廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

015:夜明の駅 -1-

 夜明け前のアビリオの駅には、既に多くの人が集まっていた。
 どこか遠くの街へ行くのだろうか。両手でようやく抱えられるような大きさの荷物を脇に、酒を呷る男が居る。その隣には、身を寄せ合うように冷たい階段へ腰掛け、顔を寄せて眠る親子の姿が。他にも様々な人が皆一様に、うっすらと顔を出した朝日の下、鉄道の運行を待っていた。
 見渡した限りでは、ウィルと同じような身なりをした、労働者階級の人間が多い。恐らくは皆、末席の当日券を手に入れようと待ち構えているのだろう。列車の席にはピンからキリまで等級があるが、綿の入った柔らかい椅子のある席など、一般人にはどうしたって手が届かない。構内の暖かな待合室を使うことさえ許されない彼らは、こうして寒さに耐えながら、やっとのことで一番安価なチケットを買い、堅い木の椅子に腰掛けて長距離を移動することになるのだ。
(アビリオを出るとは言ったけど、これからどこへ向かうんだろう……)
 心の中で呟いて、しかし声に出しては問わぬまま、ウィルは小さく溜息を吐いた。そうしてそっと、ポケットに入れた小銭入れへと手を伸ばす。現実的に考えて、ウィルの所持金では一番安い席でも、三つ四つ先の停車駅まで行くので精一杯だ。それに行けるだけ遠くまで逃げたところで、それから先は何をして生計を立てたらいいのだろう。そう考えれば嫌でも、情けない溜息が胸を突いて溢れたのだ。
――俺がアビリオにいちゃいけないなら、すぐ出て行きます。実家にでも帰って身を隠します。それも駄目ならどこにでも……!
 あの言葉を、後悔しようとは思わない。だが、それでも、――
 ゆっくりと、馬車が歩みを緩め始める。その小さな窓から顔を覗かせて、ウィルはそっと目を伏した。
(あの人は、……クラウスさんは、あれからどうしただろう)
 『ボハイラの蛇』を食い止めるためと言って、彼を一人置き去りにしてしまったことに、今更ながら罪悪感を覚えていた。
 ウィルを見て咄嗟に、「間に合ったのか」と自問した、青年のことを思い出す。あんなに汗をかいて、息を切らして駆けつけてくれたのに、ウィルは礼すら言わなかった。
 何故だかぶるりと、腕が震えた。ウィル自身にはその震えの理由がわからなかったのだが、隣に座っていた老紳士は、どうやら寒いようだと見て取ったらしい。どうぞ、と差し出された膝掛けをウィルが恐る恐る受け取ると、彼は穏和な笑みを浮かべて、「何か温かい飲み物でも用意しましょう」と申し出た。
「列車のチケットを用意しますから、セドナ様はこちらでお待ちください。それから、これを。目的地まで何日かかかりますので、その間に必要そうな物を入れておきました。足りない物があれば、列車の乗務員に仰っていただければ済むように手配しておきます」
 てきぱきとしたその声に言われるまま、おずおずと、曖昧な返事をする。色々と気にかけてもらえるのはありがたいが、こんなにも立派な装いをした人にこれ程世話を焼かれるのは、どう考えても、不相応だ。
「あの、……」
 老紳士が恭しく頭を垂れて馬車を降りようとするのを見て、ウィルが咄嗟に呼び止める。しかし言葉が続かない。そういえば、彼の名前すら尋ねていなかった――。すると相手は心得たようににこりと笑って、「ブルーノ・アッヘンヴァルと申します」と朗らかに返す。
「セドナ様の御世では、ザラフトと名乗っておりました」
 セドナの御世。つまり前世での、アライス・アル・ニール帝国の国民だった頃の名と言うことだろうか。
「ブルーノさん、あ、いや、ザラフトさん……」
「呼びやすい名で、お呼びください」
「すみません。あの、何から何までご面倒をかけて」
「とんでもない。わたくしなどがセドナ様のお世話をさせていただけるだけで、この上ない幸せというものです」
 そう言ってまた恭しげに頭を垂れると、ブルーノが手に高貴な杖を持ち、駅の構内へと消えていく。それをじっと見送ってから、ウィルは恐る恐る息を吐いた。
 『セドナ様』。彼は終始、ウィルのことをそう呼んだ。
(遠い昔に滅んだ、アライス・アル・ニールという国の最後の帝王……)
 そうだ。彼らは、――ウィルがその王の生まれ変わりであると信じるからこそ、こんなにも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのだ。
 彼らの言うままに町を発つというのは、つまり、そういう事なのだ。
 手にしたままでいた膝掛けを、ぎゅっと強く握りしめる。すると足下に、見覚えのあるトランクが詰まれていることに気がついた。クラウス・ブランケの泊まっていたホテルで見た、あのトランクだ。使い古したトランクはあちこちに傷をつけてはいたが、薄明かりの中で飴色に輝いている。この鞄の持ち主は、きっと今までにもこの鞄を持って、随分あちこちを旅してきたのだろう。
(そういえば、……クラウスさんにも、何か前世の名前があるのかな)
 ぼんやりと、そんなことを考える。考えなくてはならないことは他にいくらもあるとわかっていたのだが、最早疲れ切っていた。あちこちの傷もまだ痛むし、体がやけに重く感じられる。少し暖まったせいなのか、気を抜けば、そのまま眠ってしまいそうだ。
(ブルーノさんが戻ってきたら、聞いてみようかな……)
 そういえば、クラウス自身はウィルのことを、あくまでも『ウィル』とそう呼んだ。それがよいことなのか、その逆なのかは判じ難いが、可能であればこれからも、『ウィル』と呼んでほしいものだ。
 セドナ、セドナと呼ばれても、今のウィルには、まるで他人事のようにしか思われないのだから。
(ああ、でも、一度だけ、)
 一度だけ、どこかで『セドナ』と呼ぶ声を聞いた。あれは一体いつだったろう――。
 無意識のうちに目を瞑っていた。眠ってはいけない。そう思いながら、背もたれに深く腰掛ける。かくりと船を漕いでから、ウィルはゆるゆると首を横に振った。すぐにブルーノが戻ってくるはずだ。声をかけられたら、いつでも出かけられるようにしておかなくては。
 深く、長く、息を吐く。握りしめていた指先から、ふと力が抜けていく。
 思えばここしばらくの間、ろくに眠っていないのだ。ブルーノが戻るまでのほんの少し、ほんの少しの間だけ、目を閉じていても良いだろうか。しかしウィルが自身の問いに許しを与えた、
 その瞬間。
「なんだ、結局思い出さなかったか」
 唐突に耳元で声がして、思わずびくりと飛び起きる。慌てて左右を見回しても、馬車の中にはウィル以外の誰の姿も見られない。しかし、――真横にある小さな窓から外を見て、ウィルはさっと青ざめた。
「追い詰められれば、王の力を取り戻すだろうかと思ったが」
 ウィルの乗った箱馬車へ寄りかかるようにして、一人の男が立っている。見覚えのある人物だ。以前とは違い黒っぽいくたびれた上着を羽織っているが、間違いない。
 特徴のある、鷲鼻の男。
(――取り調べの時の、警察官)
 無意識のうちにウィルの右手が、自らの胸を押さえつける。左手は助けを求めるようにブルーノの出て行った扉へ伸びたが、ドアノブに指はかからなかった。外へ出ても、すぐにこの男と顔をつきあわせることになる。もしかすると既に、周囲を警官隊に包囲されているのかもしれない。そう思うと、迂闊に動くわけにはいかなかった。
――お前がどんなに間抜けでも、魂は全てを覚えているようだ。
 取調室で聞いたその言葉を思い出せば、また小さく手が震える。
 警官隊の手でグラダへ連行される道中に、『ボハイラの蛇』が現れた。まるでウィルの訪れを、待ち構えてでもいたかのように……。そうだ。『蛇』はあの場にウィルが、『セドナの生まれ変わり』がいることを確信していた。彼らは事前に、ウィルがあそこへ向かうことを聞いていたのだ。
 ならば、それは、一体誰から?
「あ、……あんたも、」
 絞り出した言葉が、震えている。
「あんたも、『ボハイラの蛇』……の、一員なのか」
 窓の外から、答えはなかった。しかし唐突に、
 吹き出すような笑い声が、その場へ低く反響する。御者台に聞こえないようにと配慮しているのか、けっして大きな声ではない。だがまるで地を這うようなその声は、ウィルの耳元にまとわりついて離れない。
「まさか、今更それを問われるとは。まあしかし、それもそうか。かの帝王と言っても、所詮はただの人間だ。転生すれば全て忘れる。ましてやお前、最期は全てのマナを失って、土に還ることすら出来なかったものな。人並みに死ねもしなかったのに、真っ当に生まれ直せるわけがない」
 皮肉めいた笑い声が、まるで形を持った影かのように、そこにとぐろを巻いていた。
 ウィルの左手がやっとの事で、扉のノブを握りしめる。鷲鼻の男の真意はわからなかったが、もしまた襲われるようであれば、なんとかしてこの場から逃げ出さなくては。しかしそんなウィルの行動を読んだかのように、男は、「つれないな」とまず言った。
「逃げようなんて考えるな。俺は様子を見に来ただけさ。他の奴らは今のうちに手を打とうとしている様子だが、覚醒前のお前など、喰らっても何の旨みもない。それに、――ああ、ほら。お前の放した、番犬サマのお帰りだ」
 葉巻に火をつける音。見れば鷲鼻の男は、火の付いた葉巻を片手に馬車からいくらか身を離し、ウィルに対して背を見せた。そうして広場へ向けられた男の視線を追えば、まさに今、駅前の中央広場へ一騎の馬が到着したのを見て取れる。
 馬車に使われていた馬だろうか。鐙もなく、ろくな馬具も身につけていないその馬には、一人の男が跨がっていた。見覚えのある赤褐色の髪のその男は、まとった外套にどろりとした、タールのような液体を浴びた出で立ちでいる。しかし彼はそれを隠す風でもなく颯爽と馬を下り、広場を見渡すと、ウィルの乗った馬車とその側に立つ鷲鼻の男とを見て、ぴたりとその場へ立ち止まった。
「おやまあ、随分と血を浴びたようで」
 鷲鼻の男がそう言った。対峙した相手は――クラウスは、顔面蒼白でじっと佇んで、しかし相手を睨み付けると、憎々しげに拳を握る。
「ナール、……どうしておまえが、ここにいる」
 『ナール』。その名なら、これまで幾度か耳にした。
――ナールの話とちがうようだ。ひとがおおい。……王は、どれだ?
――それいじょうは、ナールに聞かなければわからない。
――ナールの所へつれてゆこう。それならまちがえないはずだ。
 暗い目をした『蛇』達が、確かにその名を呼んでいた。
「いちゃ悪いか? 俺は今、この街で仕事に就いているんだ」
「悪い冗談だ。そこで、今、何をしていた」
「久しぶりに会ったのに、聞きたいことはそれだけか? 昔話でもしようじゃないか」
「答えろ。――そこで、一体何をしていた」
 怒気を含んだ声と同時に、パリ、と乾いた音がした。あの雷を使うつもりだろうか。だがウィルを助けた夜更けの町や、森の中とは違い、ここでは人目に付きすぎる。
 ようやく事態を察した御者が、小さく叫んで足音を立てた。恐らくは、構内へブルーノを呼びに行ったのだろう。しかし同時に外から聞こえてきた、からかうようなその声に、ウィルは思わず息を呑む。
 ちらり振り返った鷲鼻の男と、ほんの一瞬、目があった。
「それにしても、随分悠長なお帰りじゃないか。俺なんかに先を越されて、俺がお前達の大切なご主人様を、この馬車の中の人間を、……たった今殺したところだ、と言ったらどうするつもりだ?」

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