廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

012:其の声

「覚醒していないお前に、何もかもすぐに信じろとは言えない。だが危険が迫っているのは事実なんだ」
 クラウス・ブランケは、ウィルに向かってそう言った。
「奴らはお前を見つけるためだけに、この街の民家へ無差別な放火を繰り返してきた。今後はもっと、お前に身近なところで事が起こる。だから、」
 
「ドルマン、後ろ!」
 思わず、声が裏返る。それでも咄嗟に振り返った同僚が、獣の突進から辛うじて逃れたのを見て、ウィルは大きく息を吐いた。
 「最悪だ」そう呟いて、鳥肌の立つ自らの腕をぎゅっと掴む。獣に食いつかれた警察官の方へと恐る恐る視線をやると、最早物言わぬそれは月夜にてらてらとした水たまりを拵えて、その中央にぐったりと横たわっていた。御者台にいたはずのもう一人の警察官は、その傍らに立ちがたがたと膝を震わせている。
「そ、……その警察官、死んだのか?」
「お、お、お、お前等、一体何を連れてきた! 放火犯の仲間が、今度は何をしでかすつもりだ!」
「知らねえよ、そんなのこっちが聞きたいくらいだ!」
 恐怖に引きつる声を聞きながら、ウィルは震える手で格子を掴み、また外の様子を覗き込む。
 影達がじわりじわりと距離を詰めて、月光の下へ顔を出していた。ボロを纏った浮浪者のような身なりの人間達と、それに寄り添う獣達。しかしその獣達も皆一様に毛並みを逆立て、目を白濁させて、その異質さを際立たせている。
「王は」
 その中の一人が、ぽつり、呟いた。
「ナールの話とちがうようだ。ひとがおおい。……王は、どれだ?」
「わからない。まちにのこった雷のマナが大きいために、王のマナがよくみえない」
 ずんぐりとした目を瞬きもせずに、ぽつりぽつりと話し合う声。
(雷……)
 街に残った『マナ』というのは、クラウス・ブランケの事だろうか。
「かくばった帽子のにんげんは、くちふうじに殺してよいときいた」
「だがそれいじょうは、ナールに聞かなければわからない」
 一人が言うと、他の一人がにやりと笑んだ。その体がゆらりと歪む。
 一瞬の後、黒光りする牙が眼前に迫ったのを見て、ウィルは小さく悲鳴を上げた。
 搬送馬車の木製の屋根へ、獣の爪が食い込んだ。それをすんでの所で避けて、その場へ強かに尻餅をつく。続いて聞こえたその言葉に、ウィルの顔から血の気が引いた。
「それならしかたない。……すべて、捕らえていくだけだ」
 悲鳴を聞いて立ち上がる。ボハイラの蛇が一斉に、残った警官や印刷所の同僚達めがけて牙を剥いたのだ。
 馬のいななく声と、蹄の音。格子から覗けば、ヘッセ達の乗ってきた馬が恐れを成して走り去るのが視界に入る。
 「……逃げろ!」叫ぶ。「街の方へ走るんだ!」同時に、何かが破裂するかのような鈍い音。ウィルの閉じ込められた馬車の壁を破ろうとでもいうように、獣が突進をかけてきているのだ。ウィルは鉄格子を握りしめて揺れをやり過ごすと、外に向かってまた言った。
「――街へ! 俺達じゃどうにもならない、助けを呼んでくれ! ランバルド通りの、ロードルホテルに、――」
 大きな揺れに、舌を噛む。
――人違いです!
 自分の発したその言葉が、聞いた相手の表情が、不意に脳裏へ甦った。
――夜は蛇の力が強まる。お前の居場所が知れた以上、この街のどこにいても安全じゃない。
――だから、人違いですってば!
――ウィル!
 あの時に見た相手の顔は、――明らかな、失望の色に翳っていた。
「ロードル、ホテルの……」
 がちがちと、恐怖で震えて歯が鳴った。
 真っ青な顔をしたもう一人の警官が、発砲しようと銃を構える。しかしその腕が震えで照準を定めきらぬうちに、獣が銃ごとその腕へと食らいついた。鈍い悲鳴が場に響く。腕を食いちぎられた警察官がその場へ崩れ落ちる頃には、他の獣達が周囲をぐるりと囲い込み、既に印刷技師達の退路を絶っていた。
――俺はお前に、嘘は吐かない。お前を害するつもりもない。
(俺があの時、素直に話を聞いていれば)
 こんな事にはならなかっただろうか。自分を助けに来てくれた人々の事まで、巻き込まないで済んだだろうか。
「ウィル、……これ、一体どういう事なんだ? 何が、起きてるんだ」
 問われても、すぐには答えられなかった。
 震えが止まらない。今にも、腰が抜けそうだ。
 だが、――
(みんな、……みんなの事だけは、逃がさなきゃ)
 不意に、ガルガン通りで見た火事の現場を思い出す。
――奴らはお前を見つけるためだけに、この街の民家へ無差別な放火を繰り返してきた。
 あの言葉を、受け入れるのが怖かった。それを信じてしまったら、クラウス・ブランケの語った言葉を全て受け入れてしまったら、自分はこれからどうなるのだろうと、そう考えると震えが来た。
 故郷を出て、一人になって、やっとの事で仕事を見つけた。やっとの事で居場所を得た。仲間を得た。
 その全てを一挙に失うような気がして、それが何より怖かった。
「『王』を、探してるんだろう」
 呟く声が掠れている。しかし冷たい鉄格子を掴み直すと、ウィルは、大きく息を吸いこんだ。
 無くしたくない。
 震えはあったが、不思議と恐れは影を潜めていた。
 守らなければ。
 戦わなければ。
 ――戦わなければ。
「……っ、他人を巻き込んでるんじゃねえよ! お前等が探してるのは俺だろ、俺一人だろ! 『セドナ』は、……俺だ!」
 叫ぶ。
 肩で荒く息をしていた。強く奥歯を噛みしめて、格子の向こうを睨み付ける。
 外の人々に掴みかかっていた『蛇』達が、一斉にウィルを振り返る。獣が二頭、ぐるりと身を捩らせて、ウィルの居る方へと牙を剥いた。身構える。強い衝撃に再度尻餅をつき、ぶつけた腕を庇いながら目を開いて、――ウィルはごくりと唾を呑む。
 破れた馬車の木壁の一部へ、鋭い爪が食い込んでいる。
 その隙間から、獰猛な獣の目玉が四つ、ウィルの方を覗いていたのだ。
 小さな悲鳴が口を突く。全身が強ばって、身じろぎすらも出来なかった。ウィルの名を呼ぶ同僚達の声が遠くに聞こえる。獣の爪が軋んだ嫌な音を立て、木造の壁をこじ開けていく。その爪が、尻餅をついたウィルのすぐ目の前にまで迫っていた。
 壁の隙間にぽかりと広がる夜空は、訳知り顔に澄まして見える。
「……、くそったれ」
 呟いた。そうしてウィルが目を瞑った、次の瞬間。
 爆発のような強い音が、その一帯に破裂した。
 
 * * *
 
「すまない」
 その言葉が何を示すのかを解さないまま、何故だか、そう呟いていた。もう一度浅く息を吐く。
 声が掠れていた。まるで、自分の声ではないかのようだ。
「あまりに多くを背負わせた。――すまない、……イム」

Tora & Thor All Rights Reserved.