廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

016:夜明の駅 -2-

 空気が一瞬、震えた気がした。
 冷たいドアノブを握り、蹴りつけるように戸を開けた。そうして背の高い客席からステップを踏まずに飛び降りると、ウィルは咄嗟に、馬車をぐるりと広場の方へ回り込む。
 膝の痛みに気を取られて、ほんの一瞬、バランスを崩した。それでもなんとか持ち直して顔を上げると、今まさに鷲鼻の男の肩を掴み、殴りかかろうとしていたクラウスと目があう。同時に、
 ふと体勢を下げてクラウスの拳を避けた鷲鼻の男が、返す動作でその鳩尾に左手を打ち込んだ。
 ウィルに気を取られたせいだろう。一瞬全くの無防備になったクラウスの腹に、相手の腕がめり込んで見えた。息を呑んだウィルの目の前で、クラウスが、突き飛ばされるように地面へ腰を打つ。
「――クラウスさん!」
 思わず声が裏返った。腹を押さえて咳き込んだクラウスが、それでも体勢を整えようと、地に手を突いて鷲鼻の男を睨み付ける。咄嗟に駆け寄ったウィルは、しかし差し出した手に何をも掴むことのないまま、その場へ立ち竦んだ。
 ゆらと立ち上がるクラウスの目が、ぎろりと周囲を見回した。
 敵の数は。場の広さは。隙のない目が場に問いかける。庇うようにウィルの前へ立ったクラウスの表情は、白む夜明けの日差しに影していた。
「意外だな」
 やる気なげに葉巻の煙を吐き出し、そう独りごちたのはナールと呼ばれた鷲鼻の男である。彼は肩を竦めると、皮肉っぽくまた笑い、クラウスの剣幕に臆する様子もなくこう続ける。
「アライスの民に『雷帝』とまで呼ばれ、畏れられたイム殿が、考え無しに打ち込んでくるとは。余程頭に血がのぼったか? 珍しいものが見られたな」
 『イム』。聞いたことはないはずなのに、何故だかその名に、馴染みがあった。しかし思わず目を伏せたウィルの一方で、鷲鼻の男と対峙する、クラウスからの答えはない。たった一人で夜通し『ボハイラの蛇』と戦っていたのだろうこの男は、それでも疲労の色すら見せず、ぎらぎらとした目でじっと、鷲鼻の男を睨み付けている。
「そんなに怖い目をしないでくれないか。今日は『セドナ』の様子を見に来ただけのつもりでね。お前とは遊んでやれないよ」
「誰が、お前の都合を聞いた? 俺がこのまま、黙ってお前を見逃すとでも?」
「おいおい、勘弁してくれよ。ここで騒ぎを起こしたら、俺が叱られちまうだろう。――それに、」
 ナールと呼ばれたその男が、敵意のないことを主張するかのようにひらりと両手をあげてみせる。その目がちらと、ウィルを見た。
 楽しげな目。値踏みするようなその視線に、背筋がさっと凍りつく。
「お前だって、やっと見つけたそのお荷物に、怪我させたくはないだろう?」
 舌なめずりでもするかのようなその声が、じわり、耳元に染みこんだ。
 一触即発かと思われた。
 クラウスは鷲鼻の男を睨んだまま、ちらともウィルを振り返らない。鷲鼻の男は言葉とは裏腹に挑発的な笑みを見せ、クラウスが自らの腰に帯びた銃へ手を伸ばすのを、何も言わずにただ見ている。しかし顔を青くしたウィルが、自分でも気づかぬまま一歩後ずさった、その時だ。
「――セドナ様!」
 咄嗟に声を振り返れば、駅舎を出たブルーノが、真っ直ぐこちらへ向かってくるのが見て取れた。恐らくは、例の御者から事の次第を聞き、慌てて駆けてきたのだろう。思わずそちらに気を取られ、だが慌てて視線を戻し、ウィルはぎくりと肩を震わせる。つい先程まで鷲鼻の男がいたそこに、今は既に、誰の姿も見つけられなかったのだ。
 撃たれて死んだ他のボハイラの蛇たちのように、霞のように消えてしまったのだろうか。だが今の一瞬に、銃声や雷鳴は聞こえなかったはずだ――。状況を問おうとクラウスの様子をうかがえば、彼は今にも飛びかかっていくのではとさえ思われる敵意に満ちた顔をして、視線で何かを追っていた。つられてそちらを見てみると、今し方まで馬車の側で話をしていた、あの鷲鼻の男が、にやにやと笑いながらアビリオの大通りを去っていく。
 何が何だかわからないが、ひとまず、大事に至ることは避けられたのだろう。そう考えて小さく胸をなで下ろし、しかし駆け寄ってきたブルーノが真っ青な顔をして頭を垂れたのを見て、ウィルは再び狼狽した。
「わたくしがお側にいながら、『蛇の手』の接触を許すとは……、本当に、申し訳ありません」
 そう話す肩が、震えている。「あの、大丈夫です。俺、何ともないですから」ウィルが助け起こすようにそう言うと、ブルーノが恐る恐る頷いた。ふと見れば駅前に集まっていた人々が、一体何事かとこちらの様子を窺っている。ウィルは視線を避けるようにいくらか俯いて、馬車の影になるように立つと、呟くようにぽつりと問うた。「『蛇の手』……。あの人も、『ボハイラの蛇』なんですか」ブルーノは頷いたきり、言葉を続けようとはしない。
「出立のための足は」
 低い声でそれだけ問うたのは、クラウスだ。その視線はいまだに鷲鼻の男が去っていった方向を追っていたが、敵意に満ちた威圧感は、いくらか薄れている。
「ファーマティカまで、列車の席を用意してあります。発車時刻を早めるようにと依頼をかけましたから、ボイラーが暖まり次第駅を出るはずです。クラウス様の荷物も、お泊まりのホテルから引き上げてきました。今は、馬車の中に」
 「そうか」と短く答えを返して、クラウスがふと、ウィルの方を振り返る。
 睨み付けられたわけでもないのに、ウィルの背筋がぴしりと伸びた。何やら下手なことをしたら、罵倒される気がしたのだ。しかしそんなウィルの様子を見たクラウスは、ほんの一瞬虚を突かれた様子で瞬きをしただけで、すぐに視線を外すと、「行くぞ」と駅へ歩き始めた。
 その後を、やや小走りに、ついていく。
(駄目だ、俺――。この人に、お礼を言わなきゃいけないのに)
――今はどうか、どうか後生だから、
 助けてください。
 暗いあの森の中で、「わかった」と答えたクラウスも、ウィルへ即座に背を向けた。恐らくはその顔に浮かんだ表情を、隠したつもりなのだろう。
(最もマナに愛された、アライス・アル・ニール帝国最後の王……)
 ウィルこそがその帝王セドナの生まれ変わりなのだと、クラウスは確かにそう言った。だがそうして王と信じたウィルを見る、クラウスの表情はいつだって、
 明らかな失意に満ちている。
(……、俺がちっとも王様らしくないから、きっとがっかりしたんだろう)
 だがそうだとしても、ウィルには今この状況を受け入れるだけで精一杯だ――。
 クラウスが『蛇』の血の染みた、自らの上着を無造作に丸めてブルーノに持たせる一方で、ウィルは御者から渡された紺色の膝掛けを、肩から被って暖を取る。ブルーノが用意してくれた旅の荷物は、全てクラウスが手に持った。自分の荷は自分で持つと言ってはみたものの、クラウスが少しも耳を貸さなかったのだ。実際、自分で用意したわけでもないその荷を自分の物だと言って良いものかと判じかねていたウィルは、黙ってそれに従った。擦りむいた腕もまだじくじくと痛んだし、彼らがそうするというのなら、黙って従うべきなのだろうと、どこか諦めにも近い実感があった。
(ファーマティカ行きの、列車のチケット)
 滅多にお目にかかることのない厚みのある良質な紙に、金色の模様の入ったそのたった一枚の紙切れが、今はやけに、心に重い。
 ああ、しっかりしなくては。心の内で、自分自身を叱咤する。
 他に選択肢がなかったとはいえ、自分でそれを選んだのだ。せめてこれ以上に失望されることがないように、しっかり立っていなくては。
 しっかり立っていなくては。
「わたくしはしばらくの間アビリオに残り、後から御前へ参じます。何かご自宅に残された物で、必要な物があればその時にお持ちしますが、いかがいたしましょうか」
 ブルーノにそう問われたときは、やっとの事でやんわりと笑んで、「大丈夫です。あまり、物のない家なので」と力無くだが答える事が出来た。実際、家に置いている物など備え付けの家具以外には、着替えとちょっとした食べ物くらいである。印刷所にはウィルが勝手に私物を入れている引き出しがあったが、それについてはきっと、ルドルフが良いようにしてくれるだろう。
 「おい、ウィル。お前に丁度良い部屋が空いたらしくてな。ちょっと見に行かないか」なんでもないような口調で言ったルドルフに連れられ、初めて例の安下宿を訪れたのは、ウィルが印刷所の技師見習いとして認められた数週間後の事であった。寝泊まりなら印刷所の床で十分なのに、と言ったウィルを見て、「チビの頃はそれでも良かったんだけど」と、クルトが笑っていたのを思い出す。「今じゃでかくなりすぎて、お前に床で眠られたんじゃ、邪魔なのさ」
 冗談めかしたその言葉は、何故だかやけに、優しかった。
「下宿を借りる時、親方に――ライジア印刷所のルドルフ所長に保証人になってもらっているので、……。迷惑がかからないように、部屋の解約手続きをお願いできますか。うちの大家さんは話のわかる人だから、それ程手間はかからないはずです。書き机の下の木箱に、少しだけお金を入れてあるので、今月の分はそこから支払ってください。……それから、」
 言葉が不意に、宙を迷った。「それから、いかがしましたか?」ブルーノが穏やかにウィルの言葉を促したが、ウィルはただ、黙って首を横に振る。
 しっかり。
 しっかり、立っていなくては。
(それから、……印刷所のみんなに、こう伝えてください)
 「どうか元気で」「俺のことは、心配しないでください」。
 心の中だけでそう続けて、駅のホームから列車のタラップへと足をかけた。
 それらの言葉を口に出したら、また泣いてしまう気がしていた。

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