廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

009:去りし国の出来事 -2-

「ある帝国の話をしよう」
 クラウスが両手の指を組み、背中を丸めるようにして、自らの足の上へと肘をつく。窓を背に腰掛けた彼の顔には陰が射していたが、見定めるようにウィルを見るその目には、なにがしかの凄みがあった。
「アライス・アル・ニール帝国。かつてこのアルマース大陸の大部分を統治下に置き、三十の属州と七十の部族を支配していた巨大な帝国だ。……ところで、何年か前に見つかった、ダーンネル遺跡の話を聞いたことはあるか?」
 「――遺跡?」ウィルが聞き返すと、クラウスが小さく頷いた。言葉を促すようなその仕草を見て、ウィルはおずおずとこう続ける。
「ダーンネル遺跡って、サンダクル高原にあるっていう、古代文明の建造物のことですか?」
 その遺跡のことなら、過去に何度か記事を組んだことがある。不毛の高原から見つかった、豪奢な石造りの遺跡群。現代に残るどの建築技法とも違う独特な手法で建てられたその建造物は、しかし現存のどの文献にもその頃の文化の跡を残さず、発見されるまでの長い年月を誰にも知られることなくうち捨てられていたのだと聞く。確か現在でもその遺跡や文明の研究は続けられていたはずだが、発見された文献の解読がいずれも困難を極めており、なかなか研究が進まないことから、最近ではこの遺跡の名を耳にすることすら久しくなってしまっていた。
「その遺跡が、何か……?」
 聞くと、クラウスはいささか視線を落として、静かな口調でこう言った。
「あの建物も、アライス・アル・ニール帝国が栄華を極めていた頃に建てられた。ミルサードと呼ばれる、かつては礼拝堂だった建物だ。……当時、あの地域には帝王の権威を称えるメシスの花の群生地があったから、人々の信仰の対象になっていたんだ。今とは違って賑わいのある地域だったから、俺も何度か行ったことがある」
 帝王。ミルサード。ウィルには馴染みのない言葉だ。それに何故この男が、研究途中の遺跡のことをこうもよく知っているのか、それがウィルにはわからない。
 しかし何故だか、この男が語る静かな声に、また胸の傷がじくじくと疼く。
「あの帝国が存在していた時代が、現代よりどれくらい昔の事になるのかは――暦が今とは違うから、俺にも正確な年数はわからない。だが帝国は代々賢帝に治められた、それは美しい国だった。国民は皆豊かに暮らし、その生活を支える帝王の事を、大臣から一市民まで誰もが尊び敬った。だが繁栄の一途を辿っていたその国は、ある時、唐突に滅んだんだ」
 クラウスの口調が強くなった。びくりとしたウィルが顔を上げると、この男は苛立たしげに奥歯を噛みしめて、しかし迷わずこう話す。
「いや、正確には滅ぼされた。――『ボハイラの蛇』の奴らの手で」
 『ボハイラの蛇』――。聞いたばかりのその言葉に、ウィルが思わず息を呑む。「事の始まりは、」続けたクラウスの言葉は、随分と堅い。
 何か薄暗い影が、ウィルの目の前を駆け抜けていった。そんな気がした。
「アライス・アル・ニール帝国には、古くから続く儀式があった。代々の王が冠を戴き、帝王の座を受け継ぐ時に、同時にある悪魔を封印する鍵をその身に宿すというものだ。代々の王は封印を守り、同時に善く国を治め、平和を築いていた。
 だが、それを快く思わない組織があった。それが、『ボハイラの蛇』だ。
 奴らは帝王の封印する悪魔をこそ神と崇め、悪魔に施された封印を解こうと暗躍していた。人ならざる物の姿と力を持った奴らが元々何者だったのかは、今となってはわからない。だが『ボハイラの蛇』にとって、代々の封印を守る帝国の王族は邪魔者でしかなかったんだ。
 結果、悪魔の封印が解かれることはなかったが、奴らは徐々にその力を増し、――アライス・アル・ニール帝国最後の王、帝王セドナを、殺したんだ」
 射貫くようなクラウスの視線が、何かを試すかのように、ウィルの目の中を覗き込む。
「まるで、――その時代のことを、見てきたみたいに言うんですね」
 尋ねる声が、うわずった。クラウスはすぐには答えずに、しかし自らの膝についた腕を組み直すと、はっきりとした口調でこう告げる。
「実際、見ていたんだ」
「見ていたって、何を」
「アライス・アル・ニール帝国という巨大な国が、どう滅んでいったのかをだ」
 言われて、ウィルは思わず言葉を呑んだ。「だって、ずっと昔のことなんでしょう?」問い返す言葉が震えている。
 この男が一体何を意図しているのか、ウィルにはちっともわからなかった。滅びた帝国、帝王、悪魔、そして悪魔を崇める『ボハイラの蛇』……。まるで神話の世界の話のようだ。普段のウィルならば、どこで仕入れた夢物語かと、さもすれば一笑に伏したことだろう。
 だがこの時ばかりは、そうすることが出来なかった。昨晩、獣に姿を変えた人々を見た。恐らくウィルは、その夢物語の断片を、既にいくらか目にしているのだ。
「帝王を失った帝国は、たちまち『蛇』に食いつぶされていったが、――帝王が最期まで守り抜いた封印だけは、なんとしてでも、奴らに明け渡すわけにはいかなかった。封印はそれを受け継いだ王の魂に宿る。だから遺された帝国の人間達は、封印を王の魂に宿したまま、来世へと逃がすことにしたんだ。そうして自分たちの身にも、王へ施したものと同じ転生の術をかけた。きたる来世でも王に仕え、封印を解くため再び王の身辺を脅かすであろう、『ボハイラの蛇』と戦うために」
 クラウスの言葉が、ぷつりと途切れる。その目がじっとウィルを見る。
 目を逸らさずには居られなかった。しかし逸らしたウィルの視線は、吸いよせられるかのように、目の前に座るこの男の首元へ留まった。
 「この火傷痕は、」クラウスの声は揺らがない。「転生の術を受けた人間全員に見られる傷痕だ。詳しい理論は俺にはわからないが、アライス・アル・ニールに生まれ帝王と共に転生することを選んだ人間は、この火傷痕と共にそれぞれのマナの力を受け継ぎ、この現世に生を受けた。そうして各々のきっかけを得て覚醒――前世の記憶を取り戻し、仕えるべき王の転生先を探していたんだ」
 ごくりと唾を飲み込んだ。その音がウィルの耳元に、苦々しい何かを残していく。
 「つまり、」両腕に鳥肌が立っていた。「同じ火傷痕を持つ俺も、その、……大昔の王様のために、転生することを選んだ内の一人だと、そう言いたいんですか?」
 クラウスが、静かに首を横へ振る。
「違う。お前だけは、自らの意志とは関わりなく、転生の術を施された」
「でも、今の話じゃ」
「ここまで話しても、まだ思い出せないか?」
――王は逃がさない。王は逃がせない。
「お前のマナが揺らいだ瞬間、すぐにわかった。危うく蛇に先を越されるところだったと思うと癪だが、間に合って本当に良かった」
 そう言って、クラウスがまた短く溜息を吐く。この男はほんの一瞬だけ目を伏せて、しかしまた視線を上げると、青い顔をしたウィルをじっと見た。
――封印の王は殺さない。だが、
「アライス・アル・ニール帝国最後の王は、最もマナに愛されていた。幾種ものマナを身に纏い、誰よりも強大な力を扱った。あの独特なマナの色合いは、今でもはっきりと覚えている。……ウィル、」
――だが王からは、……奪わねば。
「お前が、帝王セドナの生まれ変わりだ」
 途端に両腕へ走った鳥肌に、ウィルは思わず身震いした。慌てて自らの両腕を掻き抱いたが、それでも、気分は一向に治まらない。
 目蓋の裏側にはちらちらと、昨晩の光景が浮かび上がっては消えていく。その耳元に、囁かれた言葉が渦を巻いて流れていった。
 炎のマナがはじかれた。王は逃がせない。王には大きな借りがある。王は逃がさない。ならば両足をへし折ろうか。それとも目玉を潰そうか。封印の王は殺さない。だが王からは、
――みつけた。
 がたりと思わず立ち上がると、厚手のクッションが椅子の上から転がり落ちる。クラウスがいささか驚いた様子でウィルを見たのがわかったが、ウィルはそれに応じなかった。
「も、……もう、帰ります」
 口早に、そう呟いた。
「蛇がお前を捜してる。もうじき陽も落ちるし、一人で出歩くのは危険だ」
「大丈夫です」
「大丈夫って、何が」
「大丈夫です。王様とか、俺、そういうのじゃないです。……ぜ、絶対人違いです!」
 思わず声が大きくなる。そうして咄嗟にクラウスへ背を向け、小走りに、部屋のドアへと手をかけた。横目に見えたクラウスは唖然とした様子で立ち上がり、伸ばそうとした手を、しかし苦々しそうに握りしめる。
 「夜は出歩くな。絶対にだ」クラウスが言った。「夜は蛇の力が強まる。お前の居場所が知れた以上、この街のどこにいても安全じゃない」
「だから、人違いですってば!」
「ウィル!」
 クラウスの、押し殺すような怒鳴り声。それを聞いて思わず、ドアノブは依然として握りしめたまま、ウィルはクラウスの方を振り返った。
 佇むクラウスの表情に、いささか影が落ちている。彼は眉間に皺を寄せ、しかし努めて冷静を装うようかのに声を落ち着かせると、ウィルに向かってこう言った。
「覚醒していないお前に、何もかもすぐに信じろとは言えない。だが危険が迫っているのは事実なんだ。奴らはお前を見つけるためだけに、この街の民家へ無差別な放火を繰り返してきた。今後はもっと、お前に身近なところで事が起こる。だから、」
 最後まで、聞いていることは出来なかった。
 腕に力を込め、重い扉を開け放つ。そうしてウィルは逃げるように、息苦しいその部屋を飛び出した。

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