廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

010:影のある亡霊

「俺はお前に、嘘は吐かない」
 クラウスの言ったその言葉が、ウィルの脳裏にぐるぐると、濁流のように渦巻いていた。
(俺が、……)
 大股でホテルを飛び出すと、一目散に、安下宿を目指して歩いてゆく。ちらりと頭上を見上げれば、空の端はもううっすらと色づき始めていた。
 秋の日は釣瓶落としだ。しかしまだ、このランバルド通りに立ち並んだガス灯も点火はされていない。夜に出歩くなとは言われたが、陽がすっかり落ちてしまう前には、恐らく下宿に辿り着くだろう。思わずそんな事を考えてしまってから、ウィルは混乱する自らの頭へ手をやった。
(俺が、大昔の王様の生まれ変わり? まさか! 俺が、そんな大層な人のわけあるもんか)
 『ボハイラの蛇』と呼ばれた人々のこと。『マナ』という力のこと。確かに、人の体から真っ黒な血が溢れ出るところを、人の身が獣のそれに移ろう姿を、雷に似た光が、まるでクラウスの意志に従うかのようにきらめく瞬間を、ウィルはその目でしっかと見ていた。
(クラウス・ブランケ……。嘘を吐いているようには見えなかった。からかわれたとも思わない。だけど)
 微かに震える自らの肩を抱き、目を伏せればまた耳元に、得体の知れない追っ手達の声が聞こえてくるかのようだ。
(俺じゃない。昨日は何かの間違いで、巻き込まれただけだ。あんな恐ろしいこと、あれっきりに決まってる)
——昨日の騒動で、お前の居場所が蛇に知れた。
 頭に響く声を掻き消したいばかりに、歩む速度を上げていた。息が弾んで、肺がぜえぜえと鳴っている。一刻も早く家へ帰ろう。窓も扉も閉め切って、今夜くらいは早く休むことにしよう。そうして明日はいつも通りに、仲間の待つライジア印刷所へ出勤するのだ。今日は突然仕事を休んでしまったから、同僚達はさぞかし驚いたことだろう。親方は彼らに、ウィルの事を何と説明したのだろうか……。
——親方がこの前言ってたんだよ。そろそろウィルも、『技師見習い』は卒業する時期かもなってさ。
 不意に同僚の言葉が思い出されて、ウィルはぱしんと音を立て、自らの両頬を手で叩く。
 そうだ。あんまり唐突に色々なことが起こったものだから、大切なことを忘れていた。もう少し。もう少しこの街で頑張れば、技師になれるかもしれないのだ。技師になれば、豊かとは言えないながらも食うには困らない生活が出来る。何も知らなかったウィルに仕事を教え、面倒を見てくれた親方にだって恩返し出来る。
 それでいい。大それた事は望まない。恐ろしい思いもこりごりだ。だが一つ角を曲がったところで、ウィルは思わず足を止めた。
 顔を上げて、息を呑む。目の前には、炎に炙られ煤けたレンガの壁面と、一部がごっそりと焼け落ちた小屋とが立ち並んでいた。
 ガルガン通り。慌てて周囲を見回して、ウィルはごくりと唾を飲む。考えてみれば、三度目の放火の被害を受けたのがまさにこの辺りであったはずだ。
——順序が逆だな。お前は放火の現場を見たせいで、事件に巻き込まれた訳じゃない。むしろここ最近、アビリオの街で相次いだ不審火は全て、ボハイラの蛇がお前を捜すために起こしたことだ。
(この辺りの家も、あいつらに……『ボハイラの蛇』に焼かれたのかな)
 後ずさる。近道だからといって、この通りへ来てしまったことを心底後悔した。
——あいつらは今までも、マナを使ってお前の行方を捜していたんだ。だがこうしてお前の居所が知れた以上、今後は間違いなくお前を標的にしてくるだろう。
 すぐ隣でかさりと乾いた音がしたのを聞いて、ウィルは思わず肩を震わせた。音の出所を探ってみれば、なんということもない。ただ、立てかけられたまま煤けてしまっていた箒が、風に吹かれて崩れ落ちただけの事である。しかし無残な姿に崩れた箒の側に、焼け焦げた小さな子供の靴を見つけると、自らの腕を掴む手に力がこもる。
(連続放火事件で全焼した家屋は、全部で九棟。死傷者は、……あわせたら、一体どれだけの人数になるんだろう)
 背筋が冷えて、堪らなかった。一歩、また一歩と、ウィルの足は焼け跡から距離を取るように、自然と後ずさっている。するとふと、その肩が何かに行き当たった。どうやら人にぶつかったようだ。謝罪しようと咄嗟に振り返り、ウィルは小さく息を呑む。
「君が、ウィル・ドイルホーンか?」
 問われたが、すぐに返事は出来なかった。二人の男が立っている。どちらもウィルの知らない顔だ。だが彼らの持った警棒と、その出で立ちとで、彼らが何者なのかはすぐに理解が出来た。
 詰め襟の短上着に、重そうな革のシャコー帽。夕焼けを背にウィルを見下ろすその二人は、——紛れもなく、このエンデリスタ大公国の警察官のなりをしている。
「ウィル・ドイルホーン、君に聞きたいことがある。……署まで、同行願えるかな?」
 
 * * *
 
 苛立ちを隠せず座り込む。綿の詰まったソファがみしりと鳴り、投げ出した足が床を打つ。そうして握りしめた書面を机の上へ放り出すと、クラウスは取り出した葉巻の先を切り、マッチでそれに火をつけた。その表面が灰に覆われるのを確認もせずに口をつけると、くゆらせた煙を大きく、深く、溜息と共に吐きだした。
 冷え込む室内にじんわりと、煙が渦巻き満ちていく。
 視界が煙で、歪んで見えた。
——人違いです!
 真っ青な顔で肩を震わせ、そう言い切った相手の声が、まだ脳裏に焼き付いている。——人違い。そうだ。確かにクラウス自身も、このアビリオへ辿り着くまでは、いや、当人と顔をつきあわせる一瞬前までは、その可能性も十分考慮に入れていたのだ。事実、今までに何度だって、不確かな情報に縋ってその場へ赴いては期待を裏切られ、何の収穫もないまま帰途へつく事を繰り返してきた。
 だが、今度こそは。
(あいつが……『ウィル』が使ったのは、確かにセドナのマナだった)
 また一つ、大きく深い溜息を吐く。真っ白な灰と化した葉巻の端を灰皿へ落とすと、先程自身が放った一枚の書面が、いびつに折れ曲がったまま不満げに床へ落下した。先刻届いたばかりの、仲間からの電報だ。先にこちらから伝えていたひとまずの現状に対する返答だが、クラウスはそれを拾い上げると、気乗りはしないまま、ホテルの個室に常設された分厚い本へと手を伸ばす。
 『リャマン ノ ショウ 103』。それが、仲間からの返答の全てであった。
(これだから、聖職の人間は)
 心の中で毒づいて、それでも手元に持った厚い本——聖書に同じ章題を見つけると、指定された行へと視線を落とす。そこに綴られた言葉を見て、クラウスはみたび溜息を吐いた。聞き覚えのある章だと思えば、以前にも、読み解き説教をされた覚えのある文面である。
 時を待て。誠意を尽くし信心深く慈しむこと。
 欲を抱き短気を起こすは、もっとも愚とするところなり。
(誠意を尽くせ? くそっ。これ以上、俺にどうしろって言うんだ)
 時なら既に、十分すぎるほどに待ったではないか。そうだ。王を失ってから今日までに、——どれほどの歳月が流れたことか、——。
(蛇に居所を掴まれた以上、もう一刻の猶予もない。いざとなれば力尽くでも、この街から連れ出すより他にない。今後の事を考えれば、本人にとっても……それが、最善の道になるはずだ)
 「あの方は、きっと我らをお許しになるだろう」ふと、堅い口調でそう語った戦友の言葉を思いだす。それを意趣晴らしにも近い思いで笑い飛ばすと、彼は小さな声で呟いた。
「思った以上に、恨まれそうだ」
 自分自身のその言葉が、痛みを伴い胸に落ちる。
 そう簡単に事が進むわけはないのだと、重々承知していたはずだ。それなのに。
 窓の外へと視線をやれば、既にすっかり陽も落ちている。秋の夕暮れは気ぜわしい。ぼんやりと灯るガス灯に照らされた町並みを見下ろすと、クラウスは葉巻の火を消して、壁際にかけた外套へと手を伸ばした。
 夜間は蛇が力を増す。街の様子は仲間の偵察員に見張らせているし、今のところは不穏な雰囲気も、マナの揺らぎも感じはしないが、昨日の今日だ。街へ出て、状況を探ってみた方が良いだろう。
(『ウィル』の下宿は工業地区の東側——。いや、あの様子だと、職場へ戻って仕事仲間と一緒にいる可能性もあるか)
 手入れの済んだ銃を手に取り、ベストの内側へと仕舞い込む。しかし出かけようと窓辺へ背を向けて、クラウスは眉間へ皺を寄せた。廊下へ出る扉のすぐ向こう側から、何やら喧噪が聞こえてきたからだ。
 取り押さえろ。何のつもりだ。邪魔をするな。
 荒々しい口調で言い争ういくつもの声。そして足音。それらは真っ直ぐに廊下を突っ切り、クラウスの居る部屋へと近づくと、——そうと気づいた瞬間に、ノックもないままその扉を開け放つ。
「おいテメェ、——どういう事だ、説明しろ!」
 怒鳴り声と共に飛び込んできたのは、ライジア印刷所の所長、ルドルフであった。その顔を見て、クラウスは咄嗟に構えた銃口を床へ落としたが、ルドルフは少しも臆する様子がない。それどころか、彼は自身を追いかけてきたホテルのボーイ達へひと睨みをきかせると、音を立て、手にした紙を机の上へと叩きつけた。
「突然押しかけて、……一体、何の用だ」
「ウィルが警察にしょっ引かれた」
 間髪入れずに返った答えに、思わず小さく息を呑む。
 クラウスに問い返すいとまも与えずに、ルドルフが続けてこう言った。
「マルドリア・ジャーナルの記者から連絡が入ったんだ。例の連続放火の容疑者として、ウィルが警察隊に捕まった。警察側はウィルが一連の事件の犯人だとほぼ断定していて、今晩中にでもウィルをグラダの刑務所へ収容する予定って話だ。——ウィルは昼間、ここへ訪ねてきてただろう。そこで一体何があった? どうしてこういう事になった。お前なら、何か知ってるんじゃないのか?」
 「容疑者? ……刑務所?」一瞬前まで想像もしていなかった事態に、思わず、呆れにも近い声が漏れた。何を、馬鹿なことを。そう笑い飛ばしてしまいたかったが、冗談ではないようだ。
 一筋縄では行かないにしろ、これはあまりに非道いだろう。誰にともなく、呟いた。
「お前の仕業じゃ、ないのか?」
 眉をしかめて、ルドルフが言う。
「俺があいつに、罪を被せたとでも思ったのか? そんな事をして、俺に何の得がある。……それより、ウィルはどこにいるんだ」
「ミシガー通りの駐屯所だ。うちの印刷所の人間が、もう何人か向かってる。ただもしかすると、既にグラダへ発ったかもしれないが」
「つまりこの暗がりの中を、無防備に移動中かも知れないってわけか」
 低い声でそう言って、また大きく溜息を吐く。そうしてクラウスは腰に帯びた銃を確認すると、すぐさま、暗闇の街へと駆けだした。

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