廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

004:電信局にて

 駅から少し離れた電信局は、葉巻の煙で満ちていた。
 ガラスで出来た回転扉を押し入れば、くたびれたソファがいくつも並ぶ待合室が設けてある。そこで待つ人々は皆退屈そうに足を組み、安い煙をくゆらせながら、銘々に珈琲を飲み新聞の記事を眺めていた。
 どの街でもそれ程変わらない、最早見慣れた光景だ。その中心を突っ切るように進むと、クラウスは、受付に座る男に向かってこう言った。
「留置電報の受信有無を確認したい」
 次いで言い慣れた識別番号を告げれば、男は表情も変えずに「お待ちを」とだけ答え、手元の札に数字を書き込むと、それをクラウスに差し出した。この整理札を持って、席で待てということだろう。
 空いた席にトランクを置き、隣にどかりと座り込む。懐から取り出した葉巻へ火をつけると、細く、長い、息を吐いた。
 白い葉巻の煙の中へ、――もやもやとした溜息が、どうやら多分に混じっている。
(ああ、なんだって、)
 こんなにも気分が晴れないのだろう。また深々と溜息を吐き、一度堅く目を閉じた。すると意図していなくとも、「広場で待ちます」と堅い表情で拳を握った、ウィルの姿が思い出される。広場で待つか、それとも電信局へついてくるかと問うてみれば、相手は迷う様子もなく、「広場で」と、そう答えた。
――『セドナ』じゃないです。
 去り際に聞いたその言葉が、脳裏へ鈍く響いている。
(アビリオでは、確かにセドナのマナを感じた。あいつの胸の傷痕だって、ただの火傷じゃない。転生の術を受けたことで出来る焼け痕だ。間違いない。あれが『セドナ』だ。……、けど)
――俺がアビリオにいちゃいけないなら、すぐ出て行きます。実家にでも帰って身を隠します。それも駄目ならどこにでも……! でも今はどうか、どうか後生だから、
 アビリオでのことを思い出す。随分な震え声であったが、見れば彼の肩も膝も、小刻みに震えていた。片田舎で職人として生きてきた少年は青ざめて、ただ自分の身内を守るためだけに頭を下げた。
 自分はセドナではない、人違いだと言いながら、その為だけにクラウスの出した条件を、全面的に受け入れた。
――助けてください。
 マナの力も何も持たない、ただの少年がそこにいた。
(それにしても、あれだけ蛇と接触しておいて、少しも『覚醒』しないとなると……)
 とんとん、と、指で叩いて葉巻の灰を落とす。そうしてまた口内の煙を吐き出すと、受付の方から、番号を呼ぶ声がした。手元の札と見合わせる。まだ、自分の番ではないようだ。
 『覚醒』――、つまり現世において前世の、アライス・アル・ニール帝国時代の記憶を取り戻すタイミングは、人それぞれだ。身内の不幸や自身の遭遇した事故など、現世での出来事をきっかけに覚醒する者もいれば、クラウスのように物心が付く頃には前世の記憶を持ち合わせていた者もいる。
 セドナの転生先の最有力候補としてウィル・ドイルホーンの名前が挙がった頃から、その当人が未覚醒であることは聞いていた。そもそも覚醒したのであればセドナが自ら動かないはずはないし、それならば、相手が未覚醒であろうとなんであろうと、ありのままを伝え覚醒の時を待つしかない。その覚悟はできていた。そのはずだ。それなのに。
 二本目の葉巻に手を付けようとしたところで、受付からまた番号を読み上げる声が聞こえてくる。今度こそは、手元の札の番号だ。立ち上がり、脇に置いたトランクをひょいと持ち上げる。そうしてまた、無意識のうちに溜息を吐いた。
――クラウスさんは『セドナ』を知ってるのかもしれませんけど、俺は知りません。前世の事も、帝国の事も、クラウスさんの事も何も知りません。
(……。帝国の話をすれば、何もかもすぐに思い出すかも……、なんて楽観視してたわけじゃないけど)
 それにしたってあの顔で他人行儀にされるのは、流石に些か、身に堪える。
「お預かりの電報は、こちらになります」
 厚地の紙を受け取って、受領書にサインを書き付ける。それを渡せば相手の男は事務的にファイルに挟みこみ、「またのご利用を」と会釈した。そうして受付を後にして、受け取った電報を広げると、しかしクラウスは、――思わずその場へ立ち止まる。
『ファム ニテ マテ』
 記されていたのは、それだけであった。
 『ファム』というのは主に商人達が使う略称で、このファーマティカの町を指している。事前の算段では、この町ではこれから向かう拠点に異変がないか、このまま『セドナ』を連れて戻ることに不都合がないかを電報で確認する予定であった。しかしこの町で待機しろということは、もしや拠点で何かあったのだろうか――。
(この電報、打ったのはレオナルドじゃないな)
 もう一度、文面を目でなぞってみる。もしも拠点に何か異変が起きたのだとしても、『彼』ならば、もう少し現状を把握しやすい文を作るはずだ。用件だけを打ったこの文は、恐らく、『彼女』の手による物だろう。
 思わず小さく溜息を吐き、手に持った外套を羽織り直す。そうしてふと顔を上げると、電信局の回転扉を押す小さな人影が目に入った。見覚えのある少年だ。
 およそ子供らしからぬ黒い外套を羽織った幼い少年は、局内に立ちこめる葉巻の煙に咳き込んで、しかしクラウスの姿を見ると、にこりと穏やかに笑ってみせる。
「クラウス。入れ違いにならずに済んで、よかった」
 そう声をかけたのは、仲間の一人である、レオナルド・バッハマンその人であった。アライス・アル・ニール帝国では帝王に並ぶ権力を持ち、大神官として君臨していた彼は、現世では権威など見る影もないただの少年と化している。そういえば正確な年齢を聞いたことがなかったが、ウィルよりも更に年下だろう。それでも彼は幼さを感じさせない穏やかな立ち居でクラウスの側へ寄ると、「突然すみません」と笑って言った。
「予定通り、拠点で待っていようと思ったのですが……。気が急いて、ここまでお迎えに来てしまいました。ローザがその旨、電報に記したと言っていましたが、ご覧になりましたか?」
「まあ、そんなところだろうと思った」
 たった今目を通したばかりの電報を手渡すと、その簡潔すぎる文面に、レオナルドも苦笑した。
「ローザは今、商工会議所へ行っています。一応、ファーマティカへは仕事の名目で来たものですから」
「拠点は変わりないか?」
「ええ。皆、セドナ様がいらっしゃるのを耳にして、落ち着かない様子でおりますが」
 回転扉を押し開け外へ出ると、細い北風が一筋吹いた。まだ昼過ぎだというのに、この頃の季節の移り変わりは早いものだ。隣を歩くレオナルドは外套の前を掛け合わせ、手袋の上から両手を擦り合わせると、「それで」と、まず言った。
「セドナ様は、どちらにおいでなんですか?」
 そう問う声が、彼にしては珍しいことに弾んでいる。だが考えてみれば当然の事だろう。クラウスと同じく物心が付く頃には前世の記憶を有していたという彼も、生まれ直したこの土地で、散り散りになった仲間を中心になって集めながら、ずっとセドナを探してきたのだ。
「今は広場にいる。俺と居るとどうも落ち着かないらしかったから、一人にしてきた」
「とすると、記憶の覚醒はまだなんですか?」
「ああ、ちっとも。正直まだ、前世がどうとかいう話もぴんときてなさそうだ」
 「そうですか」と呟いたレオナルドが、じっとこちらを見上げている。その目を避けるようにして歩く速度を上げたが、しかしこの少年は、いつもと変わらぬ穏やかな声で、また諭すようにこんなことを言う。
「そんな風に落胆する必要はありませんよ、クラウス。セドナ様のことは、あなたもよくご存じでしょう。覚醒されていないのなら、今はまだ、きっとその時ではないのです。それより今はセドナ様の……いえ、ウィル様の御身の安全を守ることだけ考えましょう」
 そうして言い聞かせるように、「時を待て。誠意を尽くし信心深く慈しむこと」と続けてみせる。聞き覚えがあった。確か以前、わざわざ電報でも送りつけてきた、ナントカの章の一説だ。その部分ばかりこう何度も説かれるのは、余程堪え性がないように思われているのだろうか。
(俺が文句の一つも零さず、アビリオの街をどれだけ駆けずりまわったか、ぜひとも説いて聞かせてやりたい)
 外套のポケットに両手を入れ、舌打ちしそうになったのを辛うじてかみ殺す。そうして広場へと至る道をそぞろ歩きながら、「そういえば」と、今度はクラウスの方から声をかけた。
「覚醒はしていないのに、顔はなんでか、セドナの面影がある」
「面影……ですか。転生は魂の移行に限っての話なので、姿形には関わりがないはずなのですが」
 レオナルドが不思議そうにそう言って、しかしすぐに笑顔になると、思った通りの言葉を口にした。
「ですがまるでセドナ様が甦られたかのようで、……皆、喜ぶでしょうね」
 ああ、確かに喜ぶだろう。そうしてすぐに思い知らされるのだ。
――王様とか、俺、そういうのじゃないです。……ぜ、絶対人違いです!
(中身は、まるで別人なんだよ)
 道に落ちた小石が、革靴の先にこつりとあたる。それを右足で蹴りあげると、小石は勢いを得てガス灯の根本に命中し、そのままころころと道端の下水路へ落ちていった。
 ふと見れば、レオナルドがまたじっとこちらを覗き込んでいる。顔を背けた。それでもまだ、視線を感じる。
「大丈夫ですよ」
 聞こえてきたその声に、今度こそは舌打ちをした。
「大丈夫です、クラウス。私達はただ、為すべき事を為せばいいのです。王と封印を守り、ボハイラの蛇に抗うこと。それだけが私達の使命です。長い時を経て、私達はまたようやく、お仕えするべき王と廻り会うことができた。今はその事に感謝しましょう。これ以上に多くを望んでは、欲が過ぎるというものです」
 すっかり背を向けたのに、それでもレオナルドはいつもの調子でそう言った。恐らくその目は今も尚、クラウスのことをじっと見つめているのだろう。じっと見据えて、放さない。だからこの目は苦手なのだ。まるで何もかも、見透かされたような気になる。
 「ところで」レオナルドが言ったが、すぐには振り返らなかった。
「広場まで来ましたが、……クラウス。ウィル様はどちらにいらっしゃるんです?」
 聞いて、ぴたりとその場に立ち止まる。嫌な予感をかみ殺し、そっと左右に視線を巡らせたが、目的の人物が見当たらない。
 苛立ちを隠せぬまま広場の中央を睨み付けると、ぼんやりとした顔でチキン売る屋台の男と目があった。「おい、そこの」と低い声で話しかければ、男は明らかに肩をびくつかせ、視線を逸らしておずおずと「はい」と小さく答えてみせる。
「人を探してる。金髪の、これくらいの背丈の男だ。カーキ色の帽子を被ってる。見なかったか?」
 聞けば男はいくらか視線を彷徨わせ、困り果てた様子で眉根を寄せると、そっとクラウス達二人を招き寄せた。どうやら何か、知っているらしい。しかし声を押し殺して答えたその言葉に、クラウスは訳がわからず顔をしかめる。
「見ましたよ。見たし、話したし、チキンも売りました。ほら、あの手配書の少年でしょう?」
「手配書?」
 聞き返せば、相手の男は小さく一つ溜息を吐き、近くの壁を指さした。壁にはこの近辺の店の物であろうチラシが乱雑に貼り付けられ、――その上にはまだ新しい、人相書きが上貼りされている。そこに書かれた顔を見て、クラウスは思わず言葉を飲んだ。
「アビリオで起こった連続放火事件の犯人で、逃走中に警官を二人も殺したって聞きましたよ。さっきうちで肉を買ったときには、ちっともそんなふうには見えなかったんですけどねぇ。まあ、人間見た目じゃわからないっていうか。なんにせよ、ついさっきあの手配書を貼りに来た警官に、私は何もかも全部お話ししましたからね。さあさ、買わないんならもう行ってください。うちの店は、事件とは何にも関わりありませんよ!」

Tora & Thor All Rights Reserved.