廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

005:『雷』

「許しを請うのは、私の方だ」
 穏やかな声で、呟いた。
 その言葉が既に誰にも届かないことは、承知をしていたつもりであった。どんなに強く望んでも、どんなに強く叫んでも、この声はけっして響かない。
 それでも。
「だが私も君と共に、君たちと共に堅く誓おう。――いつか来る、再会のその日のために」
 
 * * *
 
 ぐっしょりと汗をかいていた。
 額に張り付く髪を払いのけ、必死に大地を蹴り上げる。足は止めない。止められない。必死に先へと手を伸ばし、細い小径を右へと進む。カランと乾いた音が響くのを聞いて、ウィルは思わず舌打ちした。
 空き瓶の類を蹴飛ばしたようだ。苛立たしい。これでまた、相手に居場所を気取られる――。
(くそっ、……どうして!)
 自分が何故駆けているのか、ウィルにはちっともわからなかった。自分の身に何が起きているのか、どうするべきなのか、いくら考えても答えは出ない。ただ自分を追ってやってくる、得体の知れない人々の目が、ウィルの足を動かしていた。
 喉が渇いて仕方がない。水が欲しい。立ち止まって水を飲みたい。うち捨てられていた古い看板に足下をすくわれて、ウィルはその場へ転倒した。砂利の地面へ擦れた膝が、咄嗟に突いた掌が、深く抉れて血を滲ませる。ようやく望み通りに足を止めることができたのに、安堵の思いなど微塵もありはしない。追いつかれる。そう思うと、噛み合わない歯ががちがちと鳴った。
――王は逃がさない。王は逃がせない。
(王って一体、誰のことだ)
――ならば両足をへし折ろうか。それとも目玉を潰そうか。
(どうして、こんな事になったんだ)
 大きく咳き込み、振り返れば、遠くの空に黒い煙が見えている。印刷所の人々は無事だろうか。消火は始まったのだろうか。連続放火の話など、他人事だと思っていた。
 ほんの一瞬前までは。
 膝が震える。肩が揺れる。恐怖で目許に涙が滲んだ。それでもやっとの思いで立ち上がり、闇雲に駆けた小径を抜けると、静まり返った運河が見えてくる。
 川沿いに、冷たい風が吹いていた。ガス灯の火が揺れている。物陰がゆらりぐらりと音もなく移ろうのを見て、ウィルは川の側へと駆け寄った。得体の知れない人々ではあったが、さすがに、水中から現れるようなことはないだろう。そう思ったのだ。しかし黒く月明かりを反射するばかりの水面を見れば、不安ばかりが色を増す。
 大通りへ出るつもりが、追っ手を避けるうちに反対方向へと駆けてきてしまったらしい。昼間は大小様々な船が乗り入れ賑わうこの川岸も、今はただただ暗晦として、人っ子一人いやしない。川沿いに巡らされた、背の低い欄干に手を伸ばす。恐る恐る、川へと下る短い階段を覗いてみれば、船をとどめるためのロープだけが、寄る辺なく水面を漂っていた。
 誰も居ない。
 誰の助けも、期待は出来ない。
「王には、大きな借りがある」
 背後から聞こえた低い声に、びくりと肩を震わせる。
 狂気を孕んだ男の声。震えを隠せぬまま振り返れば、先程と変わらぬにやついた笑みを浮かべた人影が、だらりとそこに立っていた。しかし同じ距離を走ってきたはずのその男は、息を切らせることも、汗を浮かべることもなく、ただ嗤ってそこに居る。
(――最悪だ)
 後ずさり、川の先にかかった無機質な橋を振り返る。見ればその手前にも、虚ろな人影が彷徨っていた。その誰もが皆じっと、ウィルただ一人を見据えている。
 何故こんな事になったのだろう。放火の現場を見てしまったから、だから口封じに追われているのだろうか。
 わからない。
 わからない。けれど。
(このまま、大人しく)
 殺されてなどやるものか。
 男の腕がさっと伸び、ウィルのすぐそばを掠めていく。シャツのボタンが一つ、ちぎれ飛んで夜道に消えた。それでも構わず身をかがめると、手を伸ばし、船をたぐり寄せるのに使う太い木の棹を握りしめる。
(くそっ……!)
 戦わなくては。そう思った。しかしまたすぐ別の人影に、足をすくわれて尻餅をつく。体温を感じない冷たい腕を必死に払いのけても、とがった爪に肌を裂かれた。
「今度の王は、やけに弱いな?」
 そう言って、目の前の男がぐるんと首を傾げてみせる。それを見て、ウィルは歯ぎしりするように奥歯を噛みしめた。渾身の力で、棹を持った腕を振り上げる。
「王とか、何とか、……わけわかんねえ事、言ってんじゃねーよ!」
 焦りに呼吸が荒くなる。咄嗟に体を起こして男の横っ面を殴りつけ、続けて足にまとわりついてきた相手を殴りつけようとして、しかし思わず手を止めた。ウィルの足にしがみつこうとする影が、まるで年端のいかない子供に見えたのだ。だがほんの一瞬躊躇ったウィルを見上げたのは、――眉間に皺を寄せ、いびつな形に口元をゆがませた何かであった。
 一気に汗が噴き出した。その一方で他の人影が、ウィルの腕から棹を取り上げる。手足を取られ、頬を強く殴られた。
 痛みに、気が遠くなる。
「喉をつぶしておこうか?」
「それでもいいが、うっかり首をおってしまわないか」
「それより、マナがめざめては手におえない」
「ナールの所へつれてゆこう。それならまちがえないはずだ」
「ああ、それがいい」
「それがいい」
 話し合う声が遠くに聞こえた。胸の火傷痕が鈍く疼く。やはりこの傷が疼く日に、ろくなことなど起こりはしない。そんなことを、ぼうっとしたまま考えた。
 どうして。どうして。その言葉ばかりが、脳裏を過ぎる。
「……、放せ」
 やっとの事で、そう言った。だが誰の耳にも届かない。
「ナールはいつものところでまつ、と」
「ならばはやく行こう。雷がきてはめんどうだ」
 力任せに腕を引かれたが、ウィルはゆるゆると首を横へ振った。行けない。このまま彼らと共に、行ってはいけない。そう思った。だがそれを見た人々は頬をゆがませて、また腕を振り上げる。
 しかし、その時だ。
 ダァン、と空気を貫く音。それが揺らいだウィルの意識を、現実へと引き戻す。
 見ればつい今し方までウィルの腕を掴んでいた男が、うめき声を上げてゆっくりと、冷たい地面へ倒れていく。その瞳は驚きに見開かれ、額には黒い点が広がった。いや、点ではない――銃創だ。何者かに銃で撃たれたのだ。しかしウィルの目は倒れゆく男に釘付けとなり、咄嗟には、弾の出所を確認しようという所へまで意識を回すことが出来なかった。
 倒れた男の頭から、じわり血液が流れ出す。だがどうにもおかしいのだ。
 生まれてこの方十六年間、人の血は皆赤いものだと思っていた。しかしこの男の頭から流れ出す血は、
 闇夜と同じ、漆黒だ。
 風が吹く。足下へ落ち葉が模様を作る。その風が異臭を運んできたのを感じて、ウィルは口を手で押さえ吐き気を堪えた。酸味の利いた強い匂い。倒れた男の体からは、まるで長く放置され、腐敗し始めた肉のような匂いが漂っている。
 続いて二発、三発と、弾を撃ち込む音が続く。それらが見事にウィルの自由を奪っていた人々に命中するのを、ウィルはただ、立ち尽くしたまま見守るより他になかった。
「……、手間を、かけさせやがって」
 荒い息を吐きながら、そう呟いた低い声。ウィルはびくりと肩を震わせて、それからそっと、声の方へと視線を移す。するとウィルが駆け回ってきた小径から、一人の男が現れた。
 夜目ではよく見えないが、鈍い光沢のあるベストを着込んだ、身なりのいい男であった。装いの割には体格がよい。男は不機嫌そうに眉根を寄せて、右手に提げた拳銃を自らの視線の高さまで上げると、静かな声でこう言った。
「そいつから離れろ」
 そいつ、というのは、ウィルのことだろうか。だがそう問い返す暇もなく、男が続けてこう話す。「まあ、話が通じるわけもないか」と。
 恐る恐る、足下に崩れ落ちた人間達を見下ろしてみる。彼らは皆一様に異臭を放ち、真っ黒な血を流して、――静かに、事切れていた。
「ひ、人を……殺した……?」
 思わず呟き、後ずさる。ああ、なんだってこんな事になったのだろう。自分は一体、何に巻き込まれているのだろう。つい先程までは、いつもと変わらぬ日々を送っていたはずではなかったか。印刷物の版を組み、親方に怒鳴られ、同僚達と他愛もないことを話しながら――。
 唾を飲む。傍らへ静かに佇む黒い運河がてらてらと、その水面へ月を映し出している。
「それは人じゃない」
 銃を構えた男が言った。
「蛇だ。ボハイラの蛇。……この言葉に聞き覚えは?」
 蛇。その言葉に、ウィルを追ってきた虚ろな人々の目を思い出す。だがそこかしこに倒れた彼らの姿は、紛れもなく、人間だ。
「聞き覚えは?」
 もう一度、強い口調でそう問われ、ウィルはびくりと肩を震わせた。慌てて首を横へ振れば、男は短く溜息を吐き、しかし音を立てずにウィルへにじり寄っていた人影へ向けて、また無言で引き金を引いた。銃声が響く。ウィルは息を呑み、自分の両手で耳を押さえた。――その瞬間。
 男が弾切れの銃を下げたのと、今までウィルを取り囲んでいた人々――ボハイラの蛇と呼ばれた一団が男に向かって駆けだしたのとは、ほぼ同時の事であった。
 虚ろな人々が顔をゆがめ、牙をむき、一斉に男へ飛びかかる。まるで獣のようだと思えば、事実、ウィルが瞬きをするその一瞬で、
 ボロを纏った人々の姿が、皆、四足の獣と化していた。
 犬でもなければ狼でもない。歪な姿の獣たち――。ウィルが小さく叫んだが、男は慌てる様子もない。ただつまらなさそうに自らの腰へ手をやり、銃を持ち替えると、また何の躊躇いもなしに向かってくる『それら』へ向けて発砲する。
 黒い血飛沫。鋭い悲鳴。男は身なりからは想像も付かない身軽な動作で獣達の猛襲を避け、また相手へ打ち込んでいく。ひらりと身を翻し、向かってきた獣の首を掴むと、それをまた他の獣へ打ち当てる。獣の爪が男のシャツの袖を裂いたが、男は返す手でその獣の額に向けて、躊躇なくまた発砲した。そして、次の瞬間。
 轟音と共に一筋の光が、ウィルの立つすぐ隣へ墜ちた。ウィルへ手を伸ばしていた虚ろな人を、その光が貫通する。先程、印刷所の前で一度見たのと同じ光。これは、……雷だ。
「雷……。カミナリ! また私たちの邪魔をするのか!」
「邪魔はさせない。お前に王は渡さない!」
 悲鳴にも似た叫び声。すると銃を持った男は喚く彼らを見下すように、ほんの少しだけ口の端を上げ、低い声でこう返す。
「お前等じゃ、役不足だな」
 男の足が地を蹴った。彼がさっと手を振ると、再び、雨でもないのに雷鳴が轟く。墜ちた光が地面を走り、獣達を容赦なく焼き焦がしていく。取り残されたウィルは後ずさりして、しかし川岸に立つ人影に気づくと、はっとした。そこに立つ女は狂気の笑みを浮かべ、しかしその手には危うげに、古びた拳銃を構えている。その標的はウィルではない。銃口は確かに、孤軍奮闘する男の方へと向いていたのだ。
 ずきりと、胸の傷痕が鈍く疼く。
 振り返る。男は未だ、女の動きに気づいていない。ウィルは自らの胸元を握りしめると、咄嗟に、銃を握りしめる女の方へと駆け寄った。
「やめろっ」
 女の指が引き金を引く。銃を持つ腕へ飛びかかる。パァンと乾いた銃声が響いた。しかしそれが当初の軌道を大幅にずらし、空へ向けて発射されたのを見て、ウィルは短く安堵の息を吐く。
 音に気づいてこちらを振り返った、『雷』と呼ばれた男と目があった。だが、同時に、
「邪魔を、するな!」
 女の力とは思えぬ腕力で振り払われて、ウィルはそのまま体勢を崩した。右足が地面に出来た段差を踏み外し、その瞬間にずるりと奇妙な浮遊感が、ウィルの全身を包み込む。
 視界が急に暗転した。否、目の前が、黒々とした夜空で一杯になる。
 仰向けに落ちている。悲鳴が口から零れたのと、派手な水音が響いたのとは、一体どちらが先だっただろう。
「――セドナ!」
 叫ぶ声が聞こえたが、それが何を意味するものかはわからなかった。ただ頭の先からつま先までを一瞬で水に覆われて、上か下かもわからないまま、空気を求めて身を捩る。
 冷たい。
 目を開ける。何も見えない。耐えきれずに息を吐くと、代わりに水が口内を満たした。泳ぎ方など知らなかったが、必死に腕で水を掻く。掴めるものは何もない。
(誰か、)
 ああ、この絶望には覚えがある。真っ暗な闇に包まれながら、あの時も必死に藻掻いていた。誰ともわからず救いを求め、声なき叫びを繰り返した。
 このままこの身が果てるのなら。
 このまま命が絶えるなら。
 伝えなくては。託さなくては。――それとも既に、遅すぎるのか。
(伝える……託す? 一体何を、どこの誰に)
 心の叫びに、そう問うた。だが答えは返らない。
 指先の感覚が薄れていく。体の芯が、凍てつく気がした。

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