廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

004:蛇の目

 白濁した双眸がぎょろりと光ったのを見て、ウィルが小さく悲鳴を上げる。しかし即座に相手の腕が伸び、その細腕からは想像もつかぬ強い力で口元を押さえられると、抗うことも出来ずそのまま地面に頭を打った。
 先程の男だ。ボロを纏った姿は貧弱そうに思われたが、この腕力で馬乗りにされてしまっては、抵抗すらもままならない。
「雷ならば殺さねば。封印の王は殺せない」
 顔を近づけ男が言った。雷? 封印? 何を言われているのかさっぱりだ。しかしウィルがそれを伝えようと身をよじっても、相手はウィルの口を塞いだまま、構う素振りも見せはしない。
「炎で炙ればすぐわかる。マナは必ず共鳴する」
 男の掌中が熱を帯びる。同時に別の足音を聞き、ウィルは顔を青くした。やっとのことで視線を巡らせ見てみれば、小径に面した中通りに、男と同じくボロを纏った数人の人間が、ずらりと、虚ろな様子で立ち尽くしているのが知れたからだ。
「――っ!」
 渾身の力でもがいても、男の腕は緩まない。立ち尽くした虚ろの人々は、まるでウィルのことなど視界に入ってすらいないかのように無関心を決め込んでいる。
 一様に青白い顔をしているが、年格好はそれぞれだ。男も居れば女も居る。皺だらけの老人が居ると思えば、中には年端のいかない子供も交ざっていた。
 そうしてウィルは、彼らが手に持つ物を見て、思わず肩を震わせる。
 彼らは手に手に大切そうに、ゴミくずを抱え込んでいた。見慣れた新聞紙を持つ者もあれば、枯れ枝や生ゴミらしき塊を持っている者もいる。しかし彼らは狂気の笑みを浮かべると、ウィルの目の前で一斉に、それらに火をつけ周囲の家々に放り込んだのである。
(例の放火事件、こいつらが……!)
 マッチを擦る素振りは見られなかった。しかし炎は着実に、民家の壁に走り始めている。
――不作で家を追い出された浮浪者が、腹いせでアビリオの町に火をつけてるって可能性だってあるしよ。
(違う! こいつら、そんな理由じゃ)
 そんな人間らしい理由であったなら。言葉がぽつりと、胸に落ちる。
「その人間も炙るのか」
 静かな声で、ボロを纏った女が言った。男が頷き、薄く笑う。一気に汗が噴き出した。力を込めて相手の腕を振り払おうとするのだが、そうするウィルの目の前に、女の掲げた炎が揺らぐ。
 松明だ。
 女が笑って、手を開く。やめろ、と口を塞がれたまま、声なき声で叫んでいた。だが女の掌中からそれが滑り落ちるのを、妨げることなど出来やしない。
 声の無いまま、もう一度叫ぶ。
――やめろ!
 血の気の引いたウィルの頭上で、今、炎を抱いた松明が、自然落下の権利を得た。
 
 * * *
 
 やめろ!
 短くそう響いたのは、聞き覚えのない声であった。
 耳に届いた声ではない。だがその声なき声を聞き取って、クラウスは思わず息を呑む。
 ライジア印刷所での交渉が平行線に終わり、致し方なくこの場を去ろうと彼が席を立った、矢先の出来事であった。古びた雑然とした作業場に点された蝋燭の火が、ゆらりと揺れて質素な燭台に影を落としている。クラウスが急に窓の方を振り返ったのを見て、ルドルフが怪訝そうに眉根を寄せたのがわかったが、彼は少しも取り合わなかった。
(マナの共鳴? ……、まさか)
 思いもかけないその事態に、心がどくりと音を立てる。手にした荷物を放り出し、急ぎ窓へと駆け寄った。力任せに手近な窓を開け放つと、クラウスは二階の窓から眼下に広がる光景に、思わず奥歯を噛みしめる。
「な、なんだ?」
 同じく窓から身を乗り出して、ルドルフが大きな声を上げた。その反応も当然だろう。
 今、通りの向こうの家々に、――不自然に灯る、炎の明かりがちらついていたのだ。
 まだ小さな火のせいか、周囲の住人達が騒ぐ様子は少しもない。恐らく気づいていないのだろうが、このまま放っておけば大事に至ることは確実だろう。しかしクラウスは炎の奥に動く黒い影に気づき、
 その一点に、瞠目する。
 何か一つに群がるように、暗い影が蠢いていた。ぼろを着てはいるが、どうやら人間の影らしい。――いや、人間の姿をした影であると言うべきか。その茫洋とした、意志を感じえぬ立ち居振る舞いをする影の正体を、彼はよくよく心得ている。
「……、『蛇』」
 吐き捨てるように呟いた。そうしてそれらの人影に抗うように身をよじるもう一人の人物を見て、彼は知らずの内に、その口元を綻ばせる。
――もし生まれ変わる先を選べるのなら、
 壁に亀裂でも入っているのだろうか、すきま風がひゅるひゅると高い音を立てて通っている。
(ほら見ろ、星には)
――その時は星になりたいな。
 やっぱり星には、なりそこなった。
 思わず腕に震えがきた。予想もしない邂逅に、早鐘のように胸が鳴る。また空気がぐらりと揺れた。複数のマナが衝突しているのだ。
 そのマナの色に、覚えがある。
「あれが、『ウィル』だな?」
 問うたが、返答を待つ気は少しもない。また炎が大きくなる。ルドルフが扉の方へととって返すのが視界の端に映ったが、しかしその時には既に、クラウスは窓の桟へと足をかけていた。
「火は任せた」
 時を置かず、躊躇もなしに、二階の窓から身を躍らせる。冷たい夜風が頬をかすめる。石畳の敷かれていない雑草の生い茂る柔い地面に足が着くやいなや、彼はその場を駆けだした。
(今度こそ、本当にお前なのか?)
 幾度となく繰り返したその問いが、胸にぽつりと落ちてくる。
 同時に彼の耳元に、慣れ親しんだ光の束が瞬いた。
  
 * * *
 
 光が小径に瞬いたのと、ウィルの自由を奪っていた男が悲鳴を上げて飛び退いたのとは、ほぼ同時の事であった。
 落とされた松明を避けようと、咄嗟に右手で前を払った。ウィルがしたのはそれだけだ。しかしウィルの見間違いでさえなければ、確かに、その時に瞬いた光が松明を瞬時に灰燼に帰し、目の前から消し去ったのだ。
(今の光、一体……)
 恐怖に動悸がおさまらない。ひとまず顔を焼かれる事だけは免れたようであったが、それでも、ウィルは唖然としたまま周囲を見、慌ててその場に立ち上がった。見れば先程までウィルの方など見向きもせずに周囲の家へ火種を蒔いていた虚ろな人々が、一斉に、こちらを振り返っていたからである。
「いま、はじけた」
「炎のマナがはじかれた」
「それはなぜだ?」
「マナの力をせいするのは、おなじマナの力だけ」
 まるで夜半の森を風が騒がせているかのような、渺々たる囁きが周囲に満ちていた。
 言葉のないまま後ずさり、そっと彼らから距離を取る。しかし背後の建物に燃え移った炎が大きくはぜた、その瞬間、
「みつけた」
 足下に笑いが渦巻いた。咄嗟にそれを見下ろして、ウィルはそのまま絶句する。気づかぬうちにウィルの足下へ這い寄っていた一人の女が、狂気の瞳でウィルの足首に縋り付き、うっすらと微笑んでいたからだ。
「ひっ」
 思わず短く悲鳴が漏れる。顔を上げれば他の人々も唇の端をつり上げて、目を爛々と輝かせているのが見て取れた。
「封印の王は殺せない」
「封印の王は殺さない。だが、」
 背後で炎がまたはぜる。小さな火種が着々と、家屋に燃え広がっているのだろう。
(誰か、)
 心の中で、まず叫ぶ。一瞬前まで予想もしていなかったこの事態に、理解が少しも追いつかない。気分が悪い。得体の知れない恐怖に鳥肌が立つ。逃げなくては。――逃げなくては。それなのにどうしてこの脚は、ちっとも自由に動かないのだろう。
「だが王からは、……奪わねば」
 低く卑屈な笑い声。
 胸がずきりと痛むのと、目眩がしたのは同時であった。空気がぐらりと、歪んで見える。
 ああ、いけない。
 ここにいては、ここで捕らえられては、
――あの誓いを、守れない。
 誰かの声を、その胸に聞いた。
 突如伸びてきた複数の腕を、咄嗟にかがんでやり過ごす。縋り付いた腕を蹴りつけるようにしてその場を退くと、ウィルは足下に落ちていた小石を拾い上げ、渾身の力で、それを近くの家の窓へと投げつけた。
 ガシャンとガラスの割れる音。力の限りに息を吸うと、ありったけの声を張り上げる。
「みんな、起きろ! ――火事だ!」
 「火事だ、火事だぞ」張り裂けんばかりに幾度も叫べば、周囲に並ぶ家々から、微かな物音が聞こえてくる。今ならまだ、火も小さい。被害が大きくならないうちに、どうか異変に気づいてくれと願いながら叫んだが、直後、煤臭い腕に口を塞がれ、ウィルはそのまま息を詰まらせた。すると今度は耳元に、冷たい息が吹きかかる。
「王は逃がさない。王は逃がせない」
「ならば両足をへし折ろうか。それとも目玉を潰そうか」
 ねっとりとした不快な声。しかしその瞬間、再び得体の知れない光が、ウィルの眼前へ轟いた。
 ウィルの腕を掴んだ男が、悲鳴を上げて飛び上がる。垂直に落ちてきたその光が、男の背中を焼いたのだ。事態の不明瞭さは少しも変わらないが、ありがたいことには違いない。その隙にウィルは足を掴む別の手を渾身の力で振り払うと、全速力で駆けだした。
「来たか、雷――!」
 女の叫ぶ声がする。それでも後ろは振り返らない。ウィルは地元の人間すら迷う入り組んだ路地に身を踊らせると、ひたすら前へと突き進んだ。少し走れば大通りに着く。夜更けとはいえあの大通りなら、誰かしら人がいるに違いない。そこで助けを求めよう――。しかしそこまで考えて、ウィルは小さく悲鳴を上げる。まさに今、向かおうとしたその先に、またボロを纏った男の姿を見つけたからだ。
 咄嗟に進む向きを変え、別の小径へ身を躍らせる。男が追いかけてきたのを見ると、ウィルは側にあったゴミ入れを掴み、全力でそれを投げつけた。
 男が足下をすくわれるのを見て、「ざまあみろ」と心の中で吐き捨てる。ただの虚勢だ。こうしている間にも、ウィルの心臓は緊張と恐怖に高鳴っている。だがそうでも思わなければ、足がもつれて動かない。
 男との距離が少し空く。すかさず小径へ入り込む。浮浪者のような身なりをした、彼らは一体何者なのだろう。いくら考えても答えの得られるはずがないことは重々承知していたのだが、考えずにはいられなかった。ウィルをじっと見つめていた、彼らの鋭い瞳の色が、視界にこびりついて離れないのだ。
(見た目はどう見ても人間だった。だけど、あれじゃあまるで)
 瞳孔の開ききった、爛々と輝く鋭い目。
 ――あれではまるで、蛇の目だ。

Tora & Thor All Rights Reserved.