廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

006:稲穂色のかかし

 暑い夏の日のことである。
 まだ幼い頃のウィルは、林の向こうから聞こえてくる楽しそうな声を聞きながら、音を立てて鼻をすすった。腫れた頬に手を当てると、まだじんじんとした痛みがある。痛い。そう思うと、また両目からぽろぽろと、悔しさを堪えられずに涙が零れ落ちてくる。
(なんでいっつも、俺ばっかり)
 夏虫の満ちる林の中を、独りとぼとぼと歩いて行く。その隣からはまたきゃあきゃあと、友人達が騒ぐ声が聞こえていた。彼らはこの向こうにある小川で、水浴びをしているのだ。ウィルの兄も得意げに、シャツを脱いで川の中へと入っていった。それなのにウィルときたら、ズボンをまくって足の先を濡らしていただけで、このざまだ。
 川岸で洗濯をしていた、母親に見つかってしまったのがまずかった。彼女はウィルが人前で肌をさらすのを、極端に嫌うのだ。その理由は幼いながら、ウィルにも理解のあるところではあったのだが、理不尽さを感じぬ日などない。
(あんなふうに、みんなの前で叩かなくたって……)
 木陰にいてもじんわりとした汗をかく、気温の高い日のことだ。冷たい川の水を浴びることが出来たなら、どんなに気持ちいいだろう。そう考えながら家へと帰り着き、しかしウィルは、中から聞こえてきた罵声に思わず身を竦ませた。
「今度という今度は許さない! ウィルはどうして私の言うことを聞かないの? 帰ってきたら、また叱ってやらなくちゃ。川遊びはするなとあんなに教えたのに!」
「落ち着けよ。別に、例の火傷痕が見えたわけでもないんだろ? 足を濡らして涼むくらい、誰だってやる事じゃないか」
「あの子が、私の言うことを聞かないのが気に入らないのよ! ああ、あんな子を産むんじゃなかった。生まれつきあんな醜い傷痕があるなんて、ろくな子にはならないと思ったわよ! あの火傷みたいな痕のせいで、私が周りになんて言われていると思う? 子供に火をあてて喜ぶ、酷い母親だって言われてるわ!」
「それはお前が、人前でウィルをぞんざいに扱うから、」
「あなたまで、私が悪いとでも言うつもりなの?」
 泣き崩れる母の声。それを宥める父の声。ウィルは戸口から離れると、家に背を向けまたとぼとぼと、今来た道を引き返す。
(ああ、でも……。川の近くにいるのを見られたら、また叱られちゃうかもな……)
 自然とウィルの足が止まる。ほんの一瞬悩んでから、畑の方へと駆け出すと、ウィルはぽつりと立ったカカシの側へしゃがみ込んだ。
 自らのシャツの襟口を両手で掴み、胸を覗き込んでみる。そこには今朝見た時と寸分違わず、――胸元から臍の辺りにまでかけて、赤黒く歪な傷痕が居座っていた。
(どうして、こんなものがあるんだろう)
 生まれつき。生まれた時にはもう既に、この傷はウィルの胸に巣くっていたらしい。そしてその奇妙を一番嫌ったのが、他でもない、ウィルを生んだ母親であった。
「でも、この傷は俺のせいでできたわけじゃないのに」
 頬を膨らませて、呟いた。
「だけど、君はこれから先も、その傷と共に生きていかなきゃならないよ」
 唐突に降ったその声に、ウィルは思わず目を丸くする。てっきり、隣に佇むボロのカカシが、そう答えたのかと思ったのだ。
 はっとなって顔を上げる。ウィルの隣に佇んでいたのは、見慣れたカカシではなかった。夕焼けに赤らむ畑を眺め、静かに微笑むその影は、見知らぬ一人の男性である。ウィルの村の人間ではない。その人は見たこともない艶やかな、装飾のされた衣服を纏い、ウィルと視線を合わせるように、そっとその場へかがみ込む。柔らかな風が駆け抜ける度に、彼の豊かなブロンドが、風に遊ばれ優しくなびいた。
「その傷が、嫌い?」
 低く、穏やかで優しい声。だがウィルは、問われてそっと目を伏せる。
「……きらい。だってこれがあるせいで、いつも厄介者扱いされるんだ」
 ウィルの目許へ、またじわりと涙が浮かぶ。すると男は長い指で、ウィルの涙を柔らかく拭い、しかしぽつりと呟いた。
「その傷を、嫌ってはいけないよ」
 なにがしかの意志を感じさせる、堅い声。ウィルが眉根を寄せると、男はじっとウィルの目を見て、一言一言ゆっくりと、はっきりとした口調でこう続ける。
「その傷を嫌ってはいけない。いつかきっと、君がその傷を誇りに思う日が来るはずだ。それは、『誓い』の証だから」
「……誓い?」
 問い返し、その場へ静かに立ち上がる。するとウィルは、最早子供の頃の姿ではなく、ずきずきと鈍い痛みを訴えるのも、母親に叩かれた頬ではなく、火傷の浮いた胸元になっていた。
「そう、誓いだ。誓いを違えることは出来ない。私たちは贖わなければ」
 相手は微笑みを絶やさない。ウィルは一歩後ずさり、ふと、自分の全身がびっしょりと濡れている事に気がついた。
(そうだ、俺――妙な奴に追われて、それで、運河に落ちて)
――王には大きな借りがある。
 ねっとりとした不快な声。真っ黒な血だまりと、獣に姿を変えた人々のこと。思い出せば思い出すほど、背筋に怖気が走っていく。
――お前が封印の王か?
 ひやりとした汗が額を伝う。しかし目の前の人物はお構いなしにウィルの前へと立ち上がると、そっと目を伏せ、こう言った。
「もう起きなさい。私たちはこの罪悪を、償わなくてはならないからね」
 
 * * *
 
「ウィル、……ウィル!」
 誰かが名を呼ぶ声がする。柔く頬を叩かれて、ウィルはうっすらと目を開けた。なにやら見慣れた天井だ。しかしその手前に、見知った顔が割り込んでくる。
「ウィル、……よかった。気がついたか」
「親方……?」
 呟いて、それから思わず、咳き込んだ。差し出された布へ水を吐く。気分が悪い。だが我が身に起きた出来事を思い出し、それもそうかと納得する。汽船も出入りするような、汚れた運河の水を飲んだのだ。胸が焼け付くようなのも、恐らくそのせいであろう。
 咳き込む度に、手足や頬にできた傷がずきずきと痛む。しかしそうしていると、徐々に、自らの置かれた状況が見えてきた。どうやらここは、ウィルの借りている狭い下宿の室内らしい。明け方だろうか。特に明かりを点してはいない様子だが、漏れ入る光で視界は明るい。狭い室内の半分を占める寝台にはウィルのものではない布が敷かれており、ウィル自身もずぶ濡れになったシャツは脱がされて、厚めの布をかぶっていた。
 胸元の傷痕が、すっかり露わになっている。そっと布を掻き合わせると、寝台のすぐ脇へしゃがみ込んだ親方が、「まだ寒いか?」と問うてくる。
「もう一枚かぶるか? 印刷所に置いてた布を、あるだけ全部持ってきたからな。まだいくらでもあるぞ」
「いえ、……大丈夫です。それより俺、どうやってここに……?」
 水の入ったグラスを渡され、ウィルが小さく礼を言う。しかし額に手を当てやっとの事で体を起こして、
 思わず肩を、震わせた。
 部屋の入り口に佇む、もう一つの人影に気づいたからだ。
「ようやくお目覚めか」
 不機嫌そうな口調で言った男の顔に、覚えがある。
(あの時、)
 ウィルの足下に広がった、真っ黒な血だまりのことを思い出す。
 銃を持ち、ウィルを追ってきた人々のことの事を『ボハイラの蛇』と呼んだ、あの男が目の前にいた。暗がりではよくわからなかったが、年の頃は二十四、五といったところか。ウィルより幾分年上だろう。その男が、生乾きの衣服の上から厚手の布を羽織っただけという奇妙な出で立ちで居るのを見て、ウィルは思わず瞬きした。
 絹だろうか。光沢のあるシャツの袖は破れ、彼の腕に張り付いて、厚手のズボンも縒れてしまっている。男が乱れた赤褐色の髪を掻くのを見て、ウィルは恐る恐る、「あの」と短く声をかけた。
「もしかして、……俺のこと、助けてくれたんですか」
「どこかの馬鹿が、泳げもしないくせに余計なことをしてくれたからな」
 ぶっきらぼうな様子で低く返されて、思わず言葉を詰まらせる。すると男は苦虫を噛み潰したような表情でルドルフを睨み付け、「これで、俺への疑いは晴れたか」とまず言った。
 「疑い?」ウィルが問うと、ルドルフが頷く。
「俺はてっきり、この男がお前をこんな目に遭わせた張本人かと思ったんだが」
「その勘違いのおかげで、俺は水浴びにも帰れなかった」
 苛立たしげに話す声。それを聞きながらウィルはふと、昨晩のことを思い出す。
 響く銃声、雨雲もないのに次々と落ちた雷の光。あの雷は誰かの意志に従うかのように次々に、『ボハイラの蛇』と呼ばれた人とも獣とも判じかねる『何か』を焼いていった。
 誰かの意志に従うかのように――。そんなことが起こりえないことは、ウィルにもよくわかっている。だが、
――雷……。カミナリ! また私たちの邪魔をするのか!
 ウィルを追い回した虚ろな人々は、今ウィルの目の前に立つこの男のことをこそ、『雷』と、そう呼びはしなかったか。
 ウィルが黙ったままでじっと男を見ていると、彼もウィルの視線に気づいたようだった。男はいささか居心地悪そうに視線を泳がせてから、「クラウス・ブランケだ」と短く名乗り、それから続けてこう話す。
「ウィル・ドイルホーン。元々、お前に用があってきた」
「……俺に?」
 怪訝な思いを隠せぬまま、眉根を寄せて問い返す。しかしクラウスと名乗った男は構わずただ頷くと、小さな書き机の上に置いてあったメモへ何事かを書き込んで、それをウィルへと押しつけた。
「俺は一度、宿へ戻る。ランバルド通りにある、ロードルホテルの三一二室だ。ボーイに伝えておくから、その服をどうにかしてから、あとで来い」
「ランバルド通りの、ロードル……? えっ?」
「その紙に書いてある。いいか、人通りの少ない道は歩くな。脇道もやめろ。必ず陽が落ちる前に来い。金輪際、夜に一人で出歩くな。それから、」
 一度にそう言い募り、ちらりとルドルフを一瞥して、「保護者はいらない」と言い捨てる。
 ルドルフが何かを言い返そうと立ち上がったが、クラウスはそれすら意に介さぬ様子で立て付けの悪いドアを押し開けると、さっさと部屋を出て行った。
 あまりに一方的な申しつけに、思わず、唖然とする。しかし薄い壁を通して簡素な作りの階段を下っていく足音を耳にすると、ウィルは、慌ててその後を追いかけた。
「……、なんだ?」
 振り返りざまにクラウスが言う。愛想のない様子にウィルは思わず尻込みしたが、しかし羽織った布を握りしめ、奥歯を噛みしめると、やっとの思いでこう言った。
「お、……俺に用って、なんですか。昨日のことと、何か関係でも、」
「察しが良くて助かる。まだ何も思い出していないらしいことは、残念だが」
 『思い出す』。その言葉が何を示しているのかはわからなかったが、しかし何故だか、心が急いた。ウィルが思わず押し黙ると、相手は小さく溜息を吐いて、それからぽつりとこう言った。
「お前の胸の火傷痕」
「えっ?」
――だけど、君はこれから先も、その傷と共に生きていかなきゃならないよ。
 同時に誰かの声を聞く。
 ああ、そういえば、――何やら妙な、夢を見た。
「その傷が一体何なのか、知りたいと思ったことはないか?」
 そう言い、クラウスがまたウィルに背を向けて、ぎしぎしと鳴る階段を下っていく。その時ちらりと見えた相手の首元に、ウィルは思わずはっとした。
 赤々とした広い火傷痕。それが、立ち去るこの男の首筋にも、はっきりと見て取れたのだ。
――いつかきっと、君がその傷を誇りに思う日が来るはずだ。
 夢の中で聞いたその言葉が、ウィルの脳裏にこだまする。
――それは、『誓い』の証だから。

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