廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

005:星の町の遭逢

「待てぇぇぇぇぇい!」
 腹の底からそう吠えて、息を弾ませ、後を追う。ふわふわとした犬の尾が跳ねて階段を下っていくのを見ると、ウィルも迷わず駆け下りた。鉄で出来た錆のある手摺りを掴むと、ひょいと脇へと飛び降りる。
 置かれていた鉢植えを蹴りかけて、しかしなんとか体勢を整えると、ウィルはまた顔を上げ、キッと目の前の犬を睨み付けた。
 ぼさついた毛の大型犬が、楽しそうにこちらを振り返り、また尻尾を振っている。先程からずっとこうなのだ。この犬は口に咥えたウィルの小銭入れは片時も離さず、しかし度々振り返っては、手の届かない距離は保ったまま、じっとウィルを待っている。
(このヤロウ、完全に俺をなめてやがる……)
 ぜえぜえと肩で息をして、落としそうになる帽子をポケットの中へねじ込んだ。そうして腕まくりをすると、じりじりと、また例の犬へにじり寄る。
 そろそろ足が限界だ。盆地の広がるアビリオの町とは違い、丘陵地帯にあるこのファーマティカは町の中も坂道だらけなのである。緩やかなカーブを描く石畳の上を駆け上がれば、必要以上に体力を消耗するし、駆け下りようとして何度躓いたことかわからない。
(早く取り返して、広場へ戻らなきゃならないってのに)
 ちらりと空へ視線をやって、太陽の位置を確認する。まだそれほど時間が経ってはいないはずだが、そろそろ、電信局での用事を済ませたクラウスが、広場へ向かっている頃合いではなかろうか。
 待ち合わせの広場に、ぽつんと一人佇むクラウスの姿を想像する。別れ際に言われた言葉を思い出せば、背筋が冷える思いがした。
「『蛇の手』の事もある。ああいう奴らに、いつも狙われている自覚を持て。余計なことは絶対にするな」
 そう言ったクラウスは、ウィルのことをじっと見ていた。そうして、その言葉に気圧されて視線を逸らそうとするウィルを見据えて、念を押すようにこう繰り返していたではないか。
「余計なことは、絶対にするな」
 ごくりと唾を飲み込んだ。両手を構え、またじりじりと犬の方へ足を向ける。
(蛇のことも、かなり怖いけど)
 今はそれより、一人広場に立つクラウスの表情を想像する方が、余程、空恐ろしい。
(くそっ、もっと簡単にケリが付くと思ったのに!)
 息を潜めて牽制し、両手を挙げて飛びかかる。すると例の犬は軽やかにウィルの脇をすり抜けて、それからワンッと一声吠えた。だがけっして遠くへ逃げようというわけではなく、ただじゃれついて遊んでいるかのような無邪気な表情で、またぱたぱたと楽しげに尾を振っている。
(俺からチキンを奪っただけでなく、余計な体力まで使わせやがって……!)
 また情けない音で腹が鳴る。そろそろ、堪忍袋の緒も限界だ。
 目の前の犬を睨み付ける。犬が楽しそうにまた尾を振る。だが、ウィルがもう一度飛びかかろうと腕を広げた――、その時だ。
 例の犬が黒々とした目を一点に向け、耳をぴくりとそばだてたのを見て、ウィルもつられて動きを止めた。同時に、どこからか良く通る声が聞こえてくる。
「放してください。人を呼びますよ!」
 はっきりとした物言いの、女性の声だ。どうやら少し登った辺りの路地裏から聞こえているらしい。
「気の強い女だな。呼べるもんなら呼んでみな。ここには、いつもお前を守ってくれるお偉方の研究者も、お前に骨抜きの馬鹿な男どももいないんだぜ」
「……。一体、誰の差し金です? 心当たりが多くて、よくわからないのですけど」
 女の声は怯まない。だがその剣呑な雰囲気に辺りを見回して、ウィルは思わず息を呑んだ。見れば例の犬がてくてくと、無邪気に、声の方へ近寄っていくところであったのだ。
 勿論その口元には、相変わらず、ウィルの小銭入れを咥えたままでいる。
(あいつ、なにやってんだ!)
 心の中で毒づいたが、しかしウィルも息を殺して、人通りの少ない坂道を、そろりそろりとついていく。その間にも言い争う声は、絶えず耳に届いていた。
「私の研究を不都合に思うなら、正々堂々と表に出てきなさいとお伝えして。研究者の端くれなら、学会で私を負かせばいいでしょう」
「なるほどね。その減らず口が敵を作っているわけだ」
「どうぞ、お好きなように捉えてくださって構いませんけど。それより、いい加減に手を放してくださらない?」
 例の犬がひたと足を止めたのを見て、ウィルもそのすぐ隣に立った。そうしてそっと、声のする方を覗きこむ。
 見れば日の光も射し込まない細い路地裏に、色の白い女が立っていた。解けば長いのであろう髪を高い位置で一つにまとめ、スカート幅の狭いシンプルなドレスを身に纏ったその女性は細身の男に腕を掴まれて、ぴたりと壁際に追い込まれている。
 男が、腕を掴む手に力をこめたのだろうか。凛とした女性の眉間に、しかしいくらか皺が寄る。それを見た細身の男は下卑た笑い声を漏らし、そっと、彼女の白い首元へ顔を近づけた。
「依頼人には、少し痛い目を見せてやれと言われてるんだがね。あんたみたいな美人が相手なら、こういう痛めつけ方のほうがよっぽど楽しめるよな」
 女の表情が嫌悪に歪む。男の顔がまた近づいた。それを見て、
「おまわりさん、こっちです――!」
 目一杯に力を込めて、そう叫んだのはウィルであった。
「こっちです! キレーな女の人が、不格好でいけ好かない変な男に捕まってます! おまわりさーん!」
 誰もいない通りの向こう側へ向けて、大声でそう話しかける。するとたった今まで女性に詰め寄っていた男が、はっとした様子でウィルを振り返り、大きく舌打ちした。その腕が荒っぽく女性の腕を引くと、彼女は小さな叫び声をこぼし、その場へどさりとしゃがみ込む。
「おまわりさぁぁん!」
「おいガキ、やめろ!」
 男の怒声が路地裏に響く。そうしてその腕が女性を放し、大股にウィルの方へと寄ってきたのを見て、
 ウィルはすぐさま、駆け出した。
――余計なことは、絶対にするな。
(だ、だって、そんなこと言われたって)
 クラウスの言葉を思い出す。だがあんな場面に遭遇したら、助けないわけにいかないではないか。
 自分自身に言い訳をして、ごくりと唾を飲み込んだ。たった今登ってきた緩やかな坂道を駆け下りて、更に下へと続く急な階段の前で、ほんの一瞬立ち止まる。しかしそうして男の姿を確認すると、ウィルの血の気がさっと引く。
 男はその手に、いつの間にやら、きらりと光るナイフを提げていたのだ。
「ひっ、……嘘です、嘘! いけ好かないとか言ったの全部嘘! ごめんなさい!」
「このガキ、ただで済むと思うなよ……!」
 階段を駆け下りようとした途端、男が投げたのであろう小粒の石が、ひゅっと耳元を掠めていく。続いて投げつけられた石を咄嗟に身を捩って交わし、そのまま横手にあった物干しのテラスへ上がり込むと、ウィルはまた大きく息を呑んだ。
 しくじった、そう思った。ここにいたのでは男に追いつかれた際、逃げ場がどこにもないではないか。しかしそうする間にも、男はすぐそこへまで迫っている。
(どうしよう、でも、どうにか逃げなきゃ)
 及び腰で、階段の上部に突起した欄干に手をかけてみる。錆びた欄干はウィルの掌をちくりと刺し、みしみしと頼りない音を響かせる。
 これを起点に飛び降りて、上手く着地できるだろうか。しかしウィルが眼下の地面を睨み付け、奥歯を噛みしめた、――その瞬間。
 けたたましい犬の雄叫が、細い小径に響き渡る。
 ウィルの小銭入れをぽとりと落とし、今にも噛みつかんという勢いで例の男を吠え立てたのは、先程のあの犬である。見れば、驚いた男も振り返り、同時になにやら身体を傾げた。階段から足を踏み外したようだと気づいたのは、恐らくウィルが先であっただろう。
 遅れて状況を理解した男の腕が、支えるものを求めて空を凪ぐ。犬の吠え声に被せるように、情けない声が低く呻く。同時に、
 軽やかに駆けた例の犬が、容赦なく男に飛びかかる。
 目を丸くしたウィルの目の前で、音を立て、悲鳴をその場に残しながら、男が階段を背中で滑り落ちていく。それに反して例の犬は、男の身体をまるでソリかなにかのようにして階段を数段滑った後、事も無げにひょいと身を翻すと、更に落ちていく男を尻目に得意げに鼻を鳴らしてみせた。それを、小径から顔を出した女性もまた言葉のないまま、じっと固唾を呑んで見守っていた。
(い、今……、頭から落ちていったけど)
 男は果たして、無事だろうか。おそるおそる階段の下を覗き見て、しかしウィルは、男が血走った目をして身を起こしたのを見るやいなや、今度は反対に坂を駆け上がった。それでも途中で、自らの小銭入れを拾い上げるのは忘れない。
「……、こちらへ!」
 ぴしりと芯のある女の声。先程の女性の声だ。咄嗟にウィルがそれへ続くと、何故か例の犬までもが、ウィルの後をついてくる。
 藤色のドレスを身に纏った女性は動きづらそうに、それでも道を懸命に駆け、程近くの家まで辿り着くと、勢いを付けて戸を開けた。そうして逡巡したウィルを犬ごと招き寄せると、バタンと音を立てて戸を閉めて、内側から鍵をかける。
「あの、……大丈夫ですか」
 先にそう問うたのは、ウィルであった。一体何がお気に召したのやら、例の犬が小銭入れを持ったウィルの手に鼻を押し込もうとするのをあしらいながらそう問えば、彼女はこくりと頷いた。しかし扉に手をかけたまま、ぜえぜえと辛そうに息をして、その場へしゃがみ込んでしまう。
「あっ、あの、やっぱり怪我とか」
「いえ、……本当に、大丈夫です。もう随分長いこと、あんなふうに走ったりしていなかったものですから……」
 そうしてふと顔を上げ、彼女が小さく溜息を吐く。
 長いまつげが揺れるのに、知らずのうちに見とれてしまった。年の頃は、クラウスと同じほどだろうか。いくらか乱れた髪の合間に見える彼女の首筋は透き通るように白く、あんな風に走ったためか、うっすらと赤みを帯びて汗ばんだ頬は、ウィルから見ても艶めかしい。
 綺麗な人だと、そう思った。だが咄嗟に目を逸らし、ウィルは右手で額の汗を拭いながら、大袈裟に溜息を吐いてみせる。ついつい不躾な視線を向けてしまった事を、見咎められてはいないだろうか。しかし内心気を揉むウィルの腹を、
 ひょいと後ろ足で立ち上がった例の犬が、突然強く押しつける。
 「うわっ」と思わず小さく叫び、その場へどしんと座り込む。そうして反撃の隙を与えず、黒々とした目をきらきらと輝かせてウィルの膝の上に足を置く犬を見て、ウィルは小さく息を吐いた。
「随分、懐いているんですね。貴方の犬ですか?」
「いや、こいつは野良犬で……勝手について来ちゃったというか、まあ俺が追いかけていたというか……」
 言い終わらぬうちに、犬がぺろぺろとウィルの頬を舐めはじめる。「おい、やめろ」と声はかけたが、わさわさと尾を振り顔を覗き込んでくる様子を見れば、起こる気力も失せてしまった。
 しかしそうしてされるがままにしていると、側で小さく、吹き出す声が聞こえてくる。
 声の方を振り返れば、先程の女性がおかしそうに口に手を当て、小さく笑いを堪えていた。「すみません」と言った肩が、また小刻みに震えている。
「先程は、助けてくださってありがとうございました。たいした事は出来ませんが、何かお礼をさせてください。私の名前はイレーネ。……イレーネ・アーベラインと申します」

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