから」
 「星空が、……懐かしい?」ウィルが聞き返すと、彼女はこくりと頷いた。しかし、その直後。
 玄関口から聞こえてきた物音に、小さく肩を震わせる。
 とんとんと、軽くだが戸を叩く音。先程の男が性懲りも無くやってきたのかも知れない、と、彼女もそう思ったのだろう。だが続けて聞こえてきた女性の声に、イレーネが表情を緩ませた。
「隣の家の方のようです。少し、出てきますね。スープはまだありますから、お好きなだけどうぞ」
 そう言って席を立つイレーネの背を見送って、ウィルは振る舞われたパンを黙々と頬張り、一つ小さく息を吐く。
(ファーマティカの天文台――。そっか、つい最近まで、凄く遠いところの事みたいに思ってたけど)
 イレーネの口ぶりから察するに、どうやら件の天文台は、ここから歩いて通えるような場所にあるのだろう。その事が、ウィルには何やら不可思議なことのように思われた。
(四日間も列車に乗ってたんだから、そりゃ、そうか。――実際、……遠くまで、きたんだよな)
 パンを千切って、また頬張る。何を今更、こんな事を考えているのだろう。そう自分自身を笑い飛ばそうとして、
 ウィルはそのまま、パンを持つ手をぴたりと止めた。
(……、遠いなあ)
 心の中で、呟いた。
 そっとスープの皿を掴むと、胸に湧き出たもやもやとする思いごと、一気に全て飲み干してしまう。暖かみを帯びたスープが、身体の内を廻っていく。けれどその熱は先程までのように無邪気に染み渡ることはせず、不意に冷たく胸に落ちた。
(これから、もっと遠くへ行くのかな。ボハイラの蛇が追ってこられないような所まで? ……いや、違うか)
 ボハイラの蛇と、戦うべき所へまで――?
 知らずのうちに溜息が漏れた。だが同時に、膝に触れる柔い感触にふと気づく。視線を下ろしてテーブルの下を覗き込み、ウィルはやれやれと肩を竦めてみせた。
 見れば例の犬が眼をきらきらさせながら、ウィルの膝に前足をかけて尾を振っていたのだ。
「なんだよ、ソーセージだけじゃ足りなかったのか? これはだめ。これは俺のパン。お前だって、ちゃっかり自分の分を食べただろ」
 言い聞かせてみても、相手は少しも気にした様子がない。そうしてまたふんふんとウィルの腹の辺りを嗅ぎ始めたのを見て、ウィルはポケットから小銭入れを取り出すと、それを左手に握りしめたままでまたパンを頬張った。
「これもだめ。預かり物が入ってんの。大体お前、チキンの恨みはまだ晴れてないんだからな。なけなしの財産で買ったのに」
 そう言って人差し指で眉間をぐりぐりと押せば、なにやら気持ちよさそうに目を細められてしまった。そういえば、この犬は結局なんなのだろう。先程はなんだかんだで助けられてしまったこともあり、そう邪険に扱うことも出来ないのだが、どうやらいまだにウィルの小銭入れを狙っているらしいらしいのだ。始めは、もしかするとどこかの盗人にそういうことを仕込まれた犬なのかとも考えたが、それとは違うようにも思う。そんなことを考えている間にも、この犬はまた親しげに、前足を突っ張ってウィルの頬をぺろりと舐めた。
「おい、ずるいぞ。そんなふうにじゃれてきたって、そう簡単にはほだされないからな。パンもやらんし小銭入れもやらん」
 そう言ってはみるものの、嬉しそうに尾を振りきらきらした眼でウィルを見上げる脳天気なその顔を見ていると、つい口元が緩んでしまった。
 椅子を降りて床へ膝をつけば、この犬はウィルの頬へ顔を寄せ、すんすんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。それがなんだかこそばゆく、ウィルがその首元へ顔を埋めるように犬の身体を抱きしめれば、揺れる尻尾がウィルの腕を、柔らかく撫でつけていく。
(……、あったかい)
 手入れのされていない毛並みはごわごわとして、獣臭さを感じさせたが、呼吸と共に揺れる肌が、何とも言えず心地よい。それをぎゅっと抱き寄せて、ウィルは軽く目を閉じた。
 正直なところ野良犬には、昔もこうして世話になったことがある。ウィルがライジア印刷所で仕事を始める少し前、前の奉公先を出されてからなかなか次の仕事が見つからず、道端で眠るしかなかった頃の事だ。
 前の職場の親方から、ほんの少しの食費だけは渡されていたから、最低限飢えることだけはせずに済んでいた。だが如何ともしがたい都市の寒風に耐えきれず、よく大人しい野良犬を見つけては、こうして首筋にしがみついて眠っていたのだった。
 こうして犬を抱きしめて、目をつぶれば今だって、眼前にアビリオの夜の風景が浮かんでくる。十年近くも昔のアビリオの街は、工業都市としてもまだまだ発展途中であった。夜の道にはガス灯など無く、町を照らす明かりは星の光か、あるいは急ピッチでの建設が進められていた、様々な工場の灯りだけ。工場の工事すら終わる深夜になると、アビリオの街は急に静寂に包まれた。
 今になって思い返せば、そんなことすら懐かしい。今のアビリオの街は、深夜とはいえどこかしらの工場は生産を続けており、静まりかえることなど珍しくなった。けれどその頃は、――住む場所もなく、仕事もなく、故郷にも帰れずにいたその頃は、静まりかえった町に蹲り、真っ暗闇から逃れるように、星を眺めて夜を過ごした。そんな時、星空の下でそっと側にいてくれた犬達のその体温が、どんなにありがたいものであったかは、今も鮮明に覚えている。
 目の前の犬を抱きしめる手の力を緩め、深く、長く、息を吐く。その頃のことがいやに懐かしく、しかし身近に思えていた。今の状況だって似たようなものだ。やっと見つけた居場所を離れ、自分がどこに向かうべきかも、ちっともわからず彷徨っているのだから。
「……。そいつらのこと、『スター』って呼んでたんだけど」
 言えば、目の前の犬はぴくりと耳を動かし、嬉しそうにまたウィルの膝上に前足を乗せる。その真っ黒に澄んだ目と目があうと、ぽつりと、呟いた。
「スター」
 わんっと、応えるような軽い吠え声。目の前に座るこの犬が、嬉しそうに笑った気がした。その首元をわしわしと撫でれば、『スター』は気持ちよさそうに、またその手へすり寄ってみせる。
(もしもだけど。こいつの事、連れて行きたいなんてもし言ったら……。クラウスは反対するだろうなぁ、きっと)
 あの仏頂面から想像するに、あまり動物の類を好む御仁ではなさそうだ、と、そんなことを考える。そもそも待ち合わせの場所に遅れて登場した挙げ句、唐突に犬の話などしては、叱られる程度では済まなくなるのではないだろうか。しかしそう考えたウィルが溜息を吐いた、その時だ。
 玄関の方から、ばたんと扉を閉じる音。ほんの一瞬の間を挟み、こちらへ向かう小走りな足音はイレーネのものだろう。床に座ったままのウィルがひょいと顔を上げれば、些か顔色を青くしたイレーネと、目があった。
「あっ、スープご馳走様でした。凄く美味しかったです。でも連れも待ってると思うし、俺、そろそろ行こうかと、」
「ウィルさん、あなたは」
 ウィルの言葉を遮るようにそう言って、イレーネが手にした紙切れを握りしめる。ウィルがきょとんとしたまま相手を眺めていると、彼女は戸惑った様子でウィルと手元の紙とを見比べて、――それから何かを決意したかのようにウィルの側へしゃがみ込み、手にしたその紙をウィルの目の前で広げてみせた。一体何事だろうとその紙を覗き込んだウィルは、思わずそのまま、絶句する。
 イレーネが持ってきたその紙は、どうやら手配書の写しであるようだった。タイトルにはやけに鮮明な印字で『指名手配』とあり、そのすぐ下に、見慣れた名前が載っている。
「アビリオでの連続放火の容疑者で、……刑務所への護送中に、警官二名を殺害し、逃亡……ファーマティカ方面へ潜伏している可能性が高い……」
 読み上げる声が、引きつった。首を軋ませイレーネに向き直れば、彼女は当惑しきった表情で、しかし明瞭にこう告げる。
「容疑者の名前は、ウィル・ドイルホーンと……。それに外見の記述を見ても、私には、あなたの事としか思えないのですが」

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