廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

002:強がり者の言い分

――王に仕え、王を守り、ボハイラの蛇と戦うため。その為だけに転生した人間が、俺の他にも大勢いる。――ともかく、それだけ信じろ。
 アビリオを発ったばかりの頃、クラウスがウィルにそう言った。その表情は変わらずの仏頂面で、少しの愛想もなかったが、しかし彼の言葉は他の何より真摯であった。
 信じてみようと、ちらと、思った。いずれにせよ、言われるがままアビリオを後にしてしまった以上、最早ウィルには自分の力で、元いた街まで帰ることすら出来ないのだ。
(ファーマティカからアビリオまで、一番安い席でも三百リガ……)
 駅を出るときに垣間見た、列車の運賃を思い出す。定職に就いていた今までですら、月の給金は千六百リガ程度であったのだ。それだって家賃や市民税、食費などの生活費を差し引けば手元に残る分など雀の涙程であったのに、もしこの見知らぬ土地に一人で取り残されでもしたら。生活費を確保しながら旅費まで工面できるほどになるまでに、どれほどの時間が必要だろう。
(住み込みの仕事でもあればいいけど、この歳じゃあ下働きとして雇ってもらうのも難しいだろうし)
 なにより今は、『ボハイラの蛇』のこともある。クラウスが話して聞かせたところによれば、『蛇』は例の帝王が施した封印のために昼間は自由が利かないそうだが、稀にアビリオで出会った警官のように、日中も構わず動き回り、普通の人間に混じって生活をしている『蛇の手』と呼ばれる者もいるという。クラウスがナールと呼んだ鷲鼻の警官は、恐らくウィル達が列車に乗ったのを知っている。ウィルを――『セドナ』を追ってこの町に姿を現すのも、そう遠い未来のことではないだろう。
 情けない思いに溜息を吐き、目の前に立ちはだかる姿見を睨み付ける。そうしてそこに映る自分自身――今までに触れたことすらないようなシルクのスーツを身に纏い、所在なげに立ちつくす貧相な体つきの少年と目があうと、ウィルはまた惨めな思いに眉をしかめた。
 突然の出立であったから、着替えを少しも持っていない。ウィルがクラウスにそう伝えたのが、一時間ほど前のことである。それなら買いに行こうと言われ、黙ってついてきてしまったのが、そもそもの間違いであった。
(雑貨屋にでも寄って、古着のシャツを買えたらそれで十分だったのに)
 今までにはまるで縁のなかった高級洋装店に連れられて、どれでも好きな服を買うと良いと言われ、ほんの一瞬でも浮き足立ってしまった自分に腹が立つ。ウィルだって、我が物顔で街を闊歩する上流階級を羨ましいと思ったことはあったし、彼らの身につける紳士然とした装いに憧れたこともある。だからこそ始めは、少しばかり浮かれてしまったのだが。
(……、残念すぎる)
 自然と眉間に皺が寄る。どう考えても釣り合わない、かっちりとしたスーツに着られる姿の、なんと間抜けなことだろう。ウィルの乾燥してぱさついた肌には光沢のある白いシャツなどちっとも似合わず、痩せた体を誇張するかのような肩当ては、不自然に浮いてしまっている。
「お客様、いかがでしょう」
 ウィルの背後に陣取った、仕立屋の男がそう問うた。いかがでしょうと言われても、どんなに好意的に捉えようとしても前向きな言葉が出てこない風体であることは、一目見れば十分理解できるだろうに、先程からこの男は、こうしていちいちウィルの意見を求めてくるのだ。
「先程の物はコーンソル製、こちらはグランソア製になります。まだお若くていらっしゃるので、わたくしとしてはこちらのお色の方がお似合いかと存じますが、」
「いや、あの、俺には違いがあんまり、」
「あるいはこちらの新作はいかがでしょう。布地に細いストライプ柄が入っておりますので、すっきりとした見栄えになるかと。無地の物でしたら、これから季節も冷え込んで参りますし、紺のインバネスコートと合わせて身につけていただくのもお薦めでございます」
「い、インバネス? ええと、すみません、俺、服の種類とかわからなくて」
 心底疲れ果てた声音でウィルがそう言っても、この仕立屋は、あくまで笑顔を絶やさない。しかし流石に、これ以上ウィルと話をしても埒があかないと悟ったのだろう。「お連れの方にも見ていただきますか?」と問われたので、ウィルは少し悩んでから、恐る恐る頷いた。
 アビリオからこの町へ至るまで、クラウスと互いにほとんど会話を交わさないまま四日間を過ごし、列車のコンパートメントへ籠もって黙々と味気のない缶詰を食べ続けていた、居心地の悪さを思い出す。ウィルにしてみれば、この無口な旅の連れに問いたいことなどいくらでもあったのだが、自らの置かれた状況もよく把握していない今、一体何を、どこから聞き始めれば良いのかもわからなかったし、下手なことを聞いては相手の機嫌を損ねるのではないかと思うと、上手く話しかけることができなかったのだ。
(だけどもしかしたら、もしかしたらだけど、これをきっかけに少しは話しやすくなるかもしれないし)
 どうせなら、似合わないなと言って思い切り笑い飛ばしてくれたらいい。そんな事を、ふと思う。かっちりとした服など自分には不釣り合いだということもよくわかったところであるし、いっそそれをネタにして、この気まずい雰囲気を少しでも崩せるものなら、万々歳である。
(笑われても、気にしないようにしよう。俺もへらへら笑ってよう。俺みたいなのがこんな服を着たって、疲れるだけだもんな)
 大きく一つ、息を吸う。しかし決意を固めて試着室から顔を出したウィルの胸に、
「絶望的に似合わないな」
 言葉がぐさりと、突き刺さる。
 ウィルを見るなり言葉を選ばず、顔をしかめてそう言ったのは、他でもないクラウスその人であった。どうやら商談用の客席に通されウィルを待っていたらしいこの男は、手にしたカップを置いて、ウィルとは目もあわせずに仕立屋の方へ向き直り、「本人の姿勢が悪いのは仕方ないとして、もう少しどうにかならないのか」と畳みかける。仕立屋の男は感心するほど笑顔を崩さず、それでもやはりウィルの方など見向きもせずに、こう言った。
「こういった服は、着慣れていただくのが一番かと……。あるいはオーダーメイドでしたら、もう少しお客様の体格にあったものをお仕立てできるかと思います。既製品ではどうしても、」
「一から作ると何日かかる」
「ご希望のデザインと素材にもよりますが、お急ぎであれば一週間ほどで調整させていただきます」
「長いな。二日で仕上がらないか」
「それでしたら、特別料金を頂くことになりますが」
「それでいい」
 正直すぎるクラウスの暴言に言葉を失ったウィルの隣で、勝手に商談が始まっている。完全に一人取り残されてしまったウィルは、しかし仕立屋がわざわざ店の一番奥に立てかけてあった布地を手に取ったのを見て、試着していたスーツの上着を慌てて脱ぎ捨てた。
「クラウスさん、いや、クラウス、ちょっと」
「お色と素材はいかがいたしましょう。ジラーより取り寄せたペニーシルクの素材などもお薦めでございます」
「任せる」
 クラウスの金払いの良さを見て取ったらしい仕立屋が、上機嫌で次から次に、新しい布地を取り出している。上顧客を逃すまいとする雰囲気にウィルは思わず青ざめたが、そんなウィルの様子になど、クラウスはちっともお構いなしだ。
「クラウス、別に仕立てたりしなくて良いから」
「飾り釦などもきっとお客様にお似合いだと思いますので、ご用意させていただきますね」
「それも任せる」
「クラウス」
「なんだ、腹でも減ったのか」
「スカーフや履き物に関しても、ご用意させていただいてよろしいでしょうか。帽子や鞄なども当店でお取り扱いがございますので、よろしければ」
「ああ、その辺は全部、」
「……! ま、任せない!」
 クラウスの言葉を遮って、思わず腹からそう叫ぶ。しかしそうしてしまってから、ウィルは短くはっと息を呑んだ。
 驚いた様子の仕立屋とクラウスの視線が、同時にウィルの方を向く。二人のどちらからも言葉はなかったが、何故だかやけに居たたまれない。
「あの、だから俺、こういうの似合わないですし、そんなにお金、かけてもらうわけには」
 言い訳がましく呟きながら、ゆるりゆるりと後ずさる。そうして逃げ込むように試着室へ戻り、そそくさと元の服に着替えると、ウィルはクラウスの腕をひき、店の外へと飛び出した。
「お客様、お気に召さなければ他のデザインもご用意できますので、……!」
 なんとか話を続けようとする仕立屋の言葉が聞こえたが、振り返ることはしなかった。そうして、「着替えが要るんだろう。買わないのか?」と不可解そうに眉をひそめ、問うたクラウスを睨み付ける。
「どうせ俺には、ああいう服は似合いませんから。絶望的に、似合いませんから」
 そう話した自らの言葉が、思った以上にいじけていた。あの手の服が似合わないことなど、自分の目で見て既に自覚していたつもりであったのに、クラウスに面と向かって似合わないと言われたことが、存外悔しかったらしい。
「似合わなかったのは、仕立屋の選び方が悪い。一から作ればマシになると言ってたし、作らせよう」
「も、もういいです。要らないです。作ったってどうせ似合わないだろうし。……大体、あの高そうな布とか釦とか、値段も聞かずになんで全部『任せる』なんですか。ただでさえ高そうな店だったのに、あれじゃ、吹っかけられますよ。さっきの仕立屋だって、途中からどんどん調子に乗ってきて」
「金の心配をしてたのか? 別に仕立屋だって、そう法外な請求はしてこないだろ。現金も小切手もある。払える。似合うさ、多分」
「そんなこと、なんでわかるんですか」
 文句を言うつもりではなかったのだが、口調がついつい尖ってしまう。ああ、いけない。はやく、違う話題に切り替えよう。この同行者の機嫌を損ねて、一体何の得があるというのだ。
 溜息をつき、ぐっと奥歯を噛みしめる。話題を変えよう。たった一人のこの同行者と、角が立っては後が辛い。話題を変えよう。なにか明るい話題がいい。なんでもいいから何か、二人で楽しめる話はないだろうか。いつまでのことかはわからないが、どうやらしばらく二人で居るのだ。少しでも打ち解けられたなら、足元の暗いこの旅路も、少しは明るく歩けるだろうに。
 しかし続いたクラウスの言葉に、ウィルははたと、全て言葉を飲み込んだ。
「似合うさ。昔は大抵、なんでも着こなしたじゃないか」
 何でもないような口調で言われたその言葉が、ずしりと胸にのしかかる。ウィルが思わずクラウスの顔を見上げると、クラウスも一瞬、はっとしたような顔をして、「いや、セドナが」と、気まずそうにそう言った。
 何故だか胸が、つんと痛む。
 試着の時に嫌でも何度も視界に入った、胸の火傷痕が軋んでいる。
 両胸から臍の辺りにまで広がるこの傷跡が、諸手を挙げてざわめいている。だがそれは霧の夜の如く茫洋として、ウィルにはまだ、その軋みがなんなのか、上手く捉えることが出来ない。
「……。『セドナ』じゃないです」
 ぽつり、と、霧の内に言葉が零れる。
「そんな風に言われても、俺にはわかりません。クラウスさんは『セドナ』を知ってるのかもしれませんけど、俺は知りません。前世の事も、帝国の事も、クラウスさんの事も何も知りません。……だから、高い服も要りません。知り合ったばかりの人に、そこまで、してもらえませんから」
 ああ、何やら要らぬ意地を張った。そう考えれば、胸に苦い思いが満ちていく。
 収入もなく、ボハイラの蛇という得体の知れない何かに追われる身の上である今、唯一の同行者であるクラウスに見捨てられでもしようものなら、ウィルには身を守ることすらできやしないのに――。
 「そうか」と短くクラウスが言った。「まあ、それも……、そうだな」

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