廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

014:居場所

「お前ってつくづく……仕事大好きな奴だよなぁ」
 いつのことかは忘れたが、職場で記事を読んでいたウィルを見て、ドルマンがしみじみと噛みしめるようにそう言った。確かよく晴れた春のことで、ウィルの非番の日であった。たまには好きなことにでも時間を使えと言われ、ルドルフから半ば強制的に休みを言いわたされていたのだが、かといって狭い下宿で何かをするわけでもなし、街へ出てみても別段面白い事もなく、だらだらと過ごす内に、足が自然とライジア印刷所に向いてしまったのだ。
「折角の非番の日に、何でここにいるんだよ。こうも毎日同じ所にいて、気が滅入らないのか」
「うーん? 下宿を借りるまでは夜も印刷所の床で寝てたし、あの頃よりは外にも出てると思うけど」
 答えれば、ドルマンは心底呆れた様子で溜息を吐き、「こいつぁ、病気だ」と呟いた。
「ほら、フットボールの試合でも見に行くとかさ」
「そういうのは、高価いからなぁ」
「ちょっといいもん食べに行くとか」
「今朝の朝飯は、良いもの食べたよ」
「……、一応聞くけど、一体何を?」
「マダム・ネラのホットケーキ。ほら、あそこいつも行列だろ? 朝から仕事の日は、並んでたら間に合わないからさ。でも、あれだな。折角食べに行くんなら、仕事上がりにみんなで行った方が美味しいな」
 そう言ってウィルが持っていた記事を折りたたむと、ドルマンは心底面白みのない様子で溜息を吐き、「まあ、そりゃ結構だけどさ」と呟いた。ドルマンの言葉は「だから彼女もできねえんだよ」とも続いたが、ウィルはまるで耳に入らなかったように活字棚の前へ腰掛け、早速、目を通した記事を組み始める。
 仕事が好きかと問われれば、好きだと即答出来るほどではなかったが、性に合っているかと聞かれれば、恐らくウィルは頷いただろう。こうして何かに取り組んでいられる環境は心地よかったし、親方や、同僚達の居る印刷所は、下宿よりも余程自分の家かのように思われた。
(俺は、恵まれてる)
 いつだってそう思っていた。同じ時期に親元を離れ、アビリオへやってきた子供達の中には、人知れず姿を消した者も、怪我や病気をして仕事をすることが出来なくなり、迎え入れられる保証もないまま実家へ戻った者もいた。
 彼らのその後を案じて胸を痛めることは出来ても、助けることは出来なかった。ウィルに出来ることはただ、やっとの事で手にした自らの立ち位置を、必死に守ることだけだったのである。
「しかたねえな」
 隣で話を聞いていた所長のルドルフは、笑いながらそう言った。
「今晩は、みんなでいいもん食べに行くか」
 
 * * *
 
 背後で、雷鳴が轟いていた。
 ヘッセが肩越しにちらちらと、その様子を振り返る。何か問いたげにウィルを見ているのがわかったが、ウィルは構わず駆けていた。ドルマンに背負われたクルトが小さく唸るのを聞き、その右足をぐっしょりと濡らした赤い血を見て、やるせない思いに拳を握る。獣の爪が掠っただけだと本人は言ったが、それでも痛むに違いない。
――こちらへ向かっている馬車があるはずだから、必ずそれと合流しろ。この場は俺がどうにかする。
 そう言ったクラウスは、群がる『蛇』のまっただ中へと躊躇もなしに駆けていった。
 その左手が地を撃てば、轟音と共に光が墜ちた。
 その右手が空を切れば、地を這う光が『蛇』を焼いた。
(あれが、……マナの力?)
 クラウスは、ウィルにも『マナ』を操ることが出来るはずだと、そう言った。
(だけどあんな魔法使いみたいな事、どうやったら)
 思考がぴたりと、そこで止まる。前方から見知らぬ馬車が二騎、こちらへ向かってきているのが見えたからだ。
 クラウスの言っていた、仲間の馬車だろうか。そうは思いながらも、ウィルは咄嗟に身構えた。ウィルを追ってきた『蛇』の可能性もある。しかしウィルが肩で息をしながら、同僚達と共に立ち止まったその瞬間、
「ウィル! おい、全員無事か!」
 聞き覚えのあるその声に、思わずはっと顔を上げる。見れば馬車の窓から乗り出すように、誰かが手を振っていた。暗がりで顔は見えないが、それが誰かは声で知れる。
「……親方!」
 クルトを一度背負い直し、ドルマンが手を振り返す。ウィルも今は背後に『蛇』の姿がないことを確認すると、二騎の馬車へと駆け寄った。
「お前達、ボロボロじゃないか。クルト、傷は? 深いのか? え?」
 速度を落とした馬車から飛び降りるように出てきたルドルフが、まずは口早にそう言った。青ざめた表情に無理矢理笑みを浮かべたクルトが、「大丈夫です」とそれに答える。ヘッセは不安げに後ろを振り返りながら、「早く行こう」と声をかけた。ドルマンが不慣れな様子でクルトの傷を止血しようとするのを見て、御者達がそれを手伝っている。
 ああ、よかった。浅く胸をなで下ろす。ルドルフがどこで合流したのかはわからないが、どうやら、クラウスの言っていた味方の馬車のようだ。きっとこれで、『蛇』からも無事に逃げ切ることができるだろう――。
 無意識のまま、一歩、二歩と後ずさる。自分でも、何故そうしたのかはわからなかった。だがそうして同僚達から距離を取り、ふともう一台の馬車の方へと視線をやると、ウィルは思わずぎくりとする。
 口元に髭を蓄えた、品の良さそうな老紳士が、ウィルのことをじっと見ていた。
 初めて見る顔だ。しかし相手はまるで旧い知人に再会したかのように、目を細めて微笑みかけ、恭しげに深々と、ウィルに向かって頭を垂れる。
「お迎えに上がりました。……セドナ様」
 老人の目にうっすら浮かんだ涙の粒が、薄い月夜に光を帯びている。
――覚醒しようが、しなかろうが、お前を蛇に引き渡すわけにはいかないんだ。
「親方、一体何が起きてるんです。ウィルを搬送していた警官達が二人とも、突然殺されたんです!」
「この馬車、一体何なんですか? さっきも、俺達を助けてくれた人がいたんです。この人達、いや、あの獣もだけど、何者なんです? 親方は、何か知ってるんですか?」
「いいから、怪我人どもはとっとと乗れ! ほら、ウィルも早く!」
 ルドルフ達の話す声を聞き、ちらと彼らを振り返る。しかし両足が、動かない。
 「セドナ様」と、老紳士はもう一方の馬車へ向かって手を延べ、ウィルに向かってこう言った。「あなた様は、どうぞこちらの馬車へ。このまま、アビリオの駅までお送りします」
――お前の意志にかかわらず、これからもボハイラの蛇はお前を狙うだろう。その度にまたこういう事が起きる。何度でも。
――これからは、俺達の組織と行動を共にしてもらうからな。
 ちらりと、クルト達を乗せたもう一方の馬車を見る。いつもよりいくらか青い顔をしたルドルフと、ただ、静かに目があった。馬車に手をかけ、しかし足は地につけたまま、彼の目が問いかけるように、ウィルの事を窺っている。
「……ウィル?」
 眉間に皺を寄せ、困惑気味に、窓から顔を覗かせたヘッセがそう呼んだ。だが同時にウィルの脳裏には、獣に牙を突き立てられ、絶命した警官の姿が甦る。
「巻き込んでしまって、……すみませんでした」
 ぽつりと、呟くようにそう言った。
「今回のこともそうだし、それに、……俺が火をつけた訳じゃないけど、でもきっと、最近の火事も俺のせいで、俺がアビリオにいたせいで、」
 そろりと、一歩、後ずさる。
「火事? お前、何言ってんだ。あれは警官隊の奴らが、適当に片をつけようとして言いがかりをつけてきたんだろう。そんなのみんなわかってる。お前が気にする必要はない」
「違うんです。俺もまだよく、わからないけど、」
 一歩、また一歩と距離を取る。
――俺がアビリオにいちゃいけないなら、すぐ出て行きます。でも今はどうか、どうか後生だから、
 自分がどんな顔をしているのか、ウィルにはちっともわからなかった。
「親方、乗ってください。早く街へ帰らなきゃ」
「わかってる。だから、お前も早く」
 背中が何かに行き当たる。もう一方の馬車の戸だ。見ればウィルのすぐ隣で、例の老紳士はじっと口をつぐみ、ただ、ウィルの言葉を待っていた。
 その瞳は、穏やかだ。
 深く、静かに息をする。肩がぶるりと小さく震えた。
 傷の乾かぬ掌が、鋭い痛みを訴える。
 枷の跡が付いた手首も、微かな悲鳴を上げてはいた。だが、それでも、
――どうか、――みんな、助けてください。
 それでもウィルは微笑んで、ひらひらと軽く手を振った。
「そっちの馬車に俺まで乗ったら、狭いでしょう? 俺はこっちに乗せてもらいます。追っ手が来るかもしれない。早く行かなきゃ。だから親方、――乗ってください」
 くるりと背を向け、馬車へ乗り込む。一瞬、強ばったルドルフの顔が垣間見えたが、ウィルは最早振り返らなかった。
 老紳士がウィルの後に続いて乗り込み、ぱたりと馬車の戸を閉める。彼が御者に何事か告げるのを片耳に聞きながら、ウィルは堅い口調でこう問うた。
「……印刷所のみんなのこと、無事に、帰してもらえますか」
「勿論です。私の仲間が責任を持って、お連れします」
「俺がいなければ、あの、……ボハイラの蛇も、もうアビリオで悪さはしませんよね」
「その可能性は、高いかと」
 「わかりました」短く答える。がたりと馬車が走り出す。姿勢を正して席に座し、ちらりと窓の外へと視線を向ければ、真っ暗な街道を走るこの馬車からも、頭上には静かな星空が望めていた。
 この街の夜空は、いつもこんなに晴れ渡っていただろうか。そんな疑問が胸に落ちる。
 長い、静かな道のりであった。隣に座った老紳士は、ただまっすぐに道の先を見据え、ウィルから何かを問わなければ、少しも言葉を発しない。
 馬車が街へ入っていく。ウィルのよく知る街の道を、なぞるように駆けていく。気づけばすぐ後ろを走っていたはずの、もう一台の蹄の音が聞こえない。脳裏に地図を思い描くまでもなく、二台の馬車が今、既に、大きく道を違えてしまったのだと、ウィルにはよくよくわかっていた。
「……今まで、お世話になりました」
 窓の外へ、呟いた。
 その声が涙で掠れていることに、隣の老紳士も恐らく気づいたことだろう。しかし暗い馬車の中には、それ以上、一つの言葉も零れなかった。

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