廻り火

【 第二章:ポリフォニーを耳にして 】

001:綴る手

 薄黄のノートパッドをめくり、万年筆を走らせる。観測した星の配列、軌道、輝度とその変遷――。落ちてきた前髪を耳にかけ、ただ一心に数式を綴る。視線を上げずに手探りでコーヒーカップを掴んだが、傾けてみても、一向に味がしなかった。どうやら既に飲み干してしまっていたらしいと認識するまでに、ほんの少し時間がかかる。
 ゆらり、ぐらりと、燭台に灯した明かりが揺らいでいた。ソーサーの上にカップを戻し、その手をそのまま、机の上に積み重なった本の山へと向かわせる。親指の長さほども厚みのある本を掘り出して、ぱらぱらとページをめくっていけば、古びた紙特有の香りが彼女の鼻孔をくすぐった。
 確かどこかに、この考察の論拠となり得る論文が載っていたはずだ。文字を視線で追いかければ、意識が紙面へ吸い込まれていく。手元の用紙をめくり、また新たな数式を綴る。万年筆が紙を滑る音だけが、夜半の研究室に響いていた。
「イレーネ女史、少しよろしいですか?」
 声と共に戸を叩く音が聞こえたが、しばし返事はしなかった。もう少しで式が完成する。どうせたいした用ではないのだろうから、少しくらい待たせておいても良いだろう。
 ページをめくる。脳裏に浮かぶ考察を、ただノートへ綴っていく。しかし、
 唐突にぴたりと筆を止めると、彼女はただ無感動に、ノートのページを丸めて捨てた。途中で式の矛盾に気づいたのだ。このまま続けたところで、行き着く先は見えている。少し遡って、また新たに考察を始めた方が得策だろう。
 こんこん、と再びノックの音。一度小さく溜息を吐くと、まくっていた袖を直し、ちらりと鏡を覗き見る。ついつい研究に没頭してしまったが、それ程見苦しい装いではなさそうだと見て取ると、彼女は「どうぞ」と声をかけた。
 キィ、と扉を開く音を立て、訪れたのは上階の研究員である。最近他の観測所から移ってきた男であったと思うが、何やらよく、顔を見る。大概が風采を気にしないこの観測所の職員にしては小綺麗な身なりをし、髭をしっかりと剃ったその男は、にこりと笑ってこう言った。
「先日お借りした学会誌、お返しに来ました。どれも、流石はファーマティカで発表された論説と言うべきか、興味深い考察ばかりですね。とても楽しませていただきました」
 「そうですか」気の入らぬまま返事をして、万年筆をまた手に取った。ふと、先程自身の綴った矛盾の理由に思い当たったのだ。
(違うわ。あれは、クーカリスの公式を当てはめるべきだった)
 男に背を向け、また自らの椅子に座り直す。しかしそうしてノートへ向かうと、ペンだこのできた白い手に、そっと触れるものがあった。
「……何か?」
 つい剣呑な声が出た。しかしいつの間にやらすぐ背後にまで迫っていた例の研究員は、少しも臆した様子がない。彼はまたにこにこと笑みを浮かべてイレーネの手の甲を包み込むように指でなぞると、「陶磁のような肌をしていらっしゃる」と、彼女の耳元へ囁きかける。
 ああ、全く面倒だ。鳥肌が立つ。こういう、勘違いをした甘ったるい声で語る男は大嫌いなのだ。
 彼女の求める声ではない。長く探したあの声ではない。
「研究の邪魔になりますから、離れていただけますか?」
 苛立つ自分を宥めながら、まずは平坦な口調でそう言った。それでも男は距離を置かず、むしろ彼女の耳元に一層顔を近づけて、「失礼」と囁いた。
「研究に励まれる後ろ姿が、あまりにお美しかったので」
「ですがあなたの声は、私にとって耳障りです」
 被せるようにそう言うと、ぷつりと相手の言葉が途絶えた。聞き返されてもう一度、「耳障りです」と繰り返す。
「言語を解せぬ方なんですか? 耳障り且つ目障りです。用が済んだなら、さっさと出て行っていただけません?」
 
 * * *
 
 すっかり耳に馴染んだ車輪の音が様子を変えたのは、まだ日も昇りきらぬ明け方のことであった。もうじき駅に着くのだろう。テンポ良く音を刻んでいた車輪は徐々に進むスピードを落とし、汽笛は人々にその訪れを告げるかのように、幾度かに分けて高い音を鳴らしている。恐らくは今度の停車駅でも、ここ数日の内に停車した他の駅と同じ程度か、あるいはそれ以上に、大勢の人が列車の訪れを待ち構えていることだろう。そうしてある人は決意を胸に町を発ち、またある人は、それを見送り涙を流すのだ。
 自分も数日前は、そうして旅立つ人間のうちの一人であった。そんなことを考えながら、ウィルは小さく溜息を吐く。まだ少しも実感が湧かないが、恐らくそうであったはずだ。だからこそ自分は今ここで、仕事もせずにただぼんやりと、窓の外を眺めているのだろう。
「次の駅で、仲間と連絡を取る手はずになってる。降りる準備をしておけよ」
 朝食代わりの缶詰を平らげて、クラウスが不意にそう言った。準備をしろとは言われても、元々自分の荷を何も持たないウィルに出来ることなどたかがしれていたのだが、それでも素直に頷いておく。そうしてブルーノに持たされた荷物をまとめ、再び窓の外へと視線をやれば、また段々と列車が速度を落としていくのが見て取れた。
 ごとり、ごとり、ごとり。車輪の回転が鈍くなる。踏面に押し当てられた制輪子が、軋んだ音を響かせた。
「行くぞ」
 上着を着込み、身支度を終えたクラウスが、短くそれだけウィルに伝える。
 アビリオを出る頃にはまだ秋を迎えたばかりであった外の風景も、ここ数日の間に着々と様子を変えていた。木々は紅葉して葉を落とし、ひゅるりと鳴る冷たい風が、列車のそばをなぞっていく。
 荷物をひょいと担ぎ上げ、タラップを踏んでホームへ降りた。この四日間、ほとんど列車の個室から出なかったために体の節々が痛んだが、それでもこうして外の空気を吸うことが出来るのは、何とも言えず、爽快だ。
 しかし不意に周囲からの視線を感じて、ウィルはクラウスの後を追うように、そそくさとその場を立ち去った。道中もそうであったのだが、ウィルが見るからに労働者のなりをして一等車両に乗っていることに、車掌も他の乗客達も、好奇の視線を向けてくるのだ。客観的に考えてみればそれも当然のことと思われたが、おかげで他の車両を覗き見ることはおろか、用を足すために個室を出るのにも、随分と肩身の狭い思いをした。
(まあ、始めの二日はほとんど寝てたから、あんまり記憶にないんだけど)
 アビリオを発ってしばらくすると、どっと疲れが湧いて出た。それでそのままソファへ丸まって、ぐっすり眠ってしまったのだ。自宅に置いていた寝台などとは比べものにならない柔らかなソファの感触に、単調な車輪の音と揺れとが重なっては、眠気に抗えるわけもない。だがそうして四日間の旅路の半分を眠って過ごしてしまったために、――
 いまだにこの同行者との距離が、微塵も、縮まらないのである。
「クラウスさん!」
 人混みをものともせずに歩いて行ってしまう背中に向かって、呼びかける。しかし声が届かないような距離でもないのに、相手はちらとも振り返らない。
「クラウスさん、ちょっと待ってくださいってば!」
 もう一度、声を上げて呼びかける。一体何事だろうかと、目的の人物以外の人々が、ウィルの方へと振り返る。
 予想はしていたことであったが、ファーマティカの駅は人混みでごった返していた。アビリオからこれまでに停車してきた駅とは違い、学術都市と名高いファーマティカの町は元々各地から研究者や商人が集う人口の多い都市なのだ。その上、ここは南のグラハムへ向かうガーランド鉄道や、ダンバ行きの列車への乗り換えが出来るターミナル駅でもある。工業都市として近年急激に発展したアビリオだとてけっして小さな街ではないと思っていたのだが、人混みの度合いは段違いだ。
 人の波に押し流されそうになりながら、はあ、と大きく溜息を吐く。土地勘もなく、所持金も乏しい今、こんなところへ一人で取り残されでもしたら。そんなことを考えてから、ウィルは意を決して、また遠のいた同行者の背に向かって声をかけた。
「クラウス! ――だから、待ってくださ、……待てってば!」
 やっとの事でそう言うと、前方を歩く男の足がふと止まる。そこへなんとか追いつくと、相手は表情も変えずに「行くぞ」と言ってまたウィルに背を向けながら、飽きもせずにこう言った。
「あと、敬語やめろ」
 まさかとは思ったが、そのまさかが当たったらしい。ウィルは呆れて思わず押し黙り、しかし再び歩き始めたクラウスの後ろに続きながら、心の中で毒づいた。
(敬語で話しかけたら無視とか、……子供か!)
 思いはしたが、口に出してそうとは言えない。確かに車中でも、敬語をやめろと再三に渡って言われてはいた。どうもこの男が、堅苦しいやりとりを極端に嫌う質であるらしいことも少しずつだがわかってきてはいる。だが。
 前を歩く、この男の背中を軽く睨め付ける。聞けばウィルより九つも年上のこの男は、仕立ての良い革靴を履き見るからに質の良い絹のシャツを着込んだ出で立ちであり――加えて記すなら、アビリオで遭遇したボハイラの蛇と一戦を交えたために少し破れた高価そうなシャツを、彼は惜しげもなく列車内のゴミ箱へ放り込んだ――ウィルがこんなにも人の往来のある場所で呼び捨てにするのには、どうしたって憚られる相手なのだ。
(『お前が主だ』なんて言われたけど、どう見たってこの人の方が偉そうだし……。いやそもそも、俺が前世で王様だったっていう話も、全然実感が湧いてないんだけど)
 ふう、と大きく溜息を吐く。すると不意にクラウスが振り返ったので、ウィルはぎくりと身構えた。
「そういえば、まだ痛むか?」
 唐突に問われて、瞬きする。しかしすぐに、それがウィルの手足や頬にできた傷のことを指しているのだと察すると、ゆるゆると首を横に振った。ボハイラの蛇に追い回されて出来た傷痕は、まだあちこちかさぶたになって残ってはいたが、痛みは既に和らいでいる。
「そうか。痛むようなら言え。荷物くらいは持ってやる」
 そう言って、ウィルの返事も待たずにまた歩き出す。その背中を追いかけながら、ウィルはもう一度溜息を吐いた。
(悪い人じゃ、なさそうなんだけど……)

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