廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

013:取引

 獣の腕が衝撃に伸び、ウィルの鼻先を引っ掻いた。しかし直後にぐったりと、それが力を失うのを見て、ウィルは恐々息を吐く。
 直前に、何やら知った光を見た。爆発音と聞こえたそれは、確かに、――雷鳴の轟くそれである。
(昨日の晩にも見た。あれは、……)
 ウィルが自らの置かれた状況を判じる前に、外で鋭い銃声が唸る。同時に、じっと閉ざされていた扉が蹴破られた。だらりとぶらさがった鎖を見るに、恐らく、錠を銃弾で撃ち破ったのだろう。
 開かれた扉の正面に、ゆらりと立つ一つの人影。それを見て、ウィルは思わず、呟いた。
「クラウス・ブランケ……」
 相手はウィルにすぐには応えず、ただぜえぜえと肩で息をして、自身の頬を伝う大粒の汗を無造作に袖で拭い去る。そうして半壊した木壁へと気怠げにもたれ掛かると、しかし襲いかかってきた『ボハイラの蛇』へ向けて躊躇なく、寸分の狂いもなしに、また銃弾を撃ち込んだ。
「……、俺は、間に合ったのか?」
 切れ切れに、答えを求める様子でもなく、苛立たしげにクラウスが言う。彼が何をもって「間に合った」と言ったのかは判じかねたが、ウィルは反射的にそれへ頷いて、しかし改めて目にした扉の向こう側の様子に、小さく身震いした。いまだ周囲を取り囲む『ボハイラの蛇』達の姿と、傷ついた同僚達の姿がそこに見えたからだ。
「……っ!」
 不自由な両手で膝を庇いながら立ち上がり、慌て駆け寄ろうとしたウィルの肩を、クラウスの腕が強く掴む。咄嗟にウィルが振り仰ぐと、相手は苦い表情のまま、「馬に乗れるか」とまず問うた。
「えっ?」
「最悪、しがみついて居られればいい。俺が乗ってきた馬が一騎あるから、それに乗って、お前は今すぐ街へ迎え。俺の仲間がこちらへ向かっているはずだ。それに合流しろ」
 一瞬、何を言われたのかがわからなかった。
「助けに、……きて、くれたんじゃ」
 そう問うた声が、また震える。しかしクラウスはウィルの肩を掴んだまま、視線は既に『ボハイラの蛇』を見据えている。
「ひ、一人で逃げろって言うんですか? そんなこと、出来るわけ」
「出来ないとは言わせない。覚醒しようが、しなかろうが、お前を蛇に引き渡すわけにはいかないんだ。この場はお前を優先して逃がす」
「で、出来ません! みんな、俺を助けに来てくれたんです。一緒じゃなきゃ、逃げません」
「ウィル、」
 何か言いかけたクラウスの言葉を遮るように、また獣の雄叫びが響く。息を呑んだウィルの真横で、鋭い銃声が唸りを上げた。耳が鳴る。硝煙に焼かれた目が痛む。そうして、突然視界に入ったそれを見て、ウィルは思わず息を呑む。
 クラウスの持った拳銃が、唐突にウィルの腕へと向いたのだ。
「一緒じゃなきゃ、逃げない? つまりこの状況で、俺一人にお前達全員を守りながら戦えとでも言うつもりか。それとも、お前にどうにかできるとでも? この短期間で、お前がマナの扱いだけでも思い出してくれたっていうなら、勝算は十分にあるんだが」
 鋭い声でそう問われると、答える言葉が出てこなかった。直後に背後で『蛇』の声が聞こえたが、ウィルが振り返るより早く、クラウスがそこへ銃を撃つ。その銃口がさっと下がり、ウィルの両腕を拘束する手錠の金具を打ち抜いたが、ウィルには、それをただ黙って見ていることしかできなかった。
 マナ。この男の言うとおりなら、ウィルは昨日の晩にも、自らその力を使っていたはずであった。だがウィルには、それがどんなものであったのかも、一体どのように使ったのかも、ちっとも覚えがないのである。
 恐る恐る、小さく首を横へ振る。クラウスの吐いた溜息が聞こえる。
「ウィル、よく聞け。お前がどう思おうが、お前が帝王セドナの転生先である事実は変わらない。それが知れた以上、お前の意志にかかわらず、これからもボハイラの蛇はお前を狙うだろう。その度にまたこういう事が起きる。何度でも。……俺の言いたいことが、判るか?」
――あいつらは今までも、マナを使ってお前の行方を捜していたんだ。だがこうしてお前の居所が知れた以上、今後は間違いなくお前を標的にしてくるだろう。
 始めにそう言われたときには、何を馬鹿なことを、とそう思った。詳しい話を聞いてからも、何もかも全てが自分とは遠いどこかのこと、見知らぬ誰かの話としか思えなかった。
 けれど。
――ウィル、……帰ろう。
 クルトはそう言って、容疑をかけられたウィルに手を延べてくれた。その彼が、怪我をして蹲っている。他の二人も同様だ。顔を青くし、訳もわからないまま、ウィル以上に不安な思いをしているに違いない。
「俺が、」
 声がいくらか、うわずった。
 焼け落ちた、街の家屋を思い出す。あの時見かけた靴の持ち主は、今頃どうしているだろう。
「俺がアビリオにいちゃいけないなら、すぐ出て行きます。実家にでも帰って身を隠します。それも駄目ならどこにでも……! でも今はどうか、どうか後生だから、」
 目の前に立つ男に向かって、がばりと大きく頭を垂れた。視界に映る相手の両足は、ただその場に立ち尽くし、一歩も移ろう気配がない。
「どうか、――みんな、助けてください」
 顔は上げずに、そう言った。
――アライス・アル・ニール帝国最後の王は、最もマナに愛されていた。幾種ものマナを身に纏い、誰よりも強大な力を扱った。
――この短期間で、お前がマナの扱いだけでも思い出してくれたっていうなら、勝算は十分にあるんだが。
(だから、言ったんだ)
 心の中で、毒づいた。
(俺がそんな凄い人のはずがない。だって王様なら、俺が『セドナ』だったなら、)
 大切な人達を守るために、こうして出会って間もない相手に頭を下げることしか出来ないだなんて、――そんな惨めなことがあるだろうか。
 答えより先に、鋭い銃声が聞こえてくる。慌ててウィルが顔を上げると、クラウスは表情を読ませぬ仏頂面のまま、何事かを小さく呟いた。しかし問い返す間も与えずに、ウィルに背を向けると、短く「わかった」とだけまず返す。
「早く行け。こちらへ向かっている馬車があるはずだから、必ずそれと合流しろ。この場は俺がどうにかする。……だがその代わり、これからは、俺達の組織と行動を共にしてもらうからな」
 揺るぎのない声。強い声だ。いくらか肩が震えたが、それでもウィルは頷いた。
 一歩、二歩と後ずさる。そうしてクラウスが『蛇』の群れへと駆け出すのと同時に、ウィルは足に怪我をしたらしいクルトへ駆け寄り、手を延べた。
 ちらりと頭上を振り仰ぐ。
 月が薄い。
 やけに見事な、星空であった。
「ウィル! あの人は誰? 一体、何の話をしてたんだ」
「お前、あの妙な獣のこと、何か知ってるのか?」
 次々にそう問われても、答えることが出来なかった。
 そうしてウィルは闇夜の下、長い、長いアビリオへの帰り道を、ただひたすらに駆け出した。

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