廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

007:ランバルド通り

(……何も残ってない)
 心の中で呟いて、ウィルはそっと目を伏せた。そうして軋むように痛む自らの手足を見下ろして、「はあ」と思わず溜息を吐く。
 すりむけてしまった膝小僧。青痣になって腫れた頬。ひっかき傷の残る腕。どの傷も昨晩、あの奇妙な人々に追い回されて出来たものだ。恐怖に立った鳥肌を、じっとりとかいた不快な汗を、今もまざまざと思い出す。
 夢ではなかった。それなのに。
 ウィルはいつも通りに賑わう運河沿いを眺めながら、もう一度深く溜息を吐いた。目を疑いたいのは山々だったが、どうやらこれが事実らしい。――汽船から貨物を降ろし、市へと向かう商人達。せかせかと行き交う人々。飛び交う喧噪、笑いあう声。昨晩、そこかしこに腐臭を放つ人間と獣達の死体が積み上がり、黒い血だまりが広がったその場所には既に、何の痕跡も残ってはいなかったのだ。
(昨日は無我夢中で走ってたけど、場所は間違いない。小径を抜けて、あの場所から川へ落ちたんだ)
 擦りむいた膝を庇い、とぼとぼと歩きながら、川沿いを少し南下する。昨日の晩に何か変わったことはなかったかと辺りの人に尋ねてみても、答えは大抵、印刷所の近くで起きた小火の話題ばかりであった。
「おい、ウィル! どうしたんだ? その酷い怪我」
 顔見知りの船頭に声をかけられて、ウィルは思わず頬を掻く。「あの、ちょっと……転んじゃって」と曖昧に答えれば、相手は何やら合点がいった様子で、「ああ!」と大きく頷いた。
「昨日、お前さんの勤め先の方で火事があったって聞いたな。おおかた逃げようとして、慌ててどこかから転がり落ちたんだろう? それにしても、仕事一辺倒のお前が昼間っからこんなところをうろついてるなんて珍しいな。まさか、営業できないほど火事の被害が酷かったのか? ルドルフは大丈夫なのか? え?」
 捲し立てるように、しかし心底心配した様子でそう問われ、ウィルもついつい笑ってしまった。ルドルフの飲み仲間でもあるこの男は、いつも物言いが豪快だ。
「建物の外壁が煤けたみたいだけど、印刷所は無事だよ。親方もぴんぴんしてる。小火の調査で警察が入ったりするらしいけど、今日もいつも通り営業してるはずだ」
「じゃ、お前さんは、……傷病休暇か?」
「うん。まあ、そんなとこ」
「そうかい。ったく、若いくせにだらしねえなぁ!」
 どんっと肩を叩かれて、ウィルは思わずたたらを踏んだ。
 さっさと立ち去る船頭の背中を見送って、一人小さく息を吐く。すると自然と、ウィルから事の次第を聞き終えて、長い溜息を吐いたルドルフのことが思い出された。
 
「あの野郎の、言ったとおりになったって事か」
 ルドルフがこぼしたその言葉に、ウィルは訳がわからず眉根を寄せた。ウィルの下宿でクラウスを見送った、今朝方のことである。
 印刷所近くで起きた火事が、たいした被害もなく済んだ事を聞いたウィルは、逆に問われるまま、昨晩同僚達と別れた後のいきさつを事細かに語って聞かせた。人が獣になっただの、あやうく殺されかかっただのという話を丸々信じてもらえるとは思ってもみなかったのだが、しかしルドルフはただ黙ってウィルの話を聞き、最後に一言そう言ったのだ。「あの野郎の言ったとおり」と。
「あの放火犯のこと、……親方は、何か知ってるんですか?」
 怪訝に思ったウィルがそう問えば、彼は眉間に皺を寄せ、まずは「知らん」と端的に言う。
「知らんが、実はあのクラウスって男が昨日の晩、話があるってんで印刷所へ来てたんだ」
「えっ?」
「本当は、お前に話があるってことだったんだけどな。――ウィル。おまえ、ブランケって家の名前に聞き覚えはないか」
 言われて、ウィルは視線を泳がせ、知人の名前を思い浮かべた。ブランケ。確かにどこかで聞いたことのある名だが、何の知り合いだったのかが思い出せない。知り合い、――いや、もしかすると、もっと違うところで耳にした名前ではないだろうか。例えば仕事上の何か。あるいは自分の組んだ記事の、――
「あ! ブランケって、もしかして」
 ウィルが言えば、ルドルフが深々と頷いた。
 ブランケ。聞いたこともあるはずだ。南オーンエルト発の大陸縦断鉄道建設予定。昨晩同僚達が騒いでいた、その鉄道の建設を計画しているジナーフ鉄道会社を運営する大財閥の名が、確か、ブランケではなかったか。
 クラウス・ブランケ。そう名乗った男の身なりを思い出す。確かにあの男は質の良さそうなシャツに、厚手のベストを羽織っていた。大財閥の御曹司だと、言われてみれば納得も出来る。だが。
「だ、だけどそんな人が、俺なんかに用事って」
「きな臭いだろう。俺もそう思った。それで、ウィル。お前に会わせる前に、いったん俺が話を聞こうと思ってな。印刷所へ呼び出したんだ。だが俺がどれだけ問い詰めたところで、あの野郎、良くないことが迫ってるってだけで、俺にはそれ以上何も話しやしねえ。それですったもんだしているうちに、」
 「今回の事件が起こったわけだ」親方がそう言ったのを聞き、ウィルはごくりと唾を飲み込んだ。
――ウィル・ドイルホーン。元々、お前に用があってきた。
――その傷が一体何なのか、知りたいと思ったことはないか?
 思い出すと不意にまた、胸の火傷痕が軋むように痛み始める。昨日の晩から、訳のわからぬ事ばかりだ。手当をされた擦り傷はまだひりひりとするし、運河の水を飲んだ腹は、まだぷかぷかとした思いがして気分が悪い。しかし、
――雷……。カミナリ! また私たちの邪魔をするのか!
 鈍く響いたその言葉が、もう一度、ウィルの脳裏へ甦る。
 胸を押さえて、俯いた。何か得体の知れないことが、今、身近なところへ渦巻いている。得体の知れない――それでいて恐ろしい、何かが――。
 黙ってしまったウィルを見て、「今日は一日よく休め」と、ルドルフが背中を柔く叩いた。
「小火の件で警察が来てるだろうから、俺は印刷所へ戻らなきゃならねえ。お前は運良く休暇が転がり込んだと思って、一日、ゆっくりするといい。な、そうしろ」
「親方……。忙しい時に、すみません」
「馬鹿だな。ガキが、気をつかってんじゃねえよ」
 そう言って、ルドルフがウィルの頭にぐりぐりと拳を押しつけるので、ウィルは思わず苦笑した。だがウィルの小さな下宿を出ようとしたルドルフが、「行くのか?」と問うた穏やかな言葉を聞いて、すっかり丸まってしまった背中を少し、伸ばしてみせる。
「はい」
 短くそう答えて、握りしめていたメモへと視線を落とす。
 ランバルド通り、ロードルホテル、三一二室。クラウス・ブランケと名乗った男が、押しつけていったあのメモだ。
「あの野郎は保護者がどうとか言いやがったが、やっぱり俺もついて行こうか?」
「大丈夫です。――俺、もう親方が思ってるほど、子供じゃないですよ」
 そう言って、うっすらとだが笑ってみせた。
 正直を言えば今だって、昨晩の事を思い返すと震えが来る。クラウスという男が何を考えているのかわからない今、一人でそこへ向かうことには不安も感じていた。しかし。
(あの人の首筋にあった怪我の痕……。あれも確かに、酷い火傷の痕だった)
 
 人通りの少ない道は歩くな。脇道もやめろ。必ず陽が落ちる前に来い。何もかもあの男の指示に従うつもりはなかったのだが、それでもウィルの足は無意識に、安心を求めて人混みへ向けて歩いていく。そうしてランバルド通りへ入ると、ウィルはそっとシャツの襟元を整え、大きく一つ息を吐いた。
 工業都市アビリオの中でも、特に実業家や資本家達の家屋や別荘が多く建ちならぶ、地元では有数の高級住宅街。田舎町のそれとはいえ、通りかかる貴婦人達は皆上品な日傘をさし、男性は紳士然とした皺のないシャツを着て闊歩している。
(ランバルド通り、ロードルホテル、三一二室……)
 けっして道の中程を歩いていたわけでもないのに、ウィルの隣すれすれを、装飾の成された馬車が追い越していく。冷やかされたのだろうとすぐに知れたが、大して気にはならなかった。確かに場違いなところにいる事を、ウィル自身も重々承知していたからだ。代わりに目当ての建物を見つけると、ウィルはぴんと背筋を伸ばした。
 けっして華美な建物ではないが、本来ならばウィルのような人間には縁のない、高級ホテルである。入ったところで追い返されるのではとも危惧していたが、フロントで例の男の名を出すと、相手も合点がいったように急に愛想が良くなり、部屋まで案内をしてくれる事になった。
 だが、しかし。
「……、あれっ?」
 ウィルが通されたのは、三階にある広い客室であった。室内にはふかふかとした質の良さそうなベッドが一つと、書斎に置くような立派な書き机、それから応接用のソファが広々と置かれている。ざっと見た限りでも、ウィルの借りている安下宿の一室の、十倍以上の広さがあるだろう。だがそのどこにも、クラウスの姿は見当たらない。
 「お客様がご不在の場合でも、室内にてお待ちいただくよう、ご要望をいただいております」そう言って去っていったボーイを見送ると、急に室内が静まりかえった。
 こち、こち、こち、と、壁時計の振り子の音。暇をもてあまして窓の外を覗いてみても、ランバルド通りはただ穏やかな時を刻んでいた。
(印刷所は、今頃どうなってるかな)
 丁度、時計が午後の二時を指している。この時間であればウィルの勤めるライジア印刷所は、夕刊の発行にてんてこまいになっているはずだ。親方が納期を怒鳴り、従業員がかけずり回る。そこへ、いつも騒がしいマルドリア・ジャーナルの記者達が、臨時ニュースだ、スクープだと大騒ぎをしながら飛び込んでくる頃合いだ。
 広い部屋の中を、ぐるりとまた見回してみる。クラウスと名乗った男は、ここで寝泊まりしているのだろうか。見れば書斎の奥に、一つ使い古したトランクが置かれていた。けっして大きな荷物ではない。彼がどこから来たのかはわからないが、もしかすると、アビリオよりそう遠く離れたところから来たわけではないのかもしれない。
 また、机の上には折りたたまれたメモや旅券が無造作に置かれ、散らばっていた。こうして見ると、あまり細かいことには頓着をしない性格なのだろうか。水を飲んだのであろうグラスも、机の上に置かれたままになっている。
 そうしてそのすぐ隣には、何か、奇妙な形の石が置かれていた。
「……?」
 眉根を寄せ、膝を折り、顔を近づけて石を覗き込む。ごつごつとした歪な形の石だ。大きさは大体、手の親指程だろうか。琥珀色に輝くそれは、ウィルにはあまり縁のない、宝石の原石の類のようにも思われる。
(だけどそれだったら、……こんな所へ、無防備に置いてはおかないよなぁ)
 アビリオは元々けっして犯罪の多い街ではないが、ここ最近の治安はお世辞にも良いとは言えない状況だ。昨日の騒動のことを考えても、それはあの男も承知していることだろう。しかしそんな事を考えながら、ウィルがまた石に顔を近づけた、その時だ。
「……、お前、一体何をしてるんだ?」
 入り口の方から聞こえてきた、呆れたようなその声に、ウィルは思わずびくりとする。そうして恐る恐る顔を上げてみれば扉の辺りに、ウィルを呼びつけた張本人、クラウス・ブランケが、腕を組んで立っていた。

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