003:揺らぐ火
ひとつ、大きく欠伸をする。するとその瞬間だけ、静寂が更に深みを増した。
涙の浮かんだ目をこすり、暗い夜道を歩いて行く。日中街を賑わす出店は既に片付けられ、通りを出歩く人影は少ない。蒸気機関の走るアビリオから見上げる夜空はあらかた闇に包まれており、行く先を照らす灯りは僅かなガス灯と、静かに輝く月の光だけである。
そんな中を、ウィルはひとりで歩いていた。
「酒を飲まざるは生きるにあらず!」そう息をまいて次の店へと向かっていく同僚達を見送ったのが、ほんの少し前のこと。久しぶりの自由な時間だ。ウィルだって羽目を外して騒ぎたい気持ちは同僚達と少しも変わらなかったのだが、元々が今回のミスも睡眠不足による不注意からきたものであったので、一人で先に安下宿へと帰ることにしたのである。
(これでまた、寝不足が原因でミスをやらかしたりしたら、今度こそ頭が割れるくらい殴られるかもしれないし。……それに)
遠くにはぼんやりとした汽笛の音。近くには秋の虫たちの鳴き声だけが聞こえている。その囁くような音が先程聞いたドルマンの言葉を彷彿とさせ、ウィルは思わずにんまりと、口の両端をつり上げた。
「それにしても、こんな時期に誤植で問題を起こすなんて、お前も本当に馬鹿だよなぁ」
酒を呷りながら何気ない口調でそう言った、同僚の言葉を思い出す。何のことだか理解が出来ず、思わずウィルが聞き返すと、ドルマンは確かにこう言った。「親方から聞いてただろ? ほら、そろそろウィルにも、一面記事の組版を任せたいって話」
全くもって、初耳であった。ウィルがきょとんとした表情のまま首を横に振ると、ドルマンやクルトは一瞬だけ「しまった」とでも言いたげな顔をして、しかし目を輝かせて無言で身を乗り出したウィルに、「俺達がバラしたって事、親方には言うなよ」とまず言った。
「親方がこの前言ってたんだよ。そろそろウィルも、『技師見習い』は卒業する時期かもなってさ。ウィルは頑固だし無鉄砲だし、時々呆れるくらい馬鹿なこともやらかすけど、勉強家で見込みがあるってよ」
「勉強家で、……見込みがある」
ごくりと唾を飲み込み、そう繰り返すと、隣でヘッセが苦笑する。
「おい、頑固で無鉄砲で呆れるくらい馬鹿、ってのもちゃんと聞いとけよ」
「都合の良いことしか耳に入らない、ってのも入れといて」
言えば、同僚達は大声を上げてゲラゲラと笑ってみせた。
「初等学校も出てないお前に、そこまで言ってくれてるんだ。親方をがっかりさせるんじゃねえぞ」と、別れ際にクルトが言った。当たり前だ。金輪際、もうあんな馬鹿なミスで親方に迷惑なんてかけやしない。そう考えて、また一人でにやけた笑いを浮かべると、ウィルは足取り軽く夜道を進む。
ここでやっていこう。ここで生きていこう。幼い頃にそう思った。そうして自分を拾ってくれた親方に、少しでも恩を返したかった。
(見込みがある、って)
そんな事、ウィルの前では一言たりとも言わないくせに。だが思いもよらず他人の口から聞いた言葉は、時として本人から面と向かって言われるよりも、余程威力のあるものだ。
(技師見習いを卒業、ってことはつまり、近々技師として正式に認めてもらえるかもしれないって事だよな? ああ、でも今回の誤植の件のほとぼりが冷めてからか。……いやいや、待つよ。それくらい短いもんさ。『技師』だぞ。技師として認められれば食うには困らないし、印刷所の運営の補佐だってさせてもらえるかもしれない。――ただの下働きでしかなかった、この俺が!)
そうして印刷所で技師として働く、将来の自分を想像してみる。一面記事を得意げに組み、印刷所を切り盛りし、大人になって、……もっともっと先のことを考えれば、独立をして自分の印刷所を立ち上げるような事にもなるかもしれない。運が良ければ結婚をして、家庭を持てる可能性だってある。最近は近隣諸国で市民革命の類が立て続けに起きた事もあり、このエンデリスタ大公国でも貴族が随分弱体化した。今では一部の商人や事業家の方が、貴族達より余程良い生活をしていると聞くし、そんな時勢では、技術者の地位だってけっして低いものではないのだ。
始めに預けられた奉公先が店を畳むことになり、途方に暮れた頃のことを思い出す。実家に戻すと言われたが、そこにウィルの居場所など残っていないことはよく承知していたから、街へ残る手段を必死になって考えた。どうにか働き口を探してもらえる事になってからも、仕事が見つかるまでの間、橋の下に丸まって、がたがたと震えながら眠ったこともあった。
これから自分はどうなるのだろう。どう生きていけばいいのだろう。あの頃は、そう考えると震えが来た。けれど。
不意にひゅるりと風が通り抜けたのを見て、ウィルは薄手のシャツの上から、そっと自らの腕を抱いた。肌寒い。昼間はまだまだ暑さを覚えるこの街も、着々と冬支度を進めているのだろう。かぶっていたキャスケットが飛ばされないようにと肩掛けの中にしまい込み、ウィルはそのまま、ふと、顔をしかめた。
咄嗟に右手で胸を掻く。まるでうかれるウィルを非難するかのように、また胸の火傷痕が疼いたのだ。
(あれっ……)
立ち止まる。しかし疼きがおさまらない。不意に視界が揺らいだのを感じて、ウィルは近くの家の壁へと手をおいた。
背の高い家が建ち並ぶ、住宅街でのことであった。折角良い気分であったのに、一体何だというのだろう。そう自分に問いかけて、ウィルは直後、息を呑む。
――許しを、
言葉が不意に、落ちてきた。
――許しを請うのは、
闇夜の月から細い雲が、音も立てずに離れていった。月の光が辺りに満ちる。足下の影が、濃さを増す。すると、まるでそれを合図にしたかのように、傷の疼きもすんなりと、ウィルの胸をあとにした。
(なんだ、今の……?)
胸元を掴んでいた手を放し、化かされたような気分のまま、自らの目の前で手を握り、また、ほどいてみる。何もおかしな所はない。だがそれなら、先程の締め付けるような胸の疼きは何だったというのだろう。
それに。
(今の声、どこかで)
どこかで聞いた覚えがある。低く、落ち着きのある男の声。優しげだが、どこか悲しみを、孤独な音を孕んだ声。だが頭をひねってみても、それが誰の声であったのかは思い出せない。
きょろきょろと辺りを見回した。だが周囲は相変わらずだ。男の声と思ったのも、もしかすると思い違いであったのだろうか――。しかしそう考えたウィルが再び歩き始めた、その瞬間、
「ああ、……揺らいだ」
また別の声が通りに響いた。
小さく乾いた笑い声。今度こそ声を目で追って、ウィルは思わずぎょっとした。
人の気配はしなかった。しかし、――今、二つの人の目が、建物の僅かな隙間から、じっとウィルを見つめていたのだ。
最早元の色も識別できないような色あせた布の服を纏い、その場に立ち尽くしていたのは、髭を生やした壮年の男であった。盲だろうか。男の両目は白濁しており、既に一切の光を失っているかのように思われた。しかしその目は一寸違わず、ウィルの居る場へ向けられている。
「雷が近づいている。あれは危険だ。排除しなくては」
「えっ?」と思わず聞き返し、慌てて口に手をやった。
雷など、このアビリオではもう随分見ていない。ただの浮浪者かとも思ったが、口調もどこかうわずっているし、気が触れてでもいるのだろうか。それならあまり、関わり合いにならない方が得策だろう。そう考えて俯き、退きながら、しかし続けて聞こえた相手の言葉に、ウィルはごくりと唾を呑む。
「探さなくては。……ああ、だが……。炎で炙ればわかること」
炎。
――どこで何が繋がってるかなんて、案外わからないもんだぜ。
――不作で家を追い出された浮浪者が、腹いせでアビリオの町に火をつけてるって可能性だってあるしよ。
ここ最近アビリオの街を騒がせている、火事の話が脳裏を過ぎる。
はっと顔を上げたそこには既に、男の姿は見られなかった。男のいた小径を覗き込み、そこにも姿がないのを見て、ウィルは思わず眉根を寄せる。
男が先程いた小径は、ウィルもよく知る道であった。道幅が狭くネズミなども多いため、避けて通るようにはしているが、ウィルの世話になっている安下宿から印刷所へ向かうのに、最も近い道なのだ。
(ここ最近の連続放火事件……。まさか、まさかな。こんな所に犯人が出歩いてたんじゃ、警察がとっくに見つけてるだろ)
そう思った。スリやこそ泥の類ならまだしも、まさか、自分にこんなに身近なところで、大きな事件の犯人になど遭遇するわけがない。根拠のない思いが脳裏を過ぎるが、しかしその一方で、不安が胸に渦を巻く。
(きっと、ただの浮浪者だよな。……でも、この道を抜けていったなら)
先にあるのは、ウィルの勤めるライジア印刷所だ。
所長のルドルフは、今晩、印刷所に客が来ると言っていた。しかし別れてから随分時間も経ったことだし、もう家へと帰っただろうか。
それとも。
恐る恐る近づいて、もう一度、そっと小径を覗き込む。やはり先程の男の影は、暗闇の中に見当たらない。それ程素早いようには見えなかったが、奥へと駆けていったのだろうか。
胸がちくりと、また疼く。
肩掛けの鞄の紐を握りしめ、ウィルは、小径へそっと踏みこんだ。暗い。しかし進めば進むほど、そこはいつもと変わらぬ狭い小径に違いなかった。視界は悪いが歩くのに障るほどではなく、たまにかさりと音がしても、大抵はネズミの仕業である。どこかで遅めの夕食でもとっているのだろうか。周囲には時たま、香ばしい匂いすら漂っていた。
だが人影は、ついぞ無い。
先程の男が何者かはよくわからないが、恐らくは、既にこの道を通り過ぎてしまったのだろう。そう考えればほんの少し、肩から力を抜くことが出来た。思わず後を尾ける形となったが、どうせなら、あの男とは鉢合わせぬまま印刷所へ向かってしまいたい。そうして付近に不審な男が居た事と、念のため周囲に気をつけるようにという事だけ、ルドルフへ伝えておくとしよう。
そんな事を考えるうちに、民家の間に走ったこの小径にも終わりが見えてきた。その向こうに見えているのは、印刷所の灯りに違いない。
(親方、やっぱりまだ印刷所にいたんだ)
またほんの少し、緊張が解けた。小さく息を吐く。どうやら小径を歩く間、無意識に息を詰めていたらしい。
ウィルの右足が小径を抜ける。握りしめた拳をそっとほどく。噂の放火犯を見たかもしれないだなんて、やはり、自分の思い違いであったのだろう。しかし改めて大きく息を吸い、
「お前か」
頭上から落ちたその声に、思わず我が身をこわばらせた。
「私の声に気づき、わざわざ私を追ってきた。雷のマナを震わせるのは、お前か」
振り仰いで確認をする猶予はなかった。壁に這っていたのか、どこか上階の窓にでも腰掛けていたのかはわからない。だが声の主は躊躇う様子もなく、頭上からウィルを蹴り飛ばすように着地をすると、尻餅をついたウィルの肩を押さえ込み、低い声でこう問うた。
「それとも、お前が封印の王か?」