廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

017:出立

 まさかとは思ったが、どうやら一等車両に乗るらしい。場違いなものを見る鉄道員達の視線を感じながら、しかし何も語らずただ先を歩いて行くクラウスの背を見ると、ウィルは小さな溜息を吐いた。それもそうか。クラウス・ブランケ――ジナーフ鉄道会社を有する、ブランケの家の御曹司と共にいくのだ。恐らくは何かしら、優遇でもあったのだろう。
 ここから先はしばらくの間、この男と二人で目的の場所へ向かうらしい。目的地に関しては問うても明確な答えはなかったが、アビリオからファーマティカ――西の方へと進むのであれば、少なくとも、ウィルの故郷とは反対方向だ。アビリオの他には故郷の田舎町しか知らないウィルにとっては、どこへ行っても見知らぬ土地であることに変わりはなかったから、詳しく問いただすことはしなかった。
 ふわふわと足下も覚束ないまま、上等車両の乗り口にのみ設けられた、鉄製のタラップを登りきる。顔を上げれば、先に乗り込んでいたクラウスと目があった。
 汗でいくらかくたびれたシャツに、上等なベストを着込んだこの男は、体格もよく背も高い。その目がじっとウィルを見ているのに気づいて、ウィルも、いくらか丸まっていた背筋をまた伸ばしてみせた。萎縮をしたと言うよりも、今は相手に対して少しでも、情けない姿を見せたくないと思っていた。
 ふと、故郷から初めてアビリオの街へ連れられてきた時のことを思い出す。なにやらやけに神妙な、しかし割り切った様子であった父の顔。あまり事を理解しておらず、自分も街へ行って遊びたいと駄々をこねた兄の顔。……見送りにさえ来なかった母の顔は、今では既に、おぼろげだ。
 あれは、忌々しいほどによく晴れた日の事であった。今朝はどうであっただろう。それを振り返って確認する気にもなれないまま、ウィルはただ、目の前に立ったこの男へ深く頭を下げた。
「何度も助けていただいて、ありがとうございました」
 固い声でそう言ったが、クラウスはすぐには答えない。ホテルで会ったときのように、「社交辞令ははいらない」などと一蹴されるだろうかとも思ったが、クラウスはそうは言わずに、「ああ」と曖昧に返事をするにとどまった。
 一等車両のコンパートメントに入ると、ガラスのはめこまれた小さなテーブルを挟んで両側に、ベッドにもなりそうなふわふわとしたソファがそれぞれ置かれている。クラウスがその片側へ座り、ウィルにもう一方へ座るように促したのとほぼ同時に、出発を告げる汽笛の音が、明け方の駅にしんと響いた。
 続いてまた、二度、三度と汽笛の音。それを聞きながらクラウスが、ぽつりとこんなことを言う。
「別れの時間を取ってやれなくて、悪かったな」
 汽笛の音が、また鳴った。
 思いがけない言葉にウィルがきょとんとしていると、クラウスが居心地悪そうに目を伏せて、短く深い息を吐く。
 ガラス窓のはめ込まれた室内に、明け方の光が射していた。その淡い陽の下で見れば、慣れた手つきで葉巻を取り出すクラウスも、あちこちにいくつも傷を拵えている。見れば手の甲には酷い擦り傷が出来ているし、高価そうなシャツの一部には、黒く煤けた跡があった。あのボハイラの蛇の大群と、一戦を交えた直後なのだ。考えてみればその出で立ちも当然の事と思われたが、クラウスが少しも顔に出さないものだから、今の今まで気づかなかった。
「あの、でも、クラウスさん、」
「クラウス、でいい。言っただろう。お前が主だ。俺に敬語なんか使うな」
「えっ? いや、それは」
 ごとりと音がした後に、車窓の景色が移動した。列車が動き始めたのだろう。
 ごとり、ごとりと始めは緩慢に、動輪を繋ぐ連結棒の回る音が聞こえてくる。厚いガラスの窓をいくらか押し上げると、明け方の冷ややかな空気の中に、石炭を燃す匂いが混ざっていた。
「あんまり長く窓を開けると、中が煤臭くなるぞ」
 そう言われる間にも、灰色の煙が室内に流れ込んでいる。ウィルは慌てて窓を閉めようとして、しかし、
 聞こえてきたその声に、思わず、手を止めた。
「おい、どうしてこんな時間から列車が動いてる! 発車時刻はまだのはずだろう!」
 腕に小さな、震えがきた。
 はっとなって顔を上げれば、駅のホームから列車を見送る人だかりの中に、見知った顔が混じっている。見ると印刷所に帰ったはずのルドルフに、ドルマン、ヘッセ、怪我をしているはずのクルトまでもが、仲間に半ば担がれるようにしてそこにいた。どこで合流したのだろうか、目を凝らしてよくよく見れば、ウィルが毎晩のように通っていた食堂の女将や、新聞配達員達の顔まである。
 耳に馴染んだあの声は、聞き間違いではなかったのだ。
 ルドルフがあちこちに立つ人々の顔を覗き込みながら、ウィルの名前を呼んでいる。その一方で、ドルマンは列車を見送っていた、ブルーノの姿に気づいたらしい。何かを――恐らくはウィルの居場所を――問いただすように、彼らがブルーノに掴みかかったのを見てウィルは息を呑んだが、咄嗟に声が出なかった。
 動けなかった。ウィルの腕はそれ以上に窓を開けることも、閉ざすこともしようとはしなかった。そうしている間にも、また長い汽笛の音が響いている。ウィルの脳裏をかき乱すように、車輪の音がまた徐々に、速くなった。
「いいのか」
 葉巻の煙を吐き出しながら、低い声でクラウスが言った。
「あの声、おまえを追いかけてきた連中だろう。窓から顔を出せば、少しくらいなら話せるぞ」
 確かに今なら、列車の動きもまだ鈍い。ここから声を出せば、十分あちらに届くだろう。
 今までお世話になりました。
 突然のことで、ごめんなさい。
 どうか元気で。
 さようなら。
 次から次に別れの言葉が、心を過ぎっては消えていく。だが口は開くのに、言葉が上手く、出てこない。
(さよならを……、言わなくちゃ)
 窓枠を掴む両手へ、気づかぬうちに力がこもる。
(俺が決めたことなんだから。もう二度と、親方達に迷惑をかけないで済むように、……ボハイラの蛇にこれ以上、アビリオで悪さをさせないために、……俺がここにいちゃ、いけないんだから)
 自分自身に、言い聞かせる。だがそれでも、――。何を言っても、いけない気がした。まだその実感すらわかないのに、ここで別れの言葉を発したら、その言葉が急に現実味を帯びてしまう気がして怖かった。
 もう二度と、戻れない気がして怖かった。
 だが。
 それまで黙って成り行きを見ていた、クラウスが苛立たしげに灰皿へ葉巻の先を押しつけたのを見て、ウィルは思わずぎくりとした。何か、気に触る事でもしただろうか。しかしそう考えて身を竦ませたウィルの一方で、クラウスは大きく溜息を吐いて立ち上がり、ウィルを押しのけるようにしてガラス窓に手をかけると、
 がばりと、躊躇無く最大限まで窓を開け放って、堂々たる態度でこう言った。
「おい。悪いが、お前らのところの従業員はしばらく預かる。そのうち返しに来るから、今は待て」
 あまりに横柄なその言いぐさに、ぎょっとしたウィルがクラウスの方を振り仰ぐ。クラウスは逆にウィルの顔を見て、不可解そうに眉根を寄せてから、またすぐ窓の外へと視線を戻してこう言った。
「それまでは、まあ、この地区の担当はブルーノだからな。文句があれば思う存分、ブルーノに対して言うといい。丁度そこのお前が胸ぐらを掴んでいる、その爺さんだ。見た目よりも頑丈だから、殴れるもんなら、一、二発八つ当たりに殴っても問題ないぞ」
 「軽くかわされるかも知れないが」と小さく付け足したクラウスの言葉を聞き終えず、唖然としたまま話を聞いていた、ウィルの方が青ざめた。
 この男は、突然何を言い出すのだ。そう思いながら窓の外へ視線を戻せば、ルドルフ達もみな虚を突かれた様子で、ウィル達のいる車両へ顔を向けている。
 「あの、」言葉がちっともまとまらないまま、弁解するようにウィルが言った。「親方、俺、ブルーノさんには助けてもらったし、散々お世話になったんです。だからあんまり、手荒なことは、……」
 何を言っているのだろう。自分で自分に、そう問うた。こんな事を言いたかったのではなかったはずだ。別れの時に、伝えなければならないことが、他にいくらもあったではないか――。だがそうして困惑するウィルの心中など推し量ろうとする様子もなく、憮然とした態度で席に着いたクラウスは、「助けたのは俺だろうが」と文句ありげに舌打ちした。
 汽笛の音が、高らかに鳴る。不意に風向きが変わり、急に煙が吹き込んできたのを受けて、ウィルは思わず咳き込んだ。喉が痛い。煙が目に染みる。だが両手で煙を掻き分けながら、やっとの事で目を開けば、白々と明けていく空には、それでもいくつかの星が輝いて見えていた。
「ウィル!」
 駆け寄ってきたルドルフが、声を荒げてそう呼びかける。
「お前、大丈夫なのか? どこに行くんだ。一体、何に巻き込まれたんだ。そこにいるのは、お前自身の意志か? それとも」
 雲の少しもない日であった。今日もさぞかし、青空の晴れ渡った一日になることだろう。
「親方、すみません、でも、」
 汽笛が鳴る。列車の速度が増してきた。
 ちらりと見えた駅のホームに、浮浪者のような身なりの人々が見えていた。誰かを見送るふうでもなく、ただ呆然とそこに立つ彼らの姿は人混みに紛れて目立たなかったが、しかしその異質さが、今のウィルにはよくわかる。
 気づけば、張り詰めていた胸がいくらか緩んでいた。だが不思議と、それでも涙は零れない。
(意志……)
 そこにいるのは、お前自身の意志か? ――ルドルフの問いには、まだ答えられない。けれど。
 ウィルは煙の合間を縫って大きく息を吸うと、腹の底から、こう言った。
「……、いってきます!」
 そう言うだけで、精一杯であった。
 ぎゅっと窓枠を握りしめる。煙が空にたなびいた。ごとり、ごとり、ごとり、進む速度を増すにつれ、車輪の音が軽やかなものへ変わっていく。
 間もなく列車がホームを離れた。景色がするりと流れていく。だがそこから列車を見送る人々の影は、それでも遠くに見えていた。
 もう声は届かないだろう。そう思いながらももう一度、「いってきます」と呟いた。そうしてようやく窓を閉じ、客室の方を振り返れば、ソファの肘掛けに腕をついたクラウスが、じっとウィルを眺めている。
「念のために、お前にはもう一度言っておく。今度は最後まで聞けよ」
 唐突にそう言われて、ウィルは神妙に頷いた。「今度は」というのは、ホテルで話をした時のことを言っているのだろう。あの時ウィルは、クラウスの話を最後まで聞かないまま、その場を飛び出してきてしまった。
「お前が帝王セドナの生まれ変わりであることは、今のところ間違いない。お前はこれからも、元を絶たない限り、ボハイラの蛇に狙われ続けるだろう。だがそれは、まだアライス・アル・ニール帝国が辛うじて形を成していた昔からわかりきっていた事だ。だからこそ俺達は、王の後を追って転生の術を受けたんだ」
 クラウスの目が、ウィルの目をじっと覗き込む。
 目を逸らそうとは思わない。目を逸らせるとも思えない。しかしそうして小さく頷いてから、ウィルはふと、この二日の間に度々疼いていた胸の火傷痕が、やけに大人しくなったことに気がついた。
――いつかきっと、君がその傷を誇りに思う日が来るはずだ。それは、『誓い』の証だから。
 夢の中で聞いたのだっただろうか。おぼろげな記憶のその声が、ウィルの脳裏に甦る。
「王に仕え、王を守り、ボハイラの蛇と戦うため。その為だけに転生した人間が、俺の他にも大勢いる。その事だけは信用してもらえないと、……この先、困る」
 唐突にそこで言葉を切って、クラウスが深い溜息を吐く。仏頂面のこの男は、それでも少しの間続く言葉を探すように視線を巡らせていたが、その内に諦めたようにもう一度息を吐くと、「ともかく、それだけ信じろ」とまた言った。
 ウィルも素直に、頷いていた。
 汽笛の音がまた鳴った。車窓は既にアビリオの街を離れ、背の低い草の生い茂る、緑の草原にさしかかっていた。
-- 第二章へ続く --
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