廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

008:去りし国の出来事 -1-

「や、これはその、何だろうって思って。なんか綺麗だなーとか……はは、……」
 咄嗟のことで、思わず声がうわずった。しかし相手が愛想笑いどころか、ぴくりとも頬を動かさないのを見て、ウィルは思わず冷や汗をかく。相手の堅い表情に、またふと、昨晩の事が思い出されたからだ。
――それは人じゃない。蛇だ。
 例の追っ手を射殺して、感情を読ませぬ表情のまま、そう言い切ったクラウスの言葉を思い出す。
 あの暗い水底から助けてもらったようだと聞き、うっかり警戒心を解いていた。だがよく考えてみれば、今も銃の一丁や二丁、隠し持っていてもおかしくない相手なのではないか――。しかし思わず姿勢を正したウィルの様子など気にするふうもなく、クラウスは溜息混じりに、短く、「怪我は」と問うてくる。
 聞いて、ウィルは思わずきょとんとした。そのあまりに不躾な物言いが、まさかウィルの怪我の具合を案じているものだとは思いもしなかったのだ。しかし被っていた帽子を慌てて手に取ると、まずはぺこりと頭を下げる。
「あの、ええと、お陰様で」
「社交辞令はいらない」
「や、でも、溺れたのまで助けてもらって」
「動き回って問題ないのか」
「あっ、はい。まだちょっと痛いですけど、それほど支障は、」
「……、記憶は?」
 ウィルの言葉を遮るように、クラウスが一言、そう問うた。
 記憶。
 一体何のことを聞かれているのかわからずに、ウィルが思わず口ごもる。脳裏で言葉を反芻してみても、さっぱり思い当たらない。記憶がどうとかと聞こえたが、もしかすると、聞き間違いでもしたのだろうか。
 しかしそうして黙っていると、相手も、怪訝な顔で佇むウィルの視線に気づいたのだろう。クラウスは細く短い溜息を吐くと、相変わらずの仏頂面のまま、ひょいと応接用のソファへ腰を下ろした。そうして仕草で、ウィルにも机を挟んだ正面の席へ腰掛けるように指示をする。
 促されて腰掛けたソファは、思った以上に柔らかい。危うくバランスを崩しそうになったのを必死に踏ん張って、体制を整えると、ウィルはちらりとクラウスの首元へ視線をやった。
 今朝見た物とは別の、しかし質の良いシャツを着込んだ男の首には、今はしっかりとクラバットが巻かれている。ウィルの胸元にあるものとも似た、あの火傷痕を隠しているのだろうか。
――お前の胸の火傷痕。その傷が一体何なのか、知りたいと思ったことはないか?
 目の前に座るこの男が、確かにウィルへ、そう問うた。持って生まれた火傷痕。成長してからはあまり気にしないことに決めていたし、周囲の人々には生まれつきのものとは言わず、火事に遭って出来た傷として通していたが、幼い頃は、これを見る度に母や同郷の人々の視線を思い出し、窮屈な思いで一杯になったものだ。
 この傷は一体何なのだろう。何故こんなものがあるのだろう。これまで何度も自問した。だがまさか、その傷の理由を知る人に出会う日が来ようとは、露とも思っていなかったのに。
「あの、」
 呟くようにそう言って、ウィルは一度、目を伏せた。視線を下げれば、嫌でも、まだじくじくとした傷口の乾かぬ掌や、ひっかき傷の残る腕の痛みを思い出す。
「ここへ来る前、昨日あなたに助けてもらった、運河の方へも寄ってきました。だけど、……あなたに撃たれた人達の姿は、どこにも見当たりませんでした」
 「そうか」クラウスが、低い声でそう言った。「……まあ、そうだろうな」
 二人の間に置かれた背の低い机は、黒く光沢のある石で作られていた。そのてらてらとした輝きが、昨晩運河に見た、水面の色を彷彿とさせる。この石に姿を映した目の前の男は、それを知ってか知らずにか、少しも表情を崩さない。
「この胸の火傷痕がなんなのか、教えてくれるんですよね」
「ああ」
「昨日の夜の事とも、何か関係があるって」
「確かにそう言った」
「あなたが『ボハイラの蛇』と呼んでいた、あの人達は一体何者なんですか? 獣みたいに姿を変えたり、黒い血を流したり、挙げ句の果てには、まるではじめから存在しなかったみたいに姿を消して……」
 そう言うそばから、背筋に冷たい震えが走る。何が何だか理解できぬまま、独りで街を駆けずり回った昨晩の不安を思うと、思わず言葉が、そこで途切れた。続けなくては。そう思うのに、舌が上手く動かない。しかしウィルがそうしていると、意外なことに目の前にいるこの男が、静かな口調でウィルの言葉を引き継いだ。
「昨日も言ったが、『ボハイラの蛇』は人間じゃない。それどころか自身の定まった形も持たず、基本的には個々の意志も意識もない。生き物というより、亡霊のようなものと考えた方が近いだろう」
 「亡霊」ごくりと唾を飲み込んで、ウィルがそう呟くと、クラウスは一度頷いて、それからじっとウィルを見る。それでもウィルが黙ったままで居ると、今度は短くこう問うた。
「あれに襲われたのは、昨日が初めてか?」
「初めてって、そりゃ」
 あんなものに、何度も襲われてはたまらない。しかしクラウスは何でもないかのように、「ならよかった」と言ってから、しかし続けて、「だが昨日の騒動で、お前の居場所が蛇に知れた」とぽつり、呟く。
「あいつらは今までも、マナを使ってお前の行方を捜していたんだ。だがこうして居所が知れた以上、今後は間違いなくお前自身を標的にしてくるだろう」
「俺を、探してた……? それに、標的? ちょ、ちょっと待ってください。昨日のは、俺が偶然放火の現場に居合わせたから、それで口封じに襲われた、とか、そういうことだったんじゃ」
 そうもごもごと口には出しながらも、ウィルの脳裏には次々に、昨晩聞いたわけのわからぬ言葉の集まりが浮かんでは消え、消えてはまた浮かび上がる。
――それとも、お前が封印の王か?
 始めに顔を付き合わせた浮浪者の男は、ウィルにまずそう問いかけた。
――王は逃がさない。王は逃がせない。
――封印の王は殺さない。だが、
「順序が逆だな」
 クラウスが、静かな声でそう言った。
「お前は放火の現場を見たせいで、事件に巻き込まれた訳じゃない。むしろここ最近、アビリオの街で相次いだ不審火は全て、ボハイラの蛇がお前を捜すために起こしたことだ」
 真っ直ぐにウィルを見る目と、目があった。
 クラウスの視線は、揺るがない。
「……この時代には少ないが、この世界には『マナ』と呼ばれる力を扱う人間が居る。マナの力は互いに呼び合いもすれば、反発することもあるが、どちらにしろ、強いマナを身に宿す人間は、近くでマナの大きな揺らぎがあれば何かしらの反応を示すものだ。それで奴らは、目星をつけたこの街で、手当たり次第に炎のマナを放っていた。いつかお前がそのマナに影響されて、自分から身を現すように仕向けたわけだ」
 「マナ……?」自然と眉間に皺が寄る。つまりこの男は、ウィルにもその『マナ』とやらが宿っていると言いたいのだろうか。
 段々と、話が見えなくなってきた。そもそも、自分が何故見知らぬ人間に――この男の言葉を信じるなら、人間ではなく亡霊のようなものとのことだが――付け狙われなくてはならないのか、ウィルにはちっともわからないのだ。
「俺はそんな力、持ってません」
 何故だか急に、怖くなった。
「気づいていないだけだ。無意識だろうが、昨日も使っていた」
――いま、はじけた。
――炎のマナがはじかれた。
「つ、……使って、ません」
「使ったさ。どういう状況だったのかは知らないが、あの印刷所の近くで昨日、確かにマナの共鳴があった。あれは、お前のマナだろう」
――炎のマナがはじかれた。
――マナの力をせいするのは、おなじマナの力だけ。
 眼前に松明を突きつけられて、あの時ウィルは、咄嗟に右手で空を払った。途端に、
 松明そのものが消え失せた。光が小径に瞬いていた。
 ウィルを押さえつけていた男が悲鳴を上げて飛び退くと、代わりに、それまで無心に炎を広げていた人々が、皆一斉にウィルを見た。そして、
――みつけた。
 びくりと大きく肩が震える。思わず目を伏せると、そのまま顔が上げられなかった。冷たい汗が噴き出して、握りしめた掌の内をなぞっていく。目の前に座るこの男は、ウィルの態度を不審に思っただろうか。そうは思ったが、今更取り繕えもしない。
「……、『ウィル』」
 クラウスが、静かな声でぽつりと呼んだ。
「昨日の騒動の事、ボハイラの蛇の事、それに、お前の火傷痕の事……。長い話になる。多分、お前にとっては突拍子もない事ばかりだろうから、全部をすぐには信じられないかもしれない。けど」
 そう言いながらクラウスが、自らの首へ巻いたクラバットへと指をかける。その手が慣れた手つきで布地を離すと、その首元に、ウィルが今朝見たものと寸分違わぬ火傷痕が露わになった。
――それは、『誓い』の証だから。
 聞き覚えのない声は、寄る辺のないまま今も尚、ウィルの耳の奥に彷徨っている。
「俺はお前に、嘘は吐かない。お前を害するつもりもない。……そう思って、聞いてほしい」

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