廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

003:缶詰とチキン

 ファーマティカの広場には、穏やかな秋の風が吹いていた。
 そろそろ昼時だからだろう。煉瓦造りの建物から姿を現した人々は、皆明るく語らいながら、また周囲の飲食店へと姿を消していく。流石は学術都市とでも言うべきか、その大多数は小綺麗な衣服を身につけ身なりを整えた学者風で、別段時に追われる様子もなく、こつこつとテンポの良い足音を立ててウィルの隣を通り過ぎていく。それらを黙って見送ると、ウィルは小さく溜息を吐いた。
 広場のベンチに腰掛けて、足を投げ出した姿勢でいる。
 ウィルをこの町へと連れ出した、同行者の姿は側にない。
 雲のない空を眺めてまた息を吐き、ふと漂ってきた香りに視線を移す。これも昼時だからであろう。広場の中央付近には、いくつか出店が賑わっていた。揚げたての魚を挟んだサンドイッチを売る店に、鶏肉の香油焼き、グラタンのパン乗せなど、様々な商品を売る店が、軒を連ねて並んでいる。人々が店へ立ち寄り、それらを頬張る様子を横目に見ながら、ウィルは口内に湧いて出た生唾を、ぐっと静かに飲み込んだ。
(腹、減ったなぁ……)
 ここしばらく、まともな物を食べていない。列車内ではクラウスが、何故だか缶詰ばかり食べるものだから、ウィルもそれに付き合った。何か食堂車両を使えない理由でもあるのだろうと思っていたから、別段不服に思うわけではなかったが、そろそろ温かい食事が恋しくなってしまう。
 背を逸らせて空を睨み、ひょいと帽子を顔に載せる。ほんの少しだけ芳しい匂いが遠ざかったのを感じると、
 今度はまた深々と、思う存分に溜息を吐いた。
 仲間からの電報を受け取るため、電信局へ寄るというクラウスと別れたのが、ほんの少し前のこと。広場で待つのと、電信局へ同行するのとどちらがいいかと問われて、ウィルは迷わず前者を選んだ。今までにもマルドリア・ジャーナルの記者達の代理で電報のやりとりをしたことはあったから、特に電信局への興味もなかったし、気まずい雰囲気のままになってしまったクラウスと分かれて一人の時間を満喫できるというのなら、それはなによりありがたいことのように思われたのだ。
 ふと、暗い目蓋の裏側に、「そうか」と答えて背を向けた、クラウスの顔が浮かんで消える。表情の少ないこの連れは、言葉少なに、ただウィルの言い分を肯定した。
――俺は知りません。前世の事も、帝国の事も、クラウスさんの事も何も知りません。
――高い服も要りません。知り合ったばかりの人に、そこまで、してもらえませんから。
(……、大人げない)
 自ら発したその言葉が、ぐるりと脳裏に捩れている。クラウスに悪気が無かったことなど百も承知であったのに、何故わざわざ、あんな風に尖った言葉を投げつけてしまったのだろうと、後悔ばかりが胸に満ちた。
(王に仕え、王を守り、……)
 クラウスについてアビリオの街を出た時点で、ある程度理解をしていたつもりではあった。ウィルがボハイラの蛇に狙われる理由がウィルの前世にあるというなら、クラウスやブルーノのように今まで別世界の住人とさえ思われた上流階級の人間達が、あれやこれやと世話を焼いてくれる理由も、ウィルの前世にこそあるのだ。
(俺が『セドナ』だと思うからこそ、助けてくれるんだ)
 暗いアビリオの街の小径で、口を塞がれ、自由を奪われ、ボハイラの蛇と遭遇したときのことを思い出す。分厚い木材で出来た搬送車に閉じ込められて、同僚達の無事を願うことしかできなかったことを思い出す。すると自然と、肩や腕に震えがきた。
――王に仕え、王を守り、ボハイラの蛇と戦うため。その為だけに転生した人間が、俺の他にも大勢いる。
 ボハイラの蛇と戦うため。
 前世の記憶など何一つ持たず、ただアビリオで日銭を稼いで暮らしていたウィルのことを、ボハイラの蛇は見つけ出した。今はこうしてファーマティカまで逃げてきたが、きっと『蛇』はまたすぐにでも、ウィルを追ってくるのだろう。
 王の持つ封印を奪うために、またウィルの前へと現れるのだろう。ならばその時、どうしたらいい。
(そうなったら俺もボハイラの蛇と、……戦うのか?)
 たった一人で『蛇』の大群に挑み、大した怪我もせずに帰ってきたクラウスのような人間なら、『蛇』と戦うことも可能なのだろう。彼は腕っ節も強く銃の扱いにも慣れているようだし、なにより、雷のマナの力もある。
(なら、その『王』は? 俺は、『セドナ』は……)
 いつか戦うときが来るのだろうか。『セドナ』の記憶が覚醒すれば、――その為の力が備わるのだろうか。
 昼間はまだ暖かい陽が射しているが、今夜はきっと冷え込むだろう。そんな事を考える。ひゅるりと吹いた風が、毛先を軽やかに撫ぜていく。その時ふと、
 少し大きな風と共に、ウィルの帽子がふわりと浮いた。
 いけない。目を開け、慌てて手を伸ばす。ウィルの右手は一度空を掴み、次にしっかと帽子を掴む。だが、同時に、――
 場に鳴り響いたその音に、ウィルは思わず、硬直した。
 悲鳴を上げるかのようなその音が、何であるかはすぐに知れた。咄嗟に周囲を見回せば、側を通った人々どころか、屋台の前に並ぶ人々さえもが皆一様に、ウィルの方を振り返っている。顔を伏せればじわりじわりと、頬の辺りから耳にまでかけて、情けない熱が広がった。
 更にもう一度音が響けば、辺りからは控えめな笑い声が漏れ聞こえてくる。
 情けない音で鳴いたのは、他でもない、ウィルの腹の音であった。
(穴があったら……、埋まりたい……!)
 考えてみれば、今朝は列車を降りる時間が早かったものだから、朝食も早めに摂ったのだ。思う側から、焼けたばかりの肉の香りが、ウィルの鼻先を掠めていく。ちらりと屋台の方へ視線をやれば、他にも野菜のスープや、チーズのとろりとこぼれ落ちそうなピザ等が並んでいるのが見て取れた。てかてかと輝いているのは、ナスだろうか。脂ののったベーコンの焼ける音と共に届いたのは、おそらく胡椒の香りだろう。見れば目の前の屋台では、煮込んで皮のとろりとはじけた、トマトのスープをよそっている。
 ああ、どの料理も、なんて美味しそうなのだろう。そう考えればまたじわりと口内に生唾が湧いたが、ウィルはそれを、やっとの事で飲み込んだ。
(くっ……、今は、珍しく真面目なことを考えてるんだから……!)
 降って湧いた食欲が、脳裏の凡そを占めていく。この一時の食欲と、今後の身の振り方と、一体どちらが大切なのだ。そう自分自身を心の中で叱咤するのだが、それでも一度自覚した空腹は、なかなか脳裏を離れない。
(駄目だ。だめだめ。我慢しろ。子供の頃は、一日二食でやりくりしてたじゃないか)
 こんなところで、食欲に負けるわけにはいかないのだ。突然の出立であったから、所持金は雀の涙ほどである。今はいざという時のために、少しでも手元に残しておかなくてはいけないのに。
 腹が鳴く。生唾が湧く。今はしかし、電信局から戻ったクラウスにどう声をかけるか、これからの生活費をどうしていけばいいのか、もしまた『蛇』と遭遇したときには、一体どのように対応するべきなのか、真剣に考えておかなくては。それにしてもどうせなら、高いスーツを買ってもらうより、一度で良いから、高級な飲食店に足を踏み入れてみたいものだ。その手の店には何やら、ウィルの見たこともないような絶品が並んでいるに違いない――
 しかしそこまで考えて、ウィルはまた大きく溜息を吐いた。当人の些細な抵抗もむなしく、このお気楽なウィルの思考が、最早すっかり食事一色に染まってしまっているようだと気づいたからだ。
(……、ああ、もう、知らん! 食べるぞ、俺は、好きなもん食べてやる!)
 掴んだ帽子を握りしめ、腰掛けたベンチから立ち上がる。「落ち込んだときには、美味い物でも食べに行くのが一番の解決策さ」と、以前クルトが笑って話していたのを思い出す。こんな時くらい、景気づけに何か美味い物を食べてもばちはあたらないだろう。
(肉。どう考えても肉。焼きたての肉。ああ、ピザの方が腹持ちは良いかな。いや、でもクラウスが帰ってきたら、何かしらは食べる話になるだろうし、今は好みで選ぶべきか……)
 ちらちらと屋台を覗き見て、骨付きのチキンを買うことに決めた。店主と、たわいもない世間話をする。手にした肉の匂いを嗅いだウィルが思わず頬を緩めると、気をよくしたのか、それとも憐れに思ったのか、揚げたてのポテトをおまけに付けてくれることになった。ああ、数日ぶりの温かい食べ物だ。たったそれだけのことで、こんなにも幸せになれるとは……。
 しかしそうして中身の乏しい財布を覗き込み、ウィルは一瞬目を逸らす。小銭入れの中に、布にくるんだ石が入っているのを思い出したからだ。
 アビリオを出てすぐにクラウスから手渡された石なのだが、迷った末にここにしまっておいたことを失念していた。歪な形をした、琥珀色に輝く石。以前アビリオでクラウスの宿を訪ねた時に見た、あの石だ。
「これ、……なんですか?」
 訝しんだウィルがそう問うても、クラウスは始め、答えなかった。答えようとしなかったわけではなく、言葉を選んでいたように思われたが、ともかく彼はしばらくしてから、ぽつりと、「オマモリだ」とだけ言った。
「お客さん?」
 怪訝な声音で問いかけられ、慌てて顔を上げる。しかし代金を支払い、ようやく暖かな肉を手に入れたところで、
 ウィルはぎょっとして、思わずその場へ立ち尽くした。
 店の脇に蹲る、『何か』の影が視界にうつる。咄嗟に思い出されたのは、人から獣へ姿を変えた、ボハイラの蛇達のことだ。
(――、『蛇』)
 だが青ざめたウィルを見て、店主が申し訳なさそうに、「すみませんねぇ」とだけ言って笑う。そのなんでもないような物言いに、そうっと影を覗き込み、ウィルは安堵の溜息を吐いた。
「野良なんですけどね、一度店の残りもんをやったら、この広場にいつくようになっちゃって。犬は苦手ですか?」
 覗き込んだ先にいたのは、一頭の大型犬であった。犬種にはあまり詳しくないが、確か、なんとかレトリバーという種類であったと思う。屋台の隣にちょこんと座ったその犬は、尻尾を振って首を伸ばし、じいっとウィルを見つめていた。
 利発そうなその目と、目があった。溌剌とした、明るい目だ。ウィルがふさがっていない方の手で頭を撫でてやると、尻尾の揺れが大きくなった。
「野良なんですか?」
「ええ。ちょっと前まで、こんな子犬だったんですけどね。みるみる大きくなっちゃって」
「へえ。じゃあまだ、若いんだ」
 そんなことを言ううちに、犬がすっくと立ち上がり、ウィルの顔を覗き込む。その鼻が懸命に何かの匂いを嗅ぐのを見て、ウィルは「やらないぞ」とチキンを持った右手を上げた。しかし彼は、――彼女かも知れないが――、そのままぐるぐるとウィルの周りをまわってみせてから、唐突に、
 ワンッと一声、大きく吠えた。
 びくりとしたウィルが、一歩うしろへ後ずさる。犬が二本の前足を上げ、ウィルの胸めがけて飛び込んできたのは、その直後のことであった。わけがわからないまま、咄嗟のことに尻餅をつく。そうして、
「あ――っ!」
 取り落としたチキンを見て、腹の底から、思わず叫んだ。しかしそうしているうちに、犬は颯爽とウィルの腹から飛び降りて、一目散に駆けていく。その口元に咥えた見覚えのある包みを見て、ウィルはさっと青ざめた。
 ポケットに手を入れる。無い。先程まで確かにここに入れていたはずの、小銭入れがどこにもない。
(俺の、全財産……!)
 一口も味わうことなく砂まみれになってしまったチキンのことを思うと、今にも涙が零れそうだ。だがそれでも、ここで泣き寝入りするわけにはいかない。すぐ側で屋台の店主が顔を青くし、あの犬はうちとは何の関わりもなくて、と言い訳をしたが、それすら耳には入らなかった。
 なんとしてでも取り返さなくては。全財産が入っていることも勿論そうだが、何よりあの小銭入れには、――クラウスから預かった、例の石も入っているのだ。
「オマモリだ」
 少しも変わらぬ仏頂面でそう言った、同行者のことを思い出す。そうして渡された預かり物を、こんなにあっさり無くしたことが知れたら、彼はなんと言うだろう。ただでさえ、出会った頃からもう既に、いつも呆れられているような――失望されているような、そんな気さえしているのに。
「待てっ! この、犬っころ!」
 一声、吠えた。そうして走り出してから、ウィルは右手で、ぎゅっとシャツの胸元を押さえ込む。
 『失望されている』。胸の内にふとよぎったその言葉が、何故だかやけに、痛かったのだ。
 犬の後を追って路地を曲がり、賑わう真昼の町をひた走る。ああ、最近、――走ってばかりで嫌になる。

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