廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

011:連行

 強く右肩を打ち付けた。無理矢理に馬車へ押し込められて、思わず体勢を崩したのだ。倒れてぶつけた膝や頬が、昨晩の騒動で出来た傷の痛みを訴える。
 キィ、と蝶番の軋む音。唯一の出入り口が閉ざされると、ウィルに与えられたその空間は、ぽかりと静寂に閉ざされた。側面に空いた鉄格子付きの窓からはぼんやりとした月光が漏れ入っていたが、それだけでは手元の様子もおぼつかない。ただ両腕を拘束する木枠の手錠の感覚だけが、やけにはっきりと胸に落ちた。
「……、  」
 一度小さく口を開いて、しかしウィルは一言も語らぬまま、ずるりと引きずるように身を起こす。眉間に皺が寄る。惨めな思いに零れそうになる涙をぐっと堪えた。そうして御者台のある方の木壁を叩くと、やっとの事でこう話す。
「出してください。俺、放火なんてやってないです。……本当です」
 無論応える声はない。そうしている内に馬車が動き始めたのを感じて、ウィルは奥歯を噛みしめた。
 何度訴えようが無駄なことだと、心はよくよく理解していた。それでも大きく息を吸うと、もう一度、暗がりの壁を叩きつける。
「俺、やってません! やってないんだ、何も――。ああ、ふざけんな、くそったれ!」
 「この街に、家族は?」そう聞いてきたときの、警官達の表情を思い出す。彼らは全て判りきっているとでも言うような顔でいくつかウィルへ問いかけをし、ウィルが下宿に一人で暮らしていること、家族とは連絡が絶えて久しいことなどを聞くと、まずは一言こう言った。「それはちょうどいい」と。
「ウィル・ドイルホーン。君は最後の放火が君の職場周辺で起こった昨晩、同僚と酒を飲んでいたそうだな。だが途中で彼らとは別れ、一人で帰路についたと聞いている。一方で、放火が発生した際に現場付近で君の声を聞いた住民が何人かいるそうなのだが、とすると、君は件の放火現場で、一体何をしていたんだ?」
 始めにそう聞かれたときは、相手が一体何を意図しているのか、ちっとも理解が出来なかった。昨晩の火災現場。ウィルは確かに火が放たれたその瞬間、現場でその様子を目にしていた。それに、近隣の住人に声を聞かれていたというのも頷ける。虚ろな目の人々が、各々手にしたものに火をつけ、手当たり次第に周囲の建物へ火種を投げ入れたのを見て、周囲の人々へ避難を呼びかけるために声を張り上げたからだ。
「昨日の夜は、確かに同僚達よりも先に帰途に就きました。だけどその途中で妙な人影を見て、気になったので後をつけたんです。そうしたら、その、……『犯人』達が印刷所の周囲の家へ火を投げ込み始めたので」
 言いかけて、しかし言葉を詰まらせた。人から獣に姿を変え、すっかり姿を消してしまった『ボハイラの蛇』。躊躇なく彼らを射殺し、「あれは人じゃない」と言い切ったクラウスという名の男の事。滅んだ帝国と、マナという力の存在――。ウィル自身すら信じ切れていない空想小説さながらの出来事を、今、ここで話して聞かせたとして、それが一体何になるというのだろう。そう思ったのだ。しかしウィルが話し始めようとすると、相手は急に顔をしかめ、ウィルの言葉を遮るように、堅い口調でこう言った。
「犯人を見た? そんなことはあり得ない」
「――えっ?」
「ウィル・ドイルホーン。我々の考えを聞かせよう。君は同僚達と別れた後、一人で君の職場へ戻った。理由は何故か。――簡単だ。君は、そこに火を放つために戻ったんだ」
 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。一体誰が、どこに、火をつけたというのだろう? しかしそれからは、全てがあっという間の出来事であった。相手はウィルの言葉になど聞く耳を持たず、控えていた他の警官達にウィルを取り押さえさせると、何でもないかのような口調でこう言ったのだ。
「ふう、これで一件落着だ。このところ事件が続いたことで、善良な一般市民達からは不安の声が絶えないし、かといって我々も、いつまでもこんな事件の犯人捜しをしていられるほど暇ではないのでね。そろそろ片をつけなくてはと思っていたんだよ」
 そう言って、取調員の男が朗らかに笑った。
 背筋が冷える。掌中に嫌な汗を掻く。
 「ち、違います」助けを求めようと左右に視線を泳がせても、ウィルの周囲を取り囲むのは、制服を着込んだ警官ばかりであった。「違います、俺じゃありません!」
 ようやく事態が飲み込めた。彼らは元々ウィルに声をかけたときから、事件の話を聞く事など目的にはしていなかったのだ。
 「ちょうどいい」そう言った相手の言葉の意味が、ようやくウィルの腑に落ちる。
「一連の放火事件が起こった時のアリバイ、今回の事件での目撃証言、それに身元と君の身分。今のところ、今回の事件の犯人とするには、君が最もおあつらえ向きだ。……そうですよね、長官?」
 取調員がそう言って、くるりと後ろを振り返る。同時に、遅れてやってきたもう一人の警察官を見て、ウィルは青ざめ息を呑んだ。
 特徴のある鷲鼻の、こめかみに縫い跡のような傷痕を持つ男――。年の頃は五十前後だろうに、そのどんよりとした眼差しが、それ以上のものを思わせる。
 その目を、その顔を、立ち居振る舞いを、以前どこかで見た気がした。そう思った瞬間、胸元の火傷痕がずきりと、締め付けるように痛んだのだ。
 目眩がして、その場に立ってはいられなかった。ウィルが崩れるようにその場へしゃがみ込むと、ウィルを拘束していた警官達が警戒した様子でウィルの腕を引く。それでもウィルが黙ったままでいると、鷲鼻の男は身軽な様子でウィルの目の前へかがみ込み、微かな声でこう言った。
 「お前がどんなに間抜けでも、魂は全てを覚えているようだ」と。そうして経年の老人かのような目でウィルの事を睨み付けると、冷たい口調でこう続ける。
「ウィル・ドイルホーン。お前を、このアビリオの連続放火実行犯の疑いで拘束させてもらう」
 
(あの鷲鼻の警察官……)
 がたがたと揺れる搬送馬車の中。冷たい壁へ体を預けるように膝を抱いて座り込み、ウィルは恐る恐る息を吐いた。
 暗闇にも、大分目が慣れてきた。けっして広いとは言えないこの馬車の荷台はがらんとして、ウィルの他には何の積み荷も載せてはいない。そこへひゅるりと音を立て、すきま風が吹き込むと、また背筋が粟立った。指先が上手く動かない。そこでようやく、ウィルは自身の体が冷え切っていることに気がついた。だがそれに気づいたところで、毛布の一つもないここでは、ぎゅっと身を縮こまらせること以外に、為す術などありはしなかったのだが。
(俺は本当に、『放火犯として』捕まったのかな。……それとも、)
――お前がどんなに間抜けでも、魂は全てを覚えているようだ。
 威圧感のある声を思い出すと、腕が恐怖で微かに震える。その言葉ばかりが、ウィルの胸中を縦横無尽に駆け巡る。
(あの人は、警官の制服を着てあの場にいた。浮浪者みたな出で立ちをしていたあいつらとは、……『ボハイラの蛇』とは違う。だけど、)
――封印はそれを受け継いだ王の魂に宿る。だから遺された帝国の人間達は、封印を王の魂に宿したまま、来世へと逃がすことにしたんだ。
(……、タマシイ)
 膝を抱く腕に力がこもる。ぼんやりと漏れ入る月明かりを眺めていると、ふと、日中に聞いた忠告の言葉が思い出された。
 夜は出歩くな。夜は蛇の力が強まる。お前の居場所が知れた以上、この街のどこにいても安全じゃない。
 奴らはお前を見つけるためだけに、この街の民家へ無差別な放火を繰り返してきた。
(そんな事を言われたって……、俺に、どうしろって言うんだよ)
 冷え切った指先が、這うように自らの額に触れる。ああ、冷たい。これで少しは、混乱しきった頭も冷やせることだろう――。だがウィルがそう考えた、次の瞬間。
 がたりと大きな揺れを感じて、思わずひとつ悲鳴をこぼす。車輪が石でも踏んだのだろうか。しかしそれきり馬車が止まってしまったのをみて、ウィルは不安にそっと立ち上がった。馬車はグラダの刑務所へ向かうと聞いていたが、そこへ着いたと考えるには、まだ時間が早すぎる。
 鉄格子のはめられた窓から、目を凝らして外を見た。両手で覆えばそれで済んでしまう程度の小窓からでは、路傍に茂る草木の影しか見ることが出来なかったが、御者台の方からは何やら声が聞こえていた。複数の声、……何かを言い争ってでもいるようだ。
「話を聞いてください! ウィルが放火だなんて、絶対何かの間違いなんです!」
 聞き覚えのある声に、思わず胸がずきりと鳴る。
(この声、まさか)
 思わず鉄格子を両手で掴もうとすると、木枠の手錠が格子に当たり、乾いた音を響かせた。それでも格子に頬を当て、必死に外を覗き込む。馬だ。何頭かの馬と、それから何人かの人影が、ウィルを運ぶ馬車の前へ立ち、道を塞いでいるようだ。
「昨日の火事だって、ウィルは火事の事を知らせるために、印刷所の周囲へ声をかけたんだろう? ウィルが犯人なら、そんなことをするもんか。みんながそう証言しているのに、どうして警官隊の連中は誰も聞く耳を持たないんだ!」
「グラダへ連行? 冗談じゃありません! あそこに収容されるのは、懲役刑を科せられた囚人だけじゃないですか。ろくな取り調べもなく、裁判もなく、どうしてウィルがあんなところへ連れて行かれなきゃならないんです!」
 錆びた鉄格子がウィルの頬に、小さなひっかき傷をこしらえる。それでも、しがみついたそこから離れることは出来なかった。「……、ヘッセ」小さく呟く、声が掠れた。「クルト、それにドルマンも」
 格子越しに見た暗闇に、見知った顔が並んでいた。警察隊の馬車の前後に立ちはだかり、声を大にして訴えるのは、日頃、ライジア印刷所で共に働いてきた同僚達だ。
「……ヘッセ!」
 息を吸い、大声でそう呼びかける。すると相手ははっとした様子でウィルの側まで駆け寄って、ウィルの名前を短く呼んだ。
「大丈夫だったか? 怪我は? 安心しろよ、すぐに出してやるからな」
「みんな、どうしてここがわかったんだ」
「マルドリア・ジャーナルの記者から聞いたんだよ。あいつら、たまには良い仕事をしやがる。親方も、すぐにこっちへ来るからな。だから、ひとまず泣きやめって」
 言われて、ウィルは咄嗟に鉄格子から顔を離すと、不自由な手の甲で自分の目許へ触れてみた。濡れてなどいない。顔に熱が籠もるのを感じながら、もう一度格子へ顔を寄せると、まずは一言こう話す。
「泣いてねえ」
「昔は、事あるごとに部屋の隅っこでべそかいてたじゃねえか」
「い、いつまでも子供扱いするなよ」
 言いながら、しかし、ウィルは思わず微笑んでいた。静かに胸をなで下ろす。まだ搬送馬車の錠は下ろされたまま、手には枷をはめられたままとはいえ、こうして気心の知れた仲間達が助けに来てくれたことが、何にも増して心強い事に思われたのだ。
「黙れ! お前達、公務執行妨害で捕まりたいのか!」
「何が公務だ! 無実の人間に罪をなすりつけるような警官なんざ、くそくらえ!」
「そうだ、さっさとウィルを返せ!」
 もう一度、暗がりの外を覗き込む。側に駆け寄ってきたクルトがにこりと笑って、ウィルに手を延べ、こう言った。
「ウィル、……帰ろう」
 言葉が詰まって、上手く答えることが出来なかった。しかしウィルが頷こうとした、その瞬間のことだ。
 がさりと、暗い道を取り囲む、草木を分ける音がした。
 同僚達が、咄嗟に手にしたランプをかざす。何か不気味な影のようなものが、ゆらりと路傍に立ち上がった。一つではない。五つ、六つ……、まだ増えている。影の形はまちまちだが、しかし、そのどれもが確実に、こちらへと近づいてくる。
「おい、今度は一体何だ?」
 御者台にいた警察官が席を立ち、影に向かって銃を向ける。
 何やら、嫌な予感がした。
「駄目だ、……逃げろ!」
 叫ぶ。同時に草木の間から飛び出してきた黒い影が、一直線に、銃を構えた警察官の方へと飛び出した。
 パァン、と、破裂するような発砲音。しかし影は弾を受けた様子もなく駆け、そのまま警察官の首元へと鋭い牙を突き立てる。
「ひっ……狼!」
 誰かが短く悲鳴を上げた。――狼。確かに人へ牙を剥くその姿は狼のようにも思われたが、ウィルは表情を凍らせたまま、恐る恐る首を振る。
「違う――。あれは、『蛇』だ」
 ボハイラの蛇が、追ってきたのだ。

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